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戦国山城を歩く
近世城郭を彷彿せる在地土豪の城?─ 香山城訪問記
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播磨国たつの市にあるたつの市埋蔵文化財センターが開館五周年を迎えたらしい。その節目の記念特別展
「西播磨の戦国時代 赤松氏の興亡」が開催されている。
●開催日
2011年11月12日〜2012年1月29日 9時から17時
●展示内容
中世城郭の出土遺物・遺構写真・復原図、古文書、肖像画など約200点を展示、
特に播磨最後の合戦の舞台となる英賀城・香山城・長水城の復原図は初公開
その関連行事として記念講演会が二つと城跡見学会二つが催されるとの情報を宍粟城研のTさんよりいただき、
早速、申込んでおいた。そして今日、「香山城を訪ねて」見学会に参加して、宍粟市に遠征してきた。
香山城跡のある香山はわたしの生家の川向う、我が家の血脈にも縁があり、高校時代の三年間、
通学路として自転車で走った懐かしいところだ。
香山廃寺、香山城跡(右手前方山並みの山麓に遺構)を目指して田舎道を歩く見学会一行
香山城は香山集落の西方にある山並みの麓に位置し、在地土豪香山氏が築いた城で
司馬遼太郎氏の『播磨灘物語』に悪党香山氏の城として書かれている。
黒田如水の父兵庫助職隆が出世の糸口をつかむ合戦の件で、悪党香山氏は兵庫助の計略によって討ち取られてしまうのだ。
しかし、香山氏、香山城の歴史を調べるほどに司馬氏の描く香山城の合戦は、
不自然なところが多く、フィクションであったと思わずにいられないものである。
香山城は四年くらい前に一度訪ねたことがあり、そのときは神社周辺をサクッと歩いただけだったが、
石垣が多用されていることに驚いた。その後、木内内則氏の手になる縄張図を入手してさらに驚いた。
香山城は大歳神社を中心として南北に廓が築かれ、城域を構成する曲輪の切岸には石垣が用いられている。
その規模は、香山一帯を領する在地土豪香山氏の城というには壮大に過ぎるものであった。
はたして、香山城はどのような歴史を有する城で、現在に残るような規模の城となった背景にある理由とは何か?。
もっといえば、ほんとうに城だったのか??という疑問があった。
香山城跡縄張図
木内内則氏作成図を転載
今日、香山城見学会に参加して、まずのっけの嬉しいサプライズが香山城の縄張り図と復元想像図を書かれた
木内氏が城跡めぐりのガイドであったことだ。
見学会は、まず城址の東方すぐのところにある香山廃寺へ。
廃寺は『播磨風土記』に「香山の里」と記される往時の香山地域の繁栄のほどをうかがわせるところで、
たつの市最古の五輪塔が残されている。廃寺から城跡の入り口に鎮座する大歳神社はすぐのところにあり、
神社はチョッと見たところ居館址ではなかっろうかと思わせるたたずまいである。
余談ながら、前回訪問したとき大歳神社の拝殿にはられた幕には「三つ巴」と「橘」の紋が描かれていた。
ひょっとして、香山城のあった時代の大歳神社は八幡宮ではなかったか?廃城後に武神から農業神に変わったのでは?
などと思ったが、その確認は今後の課題として残された。
香山廃寺の五輪塔 大歳神社(2007_01_03) 城門の構造を伝えるという大歳神社の長床
さて、木内氏の案内で香山城跡に踏み込むと、山麓より見事な石垣で区画された曲輪群が累々と連なり、その光景は圧巻!
