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須知氏

(清和源氏か)


 丹波国船井郡須知村に拠った中世武家。『平治物語』に志内六郎景澄が左馬頭(源義朝)の郎党としてあらわれ、南北朝期の『太平記』に足利尊氏が篠八幡で討幕の旗揚げをしたときに馳せ参じた丹波武士のなかに志宇知氏が見えている。『姓氏家系大辞典』の「志宇知(シウチ)」の項には「丹波の豪族にして、清和源氏赤井氏の族也」とある。また「須知(スチ)」の項には「丹波国船井郡須知郷より起こる。當国の大族にして、清和源氏赤井氏と同族なりと云う」とあるが、そのままには受け取れない内容である。
 須知に残る須知氏の屋形上野館跡の一角に須知氏の古い墓石群が祀られ、傍らの墓誌には「六条判官為義二従ヒ、遠州周智郡ヨリ丹州舟井郡迫分村二移リ迫分村ヲ須知村二改メ在中ノ須知城二仍(碑文のママ)」と記されている。この碑文を信じれば、遠江を周智郷を本貫とした武家で、十二世紀の中ころには船井郡に土着していたものであろう。



上野館跡に残る伝須知氏の墓石群・須知城を遠望・須知氏が築いた玉雲寺


須知氏の足跡

 須知氏が拠った須知城は、天永年間(1110~13)に須知慶吉が築城したとも、南北朝時代に須知景光よって 築かれたと伝える。観応三年(1352)、丹波守護代荻野朝忠に与した中津川遠山秀家が須知城を落としたことが 「遠山家文書」から 知られる。南北朝時代、須知氏は北朝方と南朝方の間を揺れ動き、その進退は定まらなかったようだ。  ところで、須知氏の菩提寺という玉雲寺は室町時代の応永二十三年(1416)に景光、あるいは慶吉が建立、 天容梵清を招いて開山にしたという。須知氏の歴代と事績については、明確ならざるところがある。 いずれにしろ、いまに残る須知城に関して言えば戦国時代に築かれたものであろう。
 

・須知城

主郭背後の高石垣・土の城部分の堀切・京都縦貫道丹波ICを見る
・上野館

主郭部の土塁・背後を遮断する大堀切・消失した西曲輪に残る横堀
・上野城

登り虎口・曲輪と切岸・尾根側の堀切と土橋
●須知城オフ、京都丹波の中世城砦をめぐる


 やがて、幕府管領細川京兆家が丹波守護職に任じると須知氏は細川氏に従うようになった。ところが、 延徳元年(1489)丹波守護代職の上原元秀の搾取・押領に反発した大槻・位田・荻野氏らの丹波国人衆が一揆を 結んで武力蜂起した。この位田の乱に須知城主須知源三郎(景基か)も国衆の一人として一揆方に加わり、細川政元の討伐軍と戦い没落した。
 その後、復活した須知氏は明智光秀の丹波攻めが始まると、須知元秀は八木城主内藤氏(貞勝・ジョアン)に 従ったが、のちに離脱して光秀に与した。そして、八上城攻めに加わり、八木城内藤氏を攻めたときに負った 矢傷がもとで天正七年(1579)に死去した。その喪中に明智光秀に攻められ須知城は落城、 須知氏は滅亡したと伝えられる。その詳細は不明ながら、光秀の丹波国衆排斥策による粛清であったろうと思われる。 その後、丹波の国主になった明智光秀は須知城を拠点城郭の一つとして改修され、 主体部は高石垣を有する山城となった。
 須知氏は十二世紀から十六世紀までの四百年、丹波国に紛れもなく足跡を刻む有力国衆であった。しかし、 文書などの一次史料は乏しく記録も断片的、確かな系図も伝来していない須知氏の歴史を編年的にたどることは まことに難しいものとなっている。

須知氏の家紋

 上野館近くの村墓地に須知氏の後裔という須知家の墓所があり、傍らの霊標(墓誌)には歴代の戒名が彫られていた。そして、墓石に刻まれた家紋は「対い雁」であった。また、上野城の西麓にある大圓寺の墓地に営まれた須知家の墓石には「二つ雁」が刻まれていた。他の地方で見つけた須知家の墓石にも家紋は「雁」が刻まれていた。これらのサンプルだけで判断するのは心もとないが、中世を生きた須知氏は「雁」紋を旗印に用いていたと思いたいが、どうだろう。
 ちなみに『籾井家日記』に須知氏の記述があり、赤井氏と同族のように書かれ(先の姓氏家系大辞典の記述は これに拠ったものであろう)旗の文は「雁」とある。 同書は史料として認めるには難があるものだが、家紋に関しては何らかの伝承をもとに記述したのではなかろうか。 2020.11.20
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■参考略系図
・京丹波須知家墓所の霊標より
須知家先祖累代過去一切の諸霊・ 泰山景基大居士 太治五年(西暦1130年)・ 瑞雲景吉大居士 文治五年四月・ 春道景山大居士 永暦元年正月・ 祥岳景光大居士 承安二年九月・ 隆光景保大居士 寿永二年三月・ 大監景義大居士 建仁四年八月・ 義道亮基大居士 承久三年十月・ 渓月義澄大居士 空白・ 秀峰玄基大居士 正慶二年四月七日・ 萬代慶吉大居士 長禄二年八月十七日・ 心覚安継大居士 空白・ 魁山房吉大居士 空白・ 智寛景信大居士 永禄六年四月二十八日・ 松月秀見大居士 天正八年正月十七日  以下略


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