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戦国山城を歩く
明智光秀の黒井城攻め─陣城群訪問記 [壱]
・朝日城・茶臼山城・惣山城・野上野城・小富士城
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黒井城攻めの時に明智光秀が築いたという丹波春日の陣城をめぐってきた。
織田信長から丹波攻めを命じられた光秀は、緒戦において苦い敗戦を喫したのち、丹波の土豪を懐柔しながら
要所に陣城を築き、丹波攻めを着実に進めていった。光秀を苦しめたのは氷上の赤井直正、多紀の波多野秀治で、
いわゆる奥丹波の有力大名たちであった。
光秀が築いたという陣城は、多紀郡と氷上郡を扼する最も重要な城である金山城、三尾山城と黒井城を遮断する
譲葉山城、夏栗砦、京から多紀・氷上に入る峠を押さえる栗柄砦などが連なっている。そして、黒井城攻めの
陣城が氷上郡(現丹波市)春日から市島にかけて、八上城を攻める陣城が多紀郡(現篠山市)に残っている。
朝日城址より黒井城址を遠望
今回、探索した黒井城攻めの陣城は、黒井城の北から東、そして南方面に散在している。
それぞれの距離が近いこともあって、朝日城跡を皮切りとして、
茶臼山城跡→惣山城跡→野上野城跡→小富士城跡→白毫寺城跡→長谷城跡 と七城を制覇することができた。
七つの城砦は個性もさまざま、歴史もあれこれ…、ともあれ、明智の黒井攻め陣城めぐりをリポートした。
朝日城
丹波の赤鬼と呼ばれ、明智光秀の丹波攻めに敢然と対立した赤井直正が養子に迎えられたという
荻野氏一族の拠点となっていた城址。西方を望むと真正面に黒井城がそびえ、荻野氏を下した明智光秀が陣城として改修したところという。
右縄張図の薄くなった部分が開発で失われた城跡(福島克彦氏作図より)
城址へは二度目の訪問、前回同様に北側山麓にある松林寺より分け入った。遺構の残存状態は良好だが、
全体的な藪状態は変わらず、何よりも残念なのが城域の西半分は宅地造成で失われていることだ。
発掘調査をもとにして書かれた縄張図を見る限り、宅地となった部分は大竪堀、段状の曲輪、
畝状竪堀など戦う山城としてのパーツが存在していたことが知られる。
それだけに、惜しい戦国遺跡を破壊したものだ!分譲地を見たところ空地が目立ち、なんとも無駄な
開発をしたものだというしかない状態。やってしまったことは取り返せないだけに、まことに残念至極な城址だ。
茶臼山城
文字通り、茶碗を伏せたような丸い山の上に遺構がある。
登り道が見つからないため、植林された斜面を直登する山上に近づくと、それと分かる切岸がみえる。
城址は山上に主郭を置き、周囲に帯曲輪を巡らせた小ぶりなもので尾根筋に堀切、斜面に竪堀もなく
単純明快な陣城そのもの、おそらく、見張り台を兼ねた繋ぎの砦といったものであったようだ。
東方より城址を遠望 山頂に城址が見える 主郭切岸と広い帯曲輪
惣山城
茶臼山城の東南すぐのところにあり、山上に祀られているお稲荷さんへの
急な石段を登れば城址である。周囲を樹木が覆っているが、木の間より西をみると黒井城が真正面にそびえている。
意外と広い主郭 主郭切岸と東腰曲輪 山腹斜面の竪堀
光秀はお稲荷さんを取り払って陣城に改修したと伝えられ、北部分に小曲輪を築き、西斜面に竪堀が落とされている。
その構えは黒井城のある西方を意識していことがよく分かる城址であった。
野上野
(のこの)城
黒井城の東方に聳える妙高山より西に伸びた尾根先のピークにあり、
他の陣城と比べると谷の奥に引っ込んでいるようにみえ、野上野を支配した在地土豪が築いた詰めの城のようにも
見える。
城攻めは登り道が発見できなかったため、植林地を登り、潅木を押し分けてたどり着いた。
城址は矢竹の茂る藪状態。とはいえ、主郭を中心として、西方に二段の曲輪、東方にも数段の曲輪を配し、
主郭に櫓台を思わせる土壇がある。斜面の一角に竪堀も落とされているが尾根筋に堀切が切られていないことから、
黒井城を東方から押さえ、東方の陣城群を繋ぐために築かれた城砦であったようだ。
城址一帯に生い茂る潅木をスッキリと伐採すれば、西方に黒井城を望む、面白い山城遺構が姿をあらわすのに
残念な状態である。
