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河内土屋氏
三つ石
(桓武平氏中村氏族)


 土屋氏は桓武平氏良文流で、良文六代の孫にあたる宗平が相模国余綾郡中村荘に住して「中村荘司」の名をもって呼ばれた。宗遠の兄土肥次郎実平は、頼朝の腹心の将で相模国足柄下郡土肥地方を本領とし、宗遠は同じく相模国大住郡土屋荘に住して土屋氏を称するようになった。
 宗遠の子の左衛門尉宗光も父宗遠と同様に鎌倉の有力な御家人の一人であった。承久三年(1221)、承久の乱が起こると宗光は鎌倉方として出陣した。乱後に宗光は、勲功の賞として河内国茨田郡伊香賀郷地頭職を付与されたようだ。ちなみに、鎌倉はじめにおける河内国伊香賀郷は、承久の乱において京方の張本の一人であった能登守藤原秀康の知行するところであった。

河内土屋氏

 さて、土屋氏一族のうちで、相模の本領の地から河内の伊香賀郷に移った最初の人は誰であったのか?
 『系図纂要』や『続群書類従』所収の土屋氏の系図では、宗光のあとは、いずれも「宗光-光時-遠経-貞遠-貞包」とされている。それに対して、土屋家所蔵の略系図では「宗光-光康-康通-沙弥宗春(宗綱)-宗直」となっている。そして、光康に「伊香賀六郎」の称の付記されている。
 光康は光時の弟で、宗光の没後、弥三郎光時は土屋氏の嫡宗を継いで相模国土屋荘の本領に引きつづき住したのに対して、舎弟のひとり六郎光康が内国伊香賀郷の地頭職を継いで、やがて東国からこの地に移り住み「伊香賀六郎」と呼称されるようになったと考えられる。とはいうものの、河内土屋氏の動向は鎌倉末にいたるまで明らかでない。
 建武二年(1335)八月、中先代の乱鎮圧に関東へ下った尊氏の軍勢に従って行動した宗直は、八月十八日・十九日の相模河・片瀬河の合戦に活躍してことが軍忠状から知られる。以後、宗直は足利方の軍勢として活動したことは、軍忠状によって明らかである。また、翌建武三年、足利尊氏は正中二年(1326)の沙弥宗春の譲状の旨を承認して土屋孫次郎宗直に伊香賀郷地頭職を安堵している。譲状には嫡子の弥太郎(宗元か)は「いたづらもの」で次子の孫次郎宗直に惣領職を譲る旨が述べられている。

北河内の国人、土屋氏

 観応の擾乱に際して、宗直は直義より軍勢催促を受けているが、尊氏から中布利(中振)の地を勲功の賞として与えられていることから尊氏方として行動したようだ。しかし、南北朝の争乱が激化していくと、京に近い北河内に所領を有する土屋氏は苦しい進退を余儀なくされたようだ。
 残された文書によれば、正平七年(1352)、楠木正儀らの南党によって京都が一時占拠されると、土屋宗直およびその子息の泰宗・信宗らは楠木正儀の軍に属して行動し、正儀から伊香賀郷の一分地頭職を安堵されているのである。高師秀が河内守護になると、泰宗・信宗らは高氏の手に属して摂津の渡辺・天王寺・吹田などで南朝方と戦っている。文和二年(1353)二月三日、土屋河内守宗直は伊香賀郷地頭職を子息右衛門泰宗に譲っている。その後、康暦元年(1379)八月、浄光(泰宗)は相伝の所領を子息の次郎宗能に譲っている。土屋氏はよく伊香賀郷を伝領しえたのであった、
 応安二年(1369)、幕府に帰順した楠木正儀が河内の守護職になると正儀から本領を安堵された。ところが、永徳二年(1382)正儀が南朝に帰参。新河内守護に補任された畠山基国は宗能に味方に参じる書状を送り、幕府管領斯波義将からも将軍足利義満の御教書が付されて、土屋氏は畠山氏に従うことになった。このように土屋氏はめまぐるしく動く時勢を巧みに読み、ときに北党、あるいは南党と、生き残りを賭けてその去就は揺れ動かざるをえなかった。
 南北朝合一の前年の明徳二年(1391)に、山名氏清・同満幸らが幕府から追討された。いわゆる「明徳の乱」である。この乱に際して、土屋宗能が山名陸奥守氏清に加担したとして伊香賀郷地頭職を没収された。
 山名氏清は和泉・山城の守護であったことから河内にも相当の勢力を有していたものと思われ、土屋氏も無縁ではいられなかったようだ。さらに、同族である出雲の土屋党が満幸に属していたことから、河内土屋氏も氏清に味方したと判断されたものであろう。宗能は無実を主張したが容れられず、伊香賀郷地頭職は召し上げられ進士三郎貞吉に与えられてしまった。中振の地も守護被官人らに押領され、河内土屋氏は没落の憂き目を味わうことになった。応永十年六月、土屋宗能(義照)は伊香賀郷地頭職や中布利の所領を、新三郎清遠に譲り渡している。しかし、それは実態の伴わないものであった。