石垣群は一部が崩落しているものの、ほぼ完存といえる状態である。その土木工事量を考えると、
香山城は田舎の小土豪の城とは思われないものである。
北郭の曲輪群を区画する石垣
城道の要所に築かれた埋門跡という遺構 曲輪端部の石塁 北郭に残る古墳跡
香山城の構造をみると、山城というよりは山麓に築かれた里城 (こんな表現があればだが?) というもので、
山腹に造成された宅地分譲地のようといえば分かりやすいのではなかろうか。学芸員の方いわく、山上の尾根筋を調査したが
城跡遺構は発見できなかったとのことなので、詰め城すなわち後方の備えはなかったということである。
であれば、城域後方の山腹に防御施設があるのではなかろうかと縄張り図を見れば、
城域の山側に横堀状の遺構があり、踏み込むと石垣づくりの立派なもので横矢状の屈曲部もあった。ところが、
木内さんいわく、大きなものはイノシシ除けの防御施設であり近世のもので、
さらに上方の斜面に残る横堀状遺構は防御施設というより水の路であったろうとのことだ。
おそらく、後方山上からの水害防止も兼ねた遺構ではないかとのことであった。そして、
南北城郭内のところどころに残る竪堀と目される遺構もその一連のものあるようだ。
南北郭の中央部−城域の要に位置する本丸は、さすがに香山城の中核となるところだけに、
曲面積輪は広く、後背部の切岸も高い、なによりも四段に築かれた本丸斜面側の石垣が見事であった。
本丸部は北方に腰曲輪を配し、斜面側直下には濠であったと思われる池、本丸曲輪群と一線を画すように折れを持った登り石垣状の城道が築かれている。
文字通り、近世城郭を彷彿させる一角を構成していた。
本丸の切岸石垣と後背部の切岸
本丸斜面側に築かれた見応え十分な四段?の石垣
曲輪群後方に残る横堀(水路か?) 本丸直下の池(濠?)跡 本丸直下の曲輪へ至る城道の石垣
北郭のあと南郭を歩いたが、城としては北郭が主体であり、本丸を中核として斜面に広がる曲輪群に
家臣が集住していたのだろうか。
たしかに石垣群、広い曲輪群は圧巻というべきものだったが、城としての防御性は大味なものにみえた。
はたして、香山城はどのような構想で築かれたのだろうか?という疑問が湧き上がる。
南郭中央部の竪堀(水路であろう) 南郭主曲輪の山側切岸
その答えとなったのは、木内氏が描かれた創造復元図にあった。
復元図をみると、現在、香山地区の東方を直流する揖保川が山際を蛇行して流れ、香山城のある一帯は川津として整備されている。
香山氏はそこに集まる物資を押さえる格好のところに城を構え、勢力を保つ資金源としていたのだろう。
そのようにみると、香山城は本丸周辺を香山氏が城砦化し、それ以外のところは家臣、商人らが混住する港町であったと思われた。
すなわち、香山城は戦う城というよりは商売の城(流通拠点)として機能するところだったと思えば、
城らしくない…その構造に納得がいった (もちろん素人判断に過ぎないが…)。
香山城は豊臣秀吉の播磨攻めの仕上げとなった長水城宇野氏攻めに際していち早く城を捨て、
長水城へ奔って豊臣勢に対抗した。
たしかに、香山城では秀吉勢の攻撃を迎え撃つには心もとなかっただろう。
今回の香山城見学会、これまで抱いていた不思議が解けたような…。
また、非常に面白い縄張り、そして城としての機能を実感することができた。
城址は近代に畑として開墾され、つい戦後まで用いられていたという。
その間に香山城に関わる遺物が出土しても無用なものとして廃棄されてきたらしい。
とはいえ、石垣や曲輪、水路など往時の形を留める遺構群は、このまま朽ち果てさせるには惜しいものである。
郷土の戦国史料として整備いただくなど、なんとか後世に残す手だてが講じられることを願ってやまない。
ともあれ、見学会に参加したことで、司馬さんの播磨灘物語に語られる香山城の話は、
明らかなフィクションであったことを再確認した!最大の収穫は、何といっても城郭研究家の木内内則さんと知り合いになったことだ!
ほんとうに、いい人だったな〜。
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たつの市埋蔵文化財センター主催の城跡見学会、つぎは嘉吉の乱において赤松氏滅亡の舞台となった城山城跡である。
ガイド役は同じく城山城跡の復元図を描かれている木内氏、城山城は二度目の登山になるが木内氏との城攻め、楽しみだ。
● 登城 : 2011年12月10日
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[ 香山氏 ]
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
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