雑木藪の向うに城址が 城跡に生い茂る矢竹 南尾根曲輪より主郭切岸を見る
小富士城
黒井城の北東部に位置する、文字通り富士山のような姿をした小富士山の山頂にある。
山麓に祀られた小富士神社のあたりから取り付き、道なき斜面をガムシャラに直登。山上に近づくと
大岩が目立つようになり、やがて虎口状の地形があらわれ、武者走りを思わせる帯曲輪、数段の帯曲輪が確認でき、
主郭部には祠が祀られている。
城址の北方尾根には遊歩道らしきものがあり、祠に至る山道も発見、どうやら、一番、きついコースを
登ってきたようだった。下山は祠への参道を下っていくと、石ころだらけの急斜面の山道だが、
要所に展望スポットがあり眼下に春日町の田園が広がり、真正面には一帯を睥睨するかのように黒井城がそびえている。
小富士山を南側より見る 主郭に祀られた祠 北尾根に築かれた段状曲輪
眼前に黒井城を見据える立地にある小富士城は、技巧に乏しい単純な縄張で、黒井城攻めに特化した
陣城とよぶにふわしいもところに思われた。
白毫寺城
白毫寺は春の藤、秋の紅葉で有名、また修験の山であった五台山への登山道の起点ともなっている。
かつては一帯に僧坊が軒を並べ、僧兵を養い、黒井城とも関係が深かったようだ。
黒井城を攻めた光秀は白毫寺を制し、北方から黒井城をしめあげる拠点として白毫寺城を築いたようだ。
城は鞍部をはさんで北側と南側に遺構が存在、いわゆる一城別郭を呈している。おもしろいのは両城の縄張の違いだ、
北側は主郭部を中心とした輪郭式、南は尾根に曲輪を連ねる梯郭式となっている。縄張りを見る限り、
南郭部は在地土豪(白毫寺勢力)が拠った城を改修したもののようにも見えた。
白毫寺城に立つと黒井城の出城である千丈寺砦が真正面に見えるが、東方の主郭部は見えない。おそらく、
黒井城への西方からの補給路を遮断することが主目的として機能した陣城であったのではなかろうか。 余談ながら、
白毫寺の一角に赤松円心の二男貞範の宝篋印塔が祀られている。貞範の流れは赤松春日部流と称されるが、
黒井城下の春日に由来するものである。
長谷城
最後の訪城地となった長谷城は、かつて多紀郡追入と氷上郡国領とを結んだ瓶割峠の氷上側
国領温泉すぐのところにあった。東方に三尾山城、北西方に黒井城をにらみつつ、多紀郡と氷上郡をつなぐ
交通の要所を押さえる格好のロケーションを占めている。
城址へは東方山麓に鎮座する岩戸神社より取り付き、丹波お馴染みの獣柵を越えると城址南尾根を遮断する
堀切があらわれる。遺構は主郭を中心に北斜面に曲輪、竪堀が築かれている。
南尾根を遮断する大堀切 北腰曲輪切岸 北尾根の竪堀
長谷城は尾根筋の大堀切、主郭を中心とした梯郭式の縄張で築かれ、印象としては在地土豪の城を改修したものと
思われた。黒井攻め陣城群のなかでは、もっとも南西部に位置する長谷城は小ぶりな城だが、
なかなか重要な機能をはたしていたことが実感された。
光秀の築いた陣城をめぐることで、丹波攻めにおける山城の特徴というか光秀流の築城術というかを探りたかったが、
今回めぐった七つの城には際立った共通性は見いだせなかった。
光秀が丹波を攻略したころ、羽柴秀吉は但馬から因幡を攻めつつあった。そして、秀吉は鳥取城攻めに際して
規模壮大な陣城群を築いて鳥取城を兵糧攻めでしめあげた。光秀も波多野攻めにおいて兵糧攻めを行い、
黒井城でも持久戦を展開した。しかし、光秀の陣城と秀吉の陣城を比較したとき、どうも光秀の陣城の方が
粗雑のように感じられる。それは、侵攻地の風土性もあっただろうが、光秀と秀吉の性格の違いのようなものも
感じられておもしろい。
丹波を制圧した光秀は丹波一国を与えられ、亀山(亀岡城)城や周山城、福知山城などを築いた。
それらは織豊系城郭と称され、その萌芽を丹波攻めの陣城群に探したが、明確な遺跡をみつけることはできなかった。
● 登城 : 2011年10月01日
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[ 黒井城
・ 朝日城
・ 白毫寺城 ]
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
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