中世から近世へ

 その後、土屋宗能の子宗吉が畠山持富の被官となり、その子宗怡は畠山政長から所領安堵の下知を賜わり再起することができた。宗怡のころは「応仁の乱」の最中であり、土屋宗怡は政長に従い東軍方として行動したものであろう。
 政長が「明応の政変」で敗死したのち、河内守護は尚順・稙長と継承され、土屋氏は守護畠山氏の被官として行動していた。年不詳の文書によれば、淀川の洪水によって伊香賀の堤が大破して、河水が氾濫した、その堤の修築を畠山氏の有力被官丹下備後守より仰せ付けられている。ついで、天文年間のころ土屋喜左衛門尉(宗仲・宗怡の孫か)が河内守護代遊佐長教より淀川堤の修築を仰せ付けられている。当時、河内守護は畠山稙長・政国・高政であり、土屋氏はかれらに仕える在地領主として伊香賀郷付近の淀川堤修築の任に当たっていたようだ。
 某年、畠山氏が大和の筒井氏と合戦に及んだとき、宗仲も出陣したが不慮の事故で歩行困難となり、家督を嫡男の弥兵衛尉に譲ったらしい。しかし、永禄五年(1562)、畠山高政が紀伊根来寺衆徒らと結んで、三好義賢の軍勢を和泉久米田で打ち破った戦いに弥兵衛尉も出陣、二十六歳の若さで討死を遂げてしまった。弥兵衛尉のあとは弟の兵斎が継ぎ、豊後の竹田城主中川秀成に仕え、元和七年(1612)ごろに豊後国で死去した。
 兵斎の子喜左衛門宗基は、讃岐の高松城主生駒壱岐守高俊に召し出されて七百石を賜わる身となったが、寛永十七年(1640)御家騒動によって生駒家が出羽国由利に左遷されると牢人となり、その後は京都に住して生涯を送った。宗基の養子武大夫宗淳(梶原源左衛門二男)は伊勢国久居の城主藤堂高通に召し出され、代々、久居藤堂家に仕えて明治維新に至った。

・参考資料:河内国土屋家文書について(水野恭一郎)・枚方市史・戦国期の河内国守護と一向一揆勢力(小谷利明)

 この河内土屋氏の家伝を書くきっかけとなったのは、神奈川県立歴史博物館の館報(2014年6月号)の新資料紹介に 「土屋宗直軍忠状 一幅」が掲載されていたことである。館報によれば、土屋家文書はまとまって古書市場に出現し、 某古書店の所有となったものが、平成 七年(1995)東京古典会の入札会目録に 「戦国武将 土屋家書状集 南北朝~室町 五十五通二十五巻」として紹介された。しかし、複数の文書を一括となると 高額で売れないと判断した古書店が、綴合を解いて軸装、個別文書として売りに出したとある。
 むかし、水野恭一郎氏の論文「河内国土屋家文書」を拝読したとき、京都市在住という土屋家の伝来する「土屋文書」40通を 考察されていた。昭和50年(1975)、いまから半世紀前のことである。その後、京都土屋家では代替わりがあり、 伝来の文書も処分されたのであろう。このようにして、貴重な古文書が散逸していくのかと思えば、公的機関(土屋文書の場合であれば京都府とか大阪府)が 一括で購入できなかったものかと、惜しまれることである。
 そのようなことがあって、水野恭一郎氏の論文を下敷として、河内土屋氏の家伝を作成、「家紋World・風雲戦国史」のコンテンツとして アップした次第である。河内土屋氏の伝来文書が散逸したようなことは、これからさらに増えることと思われる。 古文書は文書を伝来してきた家においては言うまでもなく、当該地域における貴重な歴史史料である。 よりよい、いわゆるまとまったカタチで将来に伝えていくためにも、 代々にわたって所持されてきた家の方と自治体の文化財部門担当者との間に「歴史を守り伝える」といった強い意志連携を望むところである。


●垣屋(土屋)氏の家紋─考察



■参考略系図
・参考資料:『尊卑分脈』をベースとし、光康以降は「河内国土屋家文書について」から作成  


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