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奥州の戦国大名として、圧倒的な強さをみせた伊達氏は藤原氏で、魚名流山陰中納言の後裔といわれる。藤原山蔭の子孫朝宗が、
源頼朝の奥州征伐に際し、四人の子供を従軍させ、その戦功によって伊達郡を頼朝から与えられ、伊達を称したのがそもそもの
始まりとされる。
伊達氏の発展過程における宗遠の活躍が特筆されるが、その子政宗も、宗遠に劣らぬ働きをしている。政宗のときには、
ちょうど、奥州探題大崎氏衰退を理由に関東公方の足利満兼が、自分の二人の弟を奥州の押えとして下らせるということがあった。
二人の弟とは上が満直で、岩瀬郡稲村に住んで稲村御所と呼ばれ、下が満貞で安積郡篠川に住んで篠川御所と呼ばれた。
政宗は関東公方の命令に背き、篠川御所足利満貞を攻めたため、上杉氏憲らの兵に攻め込まれるということもあった。
この事件は、伊達氏が鎌倉府に楯突くことができるまでに成長していたことを示すものである。なお、この政宗というのは、
戦国時代の政宗とは同名異人である。
伊達氏が一大飛躍を遂げるのは、初めて陸奥国守護職に任じられた稙宗の代であった。
稙宗は子女を近隣の諸大名と縁組を勧める一方で、
分国法である「塵芥集」を制定し、戦国大名への階を駆け登った。
つぎの晴宗は居城を米沢に移してさらに勢力を拡大、
その子輝宗も凡庸な人物ではなかったが、天正十二年、弱冠十八歳の嫡男政宗に家督をて隠居するという
戦国時代においては信じられない行動をみせた。
かくして、一代の戦国風雲児伊達政宗の活躍が始まることになる。政宗は、天文十三年佐竹・芦名氏の連合軍と戦い、ついで天文十六年には大崎氏、翌年は芦名義広、
続いて二階堂氏・石川氏・岩城氏などを攻めて平らげた。しかし、奥州をほぼ平定した天文十七年の翌年、秀吉の命を受けて
小田原に参陣。危ういところで、本領を安堵された。それ以後、さまざまに難局を乗り越え、近世大名として生き続けることとなった。
since=2005-05/14
政宗の画像は「東京大学史料編纂所」の複製肖像画データベースより、許可を得て掲載しています。
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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