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多賀谷氏 木瓜に一文字 /桓武平氏野与党 多賀谷氏は、武蔵国騎西庄多賀谷郷を発祥地とする武蔵七党の野与党の有賀頼基の二男光基を祖とする。 一方、「多賀谷系図」をみると武蔵七党ではあるが桓武平氏良文流村山氏の流れであり、 畠山氏・河越氏らと同族である。南北朝の初めに下総の結城直光は武蔵国足立・埼玉郡で所領を与えられ、 多賀谷氏はその家人となった。 その後、結城満広の子満義(光義)が多賀谷氏を継ぎ、光義は嘉吉元年の結城合戦において、 落城寸前の結城城から結城氏朝の末子成朝を抱いて脱出。佐竹氏を頼って落ちのび、のちに結城家を再興した。 享徳三年の享徳の大乱では、古河公方成氏の命で関東管領上杉憲忠を急襲し、憲忠の首級をあげている。 その賞として、下妻庄内に三十三郷を与えられ、結城氏の家臣ながら関東諸将の会合に列席する地位を得た。 戦国時代、家重は結城氏に反して自立化を図り、天文三年に結城政朝に、同十五年には北条氏康に攻められた。 小田原の役では秀吉に従って所領を保持したが、文禄の役に出仕せず、所領の大半を失って没落した。 【更新2011_12/06】 |
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