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戦国山城を歩く
浦上氏、最期の当主が拠ったという─ 山下城址訪問記
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梅雨明けの酷暑のなか、加西市観光まちづくり協会が主催された“ふるさと再発見ハイキング 「山下城跡登閣と古刹常行院」 ”
に参加して山下城跡に登った。
山下城跡の存在は、迂闊にも今回のイベント告知ではじめて知り、城主が浦上久松であったということも同様にはじめて知った。
城址に関しては予備知識のまったくない白紙状態で、修験系の寺院に始まるという常行院にも
惹かれて申し込んだのだった。
ともあれ集合場所の北条鉄道北条町駅へ駆けつけ参加者名簿に記入、見れば参加者は十人ほど、
昔懐かしい一両仕立てのディーゼルカーに乗って一つ目の播磨横田駅まで移動する。
横田駅からはのどかな田圃風景の広がる田舎道を常行院、山下城を目指してテクテク、ワイワイいいながら
四十分のハイキング。われわれの歩いた道は街道の面影を残し、ところどころに石仏もぽつねんと佇んでいたりする。
ボランティアガイドさんの解説によれば、播磨と摂津を結ぶ古道であったという。
常行寺へ野中のハイキング 加西は石仏の多い町である
なるほど、法道仙人が開いたという由緒をもつ
修験系の寺院−常行院(かつてあった田富山田福寺の塔頭の一つ)、そのすぐ南の小山に遺構が残る山下城ともに、
人馬や荷物が往来する古道を押さえる要地に位置しているのであった。かつて、一帯には田富山田福寺を中心として
数多の塔頭が軒を並べていたが、いまではわずかに常行院が残るばかりになったとのことである。
ところで、法道仙人といえば播磨から丹波にかけて
散在する修験系の古刹のほとんどが開祖と仰ぐ超人で、はたして実在したのか?といえば、よく分からない伝説上の
人物である。丹波に住む者にすれば、「お!ここも法道仙人の開基か」と懐かしく思われた。
聖徳太子ゆかりの古刹−常行寺に到着
山下城と常行院のある一帯を地図で見ると、常行院を囲むように小山群が島状に隆起していて、その南西の小山上に
山下城址は存在している。おそらく、往時は田福寺一帯も城域に含まれていたものと思われ、周囲の島状の小山にも
城砦跡が眠っているのではなかろうか。田福寺の由来記を見ると、南北朝時代、当地の武士浦上太郎左衛門が寺を焼き払って
城郭を構えたとあり、一帯が城郭化されていたという伝承があるようだ。
さて、山下城址である。
現在、大手となっている谷筋一帯は、かつて湿地帯を呈して天然の濠になっていたという。いまも、登り口を固めるように
横堀(一部に水)が残っており、そこから見える中腹には曲輪跡であろう平坦地が階段状に見えている。
さらに山上の主郭まで見通すことができるなど、城址一帯はきれいに整備されていて、聞けば地元有志の方々が手弁当で
手入れをされた結果だという。
登り口の横堀 中腹の井戸跡 屋敷跡曲輪群
城址に足を踏み込むと、ところどころに立てられた「マムシに注意」というカンバンが気になったが、山麓の堀跡をはじめ、
登り道の途中の井戸跡、山腹の館址・曲輪群など、いずれも残存状態は良好である。現在の登山道は、城跡の整備に際して
拡張したものという。配布資料の縄張りを見るかぎり、往時の城道がそのまま残っているように思われた。
主郭より南方山麓を眺望する
城道は北側尾根に築かれた四の曲輪(北曲輪)への道と分岐して、二の丸切岸に沿って主郭へと続いている。
二の丸曲輪は城道に対する横矢掛けを呈し、きれいに均された二の丸曲輪からは大手を一望し、北曲輪も眼下におさめる
重要な部分となっている。二の丸曲輪から南方に伸びる帯曲輪が主郭を取り巻き、さらに山腹にも畝状竪掘を
伴った帯曲輪が築かれている。加えて北の曲輪と二の丸の間を土塁を伴った横堀が築かれるなど、先進の築城技術で
築かれた城にみえた。
山頂の主郭は100坪以上あろうかという広さで、虎口は北西部に開き、二の丸と平行する城道が登ってきている。
かつて生い茂っていたという樹木もきれいに伐採されていて、南方から西方までが一望である。
主郭を中心とした曲輪群の配置や横堀・畝堀の存在、主郭からの眺望などから山下城は西方を意識した備えになっているように思われた。
二の丸に沿って主郭に続く城道 二の丸から主郭を見る 主郭から二の丸を見る
なかなか見どころの多い山下城の城主浦上久松はといえば、
田富寺の由緒に記されている浦上太郎左衛門の子孫のようにも思われるがよく分からない。
史料を調べてみると、『播磨鑑』などには播磨から備前に勢力を張った浦上氏の嫡流に連なる人物で、
別所氏に味方して三木合戦で滅亡したという。
そもそも播磨の浦上氏は赤松氏の家老というべき存在から下剋上で主家を凌駕して、
ついには播磨西部から備前にかけて勢力を張る戦国大名になった家である。戦国時代末期に宇喜多氏の下剋上、
黒田氏の攻撃などによって没落、その姿はまるで消え入るように歴史の表舞台から見えなくなった。
浦上久松はそのような浦上氏の最後の当主誠宗の子供で、塩赤松氏のもとで成長したのだとする説がある。
はたして、久松が浦上氏嫡流筋の人物か否かを判断する史料もなく、出自・経歴などは不詳というしかない。とはいえ、
山下城址を見た限り、なるほど浦上氏の嫡流らしく相応の勢力を有していたように思わせるものがあった。
帯曲輪から主郭を見る 北曲輪の横堀 山麓の横堀と曲輪切岸
山下城は形態としては平山城に含まれるもので、二の丸・三の丸、出曲輪、横堀などなど、予想を裏切る残存状態のよい
遺構群が目白押しであった。その縄張は近代城郭を彷彿とさせ、播磨の中世城郭群を編年化するうえで重要な存在になる
遺構であろうと思われた。このような城跡が無名のまま眠っていて、地元の方々の尽力で姿をあらわしたことは、
素直に感動させられた。
主郭で集合写真を撮影
軽い気持で参加した今回の "ふるさと再発見ハイキング"、こんな素晴らしい掘出物に出会えるとは望外のことだった。
まだまだこのように見事な城跡が人知れず存在しているのだな〜と思えば、山城探訪はやめられないのである。
ともあれ、山下城跡の保存整備に努力されている地元の方々の活動には感謝の意を表したい。
● 登城 : 2011年07月09日
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
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