大芋衆
菊水に二つ雁
(不詳) |
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篠山盆地の北東部に位置する大芋集落は、多紀郡では早い段階から開けたところで、奈良時代以前(710年以前)は、「草上里」に含まれていた。その後「草上郷」と「草上荘」となるにおよんで「大雲荘」や「村雲荘」、「小野荘」等と細分化された。その頃の地名は「大雲」と書かれている。
南北朝時代から室町時代ころの荘園名として「篠山領地誌」や「篠山封疆志」には、「大芋荘」となっている。また、「丹波志」にも「大芋庄」と書かれていて、「雲」か「芋」かの違いは地名の起りの解釈によるものらしい。
大芋庄は大和朝廷の東北の鎮護として祀られた櫛岩窓神社の神領で、いまも宮代という神社所縁であろう地名の集落がある。江戸時代までは神領内に死人が出ても坂一つ越した他村に運んで弔った。これを「おくもの持越し」といった。室町時代、大芋庄は室町幕府絵所領となり、絵所の土佐家が領家職を有して実質的な領主であった。
大芋氏の存在
この大芋荘から起こった国人が大芋氏であった。室町時代のはじめ応永年間(1394~1428)に大芋式部丞が庄内西端の山上に豊林寺城を構え、丹波守護細川氏の被官として勢力を伸ばした。大芋氏は「大芋」を名字としていることから推して開発領主かと思われるが、『丹波志』に見える大芋氏の系図は先の式部丞から始まり「本姓不詳、家紋は剣カタバミに蔓」と記され、式部丞以前のことは不詳である。
応仁の乱(1467)が起こると、大芋氏は丹波守護職細川氏に属して出陣したようで、乱後に成った家紋集『見聞諸家紋』に「大芋」の「並び雁に菊水」紋が記されている。菊水紋といえば楠木氏の家紋であることから大芋氏を楠木氏の一族、また雁紋から赤井氏の一族などという説もあるが受け入れがたい。
応仁の乱のころ、大芋衆の盟主は大芋氏であったようで、荘内の地侍や名主などと姻戚関係を結んで同族的武士団(党)を結成、戦国時代の兵庫助慶氏は丹波守護職・細川高国から所領安堵状をもらっている。『丹波志』の系図に記された文書の写しなどを見ると着実に勢力を拡大していったようだ。
大芋の諸山城
大芋地域の主城とされる豊林寺城は古い形態のもので、おそらく大芋において最初に築かれた山城と考えられる。
福井(森本)城、白藤(中馬)城、山上城の館などは、堀切、竪堀などが用いられ、戦国期の築城であろう。
豊林寺城址を見る / 豊林寺城址、曲輪 / 豊林寺城址、堀切 / 八ケ尾から見た豊林寺城址
福井(森本)城址 / 福井城址の大堀切 / 福井城址から山上城址を見る / 白藤城址
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大芋衆のこと
ところで、大芋には山田・山崎・山上・山中など「菊に雁」紋を用いる家が多い。いずれも、『諸家紋』の「二つ雁に菊水」を連想させるものである。一方、
森本・中馬・宮林・真継など中世以来であろう名字があり、それぞれ独自の家紋を用いている。大芋集落は旧多紀郡内において、独特な家紋の多いところである。
大芋の諸家のうち、山田家は 『丹波志』 に清和源氏源義光から始まったという家譜と五郎左衛門輝吉から始まる系図が記載された旧家である。また、中馬氏も「清和源氏新田氏流脇屋氏」という系図を伝える旧家で、新田氏流らしい「丸に一つ引」と「鳳凰に並び切竹に笹」紋を用いている。その他、山上氏は「藤原北家秀郷流」といい「菊水に雁」紋、森本氏は「姓不知」で「丸に剣花菱」、古代の真継郷とのゆかりを感じさせる真継氏は「変り袋鹿角」を用いている。諸氏はいずれも大芋氏とは出自を異にする武家であった。
■大芋衆の家紋
大芋・森本・中馬(藤坂)・山上・山田・山崎・山中・宮林・真継・小林
桑形・井口・中馬(山田)
おそらく、『諸家紋』にみえる「大芋」は単独の武家をさすものではなく「大芋衆」と呼ぶべき武士団をさしたものだったのではないか。そして、「大芋衆」の幕紋・旗印が「二つ雁に菊水」だったと思われるのである。
中世の終焉
戦国時代末期に、森本氏が豊林寺城主であった。おそらく、大芋氏に代わって森本氏が大芋衆の中心的存在になっていたようだ。明智光秀の丹波攻めが始まると、大芋衆は波多野氏に属し、豊林寺城を中心に山上城・福井城に拠って明智軍と対した。
天正五年(1577)、大芋からほど近い荒木城の合戦が起こると、大芋衆は荒木氏に援軍を送ったのではなかろうか。猛将荒木氏が激戦ののちに降服すると、大芋衆の面々も明智方に降ったのだろう。乱世を生き抜いた森本氏・山上氏らは、豊臣秀吉が起こした「文禄の役」に際して遠く朝鮮まで出征している。
戦国時代が終わると、大芋衆らはそれぞれ帰農して家名と家紋を現代に伝えた。とはいえ、武家奉公をした者もいたようで、藤井松平家家中の森本家は丹波国多紀郡大雲郷出身と伝え、遠く出羽国上山藩士として続き、現代に家名と家紋(丸に剣花角)を伝えている。
出羽上山藩武家屋敷-森本家住宅(上山市指定文化財)
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■参考 山田氏略系図
・『丹波志』より
『丹波志』に収録された「山田氏系図」の譜には、山田氏と云う、家紋雁カ子今菊二カリ金
系図二多田満仲頼信頼義新羅三郎義光新羅十郎義忠同七郎義高同三之丞義治同河内祐義同兵庫介義長同左京亮義貞建保ノ乱二北条二属シ丹波国大芋郷二居住号山田其子義久其子義廣
足利尊氏卿二属其子民部頼廣其子十郎重氏其子弥助重弘其子十郎右衛門利国其子七郎国光其子采女三郎光久其子丹弥利光其子源太郎利忠其子弥七廣吉其子五郎左衛門輝吉ト有
とあるがそのままには受け入れがたいことを、すでに丹波志の編者が書き記している。おそらく輝吉以前のことは後世の付会であろうか。山田氏系図は、春精の姉妹が荒木山城守室とあり、その子
精永・清虎あたりが戦国時代の山田氏であろう。その後の系図は江戸期のものであろうが、大芋衆を構成した森本・山上・中馬氏らと姻戚関係を結んでいるのは、江戸時代においても
かつての大芋衆としての歴史的連帯があったことを示していて興味深い。
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