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田路氏
九曜
(桓武平氏千葉氏流)


 播磨西部に位置する宍粟市北部の一宮町に但馬国朝来郡田路谷から発祥した田路という名字があり、「トオジ」とよばれている。そのルーツは、桓武平氏良文流千葉常胤に始まるという。
 『朝来志』では「口碑ニヨレハ田路大和守胤直ノ館址ナリ。胤直ハ千葉氏、下総ノ人ナリ。故アリテ来リ居ル。大永七年二月、敵ノ攻ムル所トナリ、防御策尽き遂二自刃ス。実二二十三日と伝」と伝えている。一方、奥田路集落にある田路氏の菩提寺という祥雲寺には田路氏系図1巻と胤直のものという祥雲寺殿明忌梵光大居士の位牌、更に寺裏の墓地には、胤直夫妻のものと伝える五輪塔2基、さらに百回忌に当たり子孫の建立した供養塔が残っており田路胤直が奥田路の領主であったことには間違いなかろう。そして、系図には胤直の息男胤純が播磨草置に居城したと記されている。系図の記述を鵜呑みにはできないが、天文年間、田路胤純が朝来より播磨に進出したということになる。
 田路氏は但馬の田路谷から起こったことは間違いないが、境目の領主として但馬の山名・太田垣氏と宍粟赤松・宇野氏に両属する形で勢力を保った。やがて宍粟の三方庄に所領を得たことで、三方に新たな拠点を構えた。宍粟は播磨と因幡鳥取とを結ぶ因幡街道が南北に通じ、田路氏が本拠とした三方は因幡街道から分岐して朝来に通じる街道の要地にあった。また三方の地は田路谷に比べて拡張性も生産性も高いところであり、嫡流は三方城を本城として周辺に支城を構え、田路谷には庶流が残ったのでは?と。
 いずれにしろ、田路氏の播磨進出は系図の記述以前であり、赤松氏に属して室町時代には三方庄東方に一定の地歩を築いていたことは間違いない。戦国期には長水城主宇野氏に従い、三方庄の中心である三方に本城を構え、草置・高取・生栖などに支城を有する播磨西北部における在地領主になったものであろう。

田路氏ゆかりの史跡

田路氏が本城とした三方城

朝来との境目、草置城・南方の支城、生栖城・田路谷に残る菩提寺―祥雲寺


田路氏の歴史

 伝来する『田路家文書』には、仕えた主君・武将からの感状(軍忠状)が残されている。列記すると赤松惣領家赤松政則、龍野城主赤松政秀、出雲の尼子晴久、山名四天王の一人で武田城主太田垣朝延、羽柴秀吉などの名のある武将からの文書群である。田路氏は赤松惣領家に属していたが、戦国時代には対立する主君でさえ状況に応じて柔軟な対応のできる一族集団であったと思われる。
 文書から田路氏の歴史をたどると、室町時代には播磨国守護・赤松氏の麾下にあり、文明17年(1485)4月2日、守護・赤松政則から3月28日の陰木合戦で粉骨の活躍し、疵を被った田路孫太郎に感状が出されている。さらに、明応八(1499)年には赤松政秀入道性喜から、来栖中山城の攻城に対する感状が出された。天文七年(1538)、田路右馬允が敵陣に攻め入って切り崩したことを宇野政頼から尼子晴久へ注進があり、晴久は9月27日、田路右馬允へ感状を発給した。
 天正期になると、織田信長の軍勢が中国地方に進んできた。中国地方の織田家総大将は羽柴秀吉(筑前守)で、秀吉の弟・秀長は竹田城に拠った。天正八年(1580)のものとされる『羽柴秀吉書状』によれば、秀吉は田路五郎左衛門と安積将監にそれぞれ十人の人夫の派遣を命じていた。
 田路四郎次郎は、この直後、おそらく二日後の10月9日、秀吉のもとを訪れて「宍粟郡河東五郎左衛門尉分五百石」の知行を加えた所領を知行すべしとする書状を受けた。秀吉から知行地を受けたこと、つまり秀吉の家臣になったことがわかる。播磨田路氏はよく乱世を生き抜いたのであった。 一方、朝来の田路城にいた田路一族は祥雲寺系図に、田路胤直は「天正七年二月二十三日 太閤秀吉二攻メラレ落城ス」とみえ、天正年間に秀吉軍にことごとく一掃されたようである。

田路氏の家紋

 さて、田路氏が分かれ出た千葉氏は「月星(曜星)」を家紋とした。その由来は、千葉氏の祖良文が平将門に与して危難に陥ったとき、信仰する妙見さんの加護によって救われた。以後、妙見さんをシンボル化した「月星」紋を用いるようになったといい、その代表的な図柄が「九曜」紋である。いまも田路氏が拠った三方には田路姓が集中、家紋は「九曜」紋が用いられている。
 但馬側に分布する田路姓も「九曜」紋が多数派である。ところが田路氏の名字の地田路谷に田路姓はなく、田路から転じたという藤次姓が多い。その家紋はといえば「抱き茗荷」であった。宍播磨田路氏は羽柴秀吉に仕え、田路谷の田路氏は秀吉に抗い没落した歴史が背景にあるのだろうか。

●田路氏発祥の地、朝来田路谷を歩く
●但馬と播磨を股にかける名字、田路
●北西播磨、田路氏の「天空の城」に登る
●播磨宍粟、三方の山城を攻める
●播磨に田路氏の山城群を訪ねた

■参考略系図
・祥雲寺に伝来する系図は未見。

宍粟郡三方の草置城のはじめとして
下総国千葉城主千葉介常胤の末孫という但馬国朝来郡田路谷高倉山城主田路大和守胤直の嫡男 田路隠岐守胤純が天文七年(1538)三月に宍粟郡に移りはじめて城を築いた。胤純は長水城主の 被官となり永禄元年(1558)四月に卒した。 胤純の嫡男若狭守胤親は高取山城主となり、二男信濃守貞政・三男五左衛門貞村・四男傳兵衛光朝らは 三方町山(三方城であろう)へ行ったという。



草置城は播但国境に位置する交通の要衝にあり、竹田城の出城ともいわれる。 田路氏は朝来と宍粟の境目の領主として、但馬の太田垣氏、宍粟の宇野氏の 双方に誼を通じながら、福知の高取城と連携して所領の保全に努めたものであろう。


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