笹竜胆紋
笹竜胆は源頼朝の紋とされ、清和源氏のシンボルともいわれている。 頼朝が幕府を開いたところである鎌倉市も笹竜胆が市章となっている。 しかし、頼朝が竜胆紋を用いたという確証は、いまのところない。
●笹竜胆は鎌倉市の市章に採用されている


Contents
●鎌倉の主-征夷大将軍
●鎌倉幕府の執権-北条氏

鎌倉武家政権を担った武家(52家)
●武将家割拠地図
●源平時代から鎌倉幕府へ
(年表)
●抗争の鎌倉府-北条氏の謀略
●鎌倉武士のユニット-惣領制
●リアリズムの鎌倉-新文化の勃興
●鎌倉の権力者-執権抄伝
●北条氏の宿敵-三浦一族
●鎌倉の鎮守-鶴岡八幡宮



・各武将の家紋は、代表的なもののみを紹介しています。間違っているものは、容赦なくご指摘ください。
・系図は、尊卑分脈を基本として、系図綜覧・古代豪族系図集覧・戦国大名系譜人名事典・ 歴史読本-戦国大名系譜総覧・日本史小百科-家系、その他出版物のものを参考にして作成しました。

[家伝資料:前記に同じ]


さくらアクセスカウンター
Since:2001/02/10 →改訂:2010_03/28 →2022.01.06
220107_89481
アクセスカウンター
ヘッダイメージ




タイトル



 平安時代末期の12世紀、多くの家に共通の現象が見られた。それは、分裂と対立である。 天皇家では、真実はどうあれ系図上では兄弟になる、崇徳上皇と後白河天皇が対立した。藤原摂関家では 忠実・忠通父子が対立し、忠通・頼長兄弟が抗争した。源平両氏の内部でも同様だった。源氏では為義と義朝父子が 敵味方になり、義朝・為朝らの兄弟が戦った。平家でも。甥の清盛と叔父の忠正とが敵味方になっていた。

王朝時代の終わり

 日本史上、最もダーティなと思える合戦が「保元の乱」で、天皇家から公家・武家まで、それぞれ親子兄弟が 敵味方にわかれ、互いに殺しあった。さらに、三年後には「平治の乱」が起こり、結果、武門平氏が政権を握った。 しかし、天皇・藤原摂関家の抗争からはじまった乱世は、平氏が政権をとってもおさまることはなく、 時代は治承・寿永の乱へと推移していった。
源頼朝像  この間の抗争で、多くの武士があるものは平氏に、あるものは源氏に味方してあい争った。そして、 源平合戦のなかから彼等は自立の道を探り、源頼朝を旗頭に古代から続いた公家政権に変わり、武士が主人公となる 鎌倉政権を樹立した。ここに新しい支配階層が生まれたといえる。かれらの多くは関東の荒れ地を開墾し、 いわゆる「一所懸命」に源平合戦の時代を生き抜いてきた「つわもの」たちであった。また、 血なまぐさい動乱のなかで、雅な王朝時代は確実に終焉を迎えていた。

東国武士の西遷・北遷

 鎌倉武士政権を担った武家は、桓武平氏の後裔いわゆる坂東平氏といわれるものたち、そして藤原秀郷の 後裔とされる家が多い。つまりかれらの祖こそ、都から東国に移住して関東の荒撫地を代々開拓してきたものたちで あった。それに比して、征夷大将軍となって鎌倉幕府を開いた源頼朝と同じ清和源氏系の武家は意外と少ない。 これは、清和源氏が坂東平氏、藤原秀郷の後裔を称する東国武家のなかで、 比較的新しい勢力であったことに起因するようだ。しかし、それは貴種性が高いことの裏返しでもあり、頼朝が 尊敬、推戴されたところでもあった。
 幕府の創設に活躍した関東武士家たちは平氏の没官領を与えられ、拝領した新領地に一族を代官として派した。 さらに、頼朝と奥州藤原氏との合戦が起こり、敗れた奥州藤原氏の領地は戦功として御家人たちに分け与えられた。 かくして、関東御家人たちは西遷・北遷し、東国武士を先祖にする名字と家紋が日本全国へと広がっていた。

………
・源氏山公園の源頼朝像



バック index 戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