ヘッダイメージ



夜久氏
十五枚笹
(桓武平氏河越氏流)


 丹波から但馬にかけて広がる夜久野高原は、府内では唯一の火山という宝山(田倉山)の噴火によって形成された溶岩台地。中世、夜久野高原の丹波側に一勢力を築いた国衆が夜久氏であった。

ルーツを探る

 夜久氏は桓武平氏秩父氏流に属する関東御家人の後裔と伝えられている。江戸時代に記された『夜久系譜・記録家譜』には、「夜久氏元祖は高望王の末孫秩父次郎将恒曽孫権守重綱次男秩父二郎重時なる者、天田郡夜久郷判官代に任ぜり、末葉謙(へりくだ)るといえども幸い今に至れり 云々」とあり、巻末に系図が記されている。『姓氏家系大辞典』には、「天田郡夜久郷より起こりしにて、桓武平氏、本州の名族なり。夜久系図に拠れば「秩父重時・夜久郷高内村に居る、よって氏とす」と云う」と記されている。さらに、元和年間に夜久甚右衛門が菩提寺として開基・建立した覚性寺に伝わる『覚性寺夜久家系譜』には、「秩父系の家系で承久の乱後(1221)地頭として丹波に来る。初代は河越重頼の子秩父次郎平重時という」とある。
 いずれが真を伝えたものか俄かに判じがたいが、夜久氏は桓武平氏秩父氏の流れを汲む関東御家人で、承久の乱の功により西遷した関東御家人と認めてよさそうだ。

夜久氏の登場

 夜久郷が史上に現われるのは南北朝時代の正平二十四年(1369=応安二年)、荻野出羽入道常義が同郷の安国寺領今西村を押妨したことに対して、幕府は丹波守護山名時氏が停止する旨の命令を下した。しかし、荻野出羽入道の押妨はやまず、応永八年(1401)、管領畠山基国が丹波守護細川満元に対し押領を止めさせるべき将軍奉書を出した。満元は夜久郷の地頭西倉二郎左衛門尉に打渡状を送って萩野出羽入道の押妨を禁じた。出羽入道は南北朝時代に丹波守護代として活躍した荻野尾張守朝忠の兄弟か子どもと考えられる。
 夜久郷今西村は14世紀から15世紀にかけての三十数年の間、荻野出羽入道が押妨を繰り返し、守護の命を奉じる地頭として西倉氏が存在した。当時の夜久野において、夜久氏の名は未だ現れていない。
 応仁の乱(1461~)のころ、但馬と丹波の境目に位置する夜久野の在地領主として夜久氏があらわれる。夜久氏は細川氏の被官として、守護代の内藤氏に従い「夜久野合戦」にも出陣した。『応仁記』『重編応仁記』などによれば、夜久氏の一族であろう直見大膳武綱、夜久頼重らが戦死したとある。文明年間(1469~87)、細川氏に属して西軍の山名氏方を山城国勝竜寺城・摂津国倉橋(椋橋)城や中嶋城に攻撃した丹波国人衆の中に夜久氏がみえ、夜久主計允・夜久出雲守宛の細川勝元や勝家らの感状が伝来している。
 乱後の延徳元年=長享3年(1489)、夜久重種が摂津守護代薬師寺元長の命を受けて「同国多田院領多田荘并に善源寺地頭職の棟別銭・段銭を、同院に催促するを停め」ている。当時、夜久氏は摂津において活躍していたことが知られる。二年後の延徳三年、幕府は建仁寺領丹波国夜久郷の「中村政所屋敷」などの代官職を夜久重種に補任しており、夜久氏は摂津における武家被官化は志向せず、本貫地夜久野において領主化を目指したようだ。

戦う夜久氏

 十六世紀、幕府管領で丹波守護職の細川京兆家に内紛が起こると、夜久氏も平穏ではいられなくなった。大永六年(1526)、氷上郡の赤井氏と連携して晴元方として行動している。ところが、天文15年(1546)、細川晴元と対立する細川氏綱が夜久一族宛に書状、ついで永禄元年(1558)、夜久諸侍衆中宛に氏綱が書状を送っている。やがて、丹波守護代に任じた内藤宗勝が丹波一円に勢力を拡大すると、夜久氏は宗勝に属し、夜久左衛門尉は竹田城主太田垣氏への取次、調整を求められている。
 夜久氏は丹波の守護勢力に属したが、但馬とも境を接する夜久野高原の国衆であれば、その進退には厳しいものがあった。そのようなこともあって、夜久氏は山名氏やその重臣たちとも交流があった。とくに戦国後期の夜久宗説は連歌に対する造詣が深く、やはり連歌文化を大事にしていた山名氏家臣団と交流があった。伝来する『夜久家文書』には、先の「(内藤)備前守宗勝書状」、管領細川氏綱をはじめとして、但馬竹田城主太田垣輝延、丹波の赤井忠家、但馬守護山名紹凞などの書状が含まれ、夜久氏が境目の領主として行動していたことが知られる。
 応仁・文明の乱において、細川氏に属した夜久氏だが、但馬とも境を接する夜久野高原の国衆であれば、その進退には厳しいものがあった。そのようなこともあって、夜久氏は山名氏やその重臣たちとも交流があった。とくに戦国後期の夜久宗説は連歌に対する造詣が深く、やはり連歌文化を大事にしていた山名氏家臣団と交流があった。
 夜久郷は丹波と但馬から山陰地方を結ぶ重要な交通路であり、夜久氏は路次警固の役割も果たしていたようだ。夜久氏は丹波に勢力を有しながらも、但馬にも人脈をつくり所領を守ろうとしたのであった。
 伝来する『夜久家文書』には、「(内藤)備前守宗勝書状」、管領細川氏綱、但馬竹田城主太田垣輝延、丹波の赤井忠家、但馬守護山名紹凞などの書状が含まれ、夜久氏が境目の領主として行動していたことが知られる。
 永禄八年、内藤宗勝は「芦田越前守が打って出たら、戦うように」夜久氏同名中に命じている。夜久野の谷々には20以上の山城址があり、夜久一族は夜久一族・夜久諸侍・夜久衆と呼ばれるように連帯して行動したのである。永禄八年(1565)八月、内藤宗勝が福知山で荻野直正と戦い、敗北すると、夜久氏はただちに荻野氏の配下に入り、赤井忠家から領地を安堵された。

戦国時代の終焉

 織田信長の命をうけた明智光秀の丹波攻略戦によって、波多野氏、赤井氏、荻野氏らが滅亡、あるいは没落して、丹波一国は明智光秀が支配を任された。天正十年、光秀は本能寺において信長を殺害した。つづく山崎の合戦に先立って、播磨・但馬・丹波から京への連絡通路を確保したい羽柴秀吉が高内城主と思われる夜久主計頭に協力依頼した天正十年六月五日付の書状が知られる。
 この史料から、丹波の夜久氏の協力を得た秀長が、秀吉に従って備中高松城近郊にいた六月五日以前から、備中から姫路を経て北上し、但馬から丹波を通り、京都さらには近江までのルートを確保して、使者がその間を往復していたことは明らかである。光秀は、自領の丹波を貫く山陰道を、よもや秀吉方の使者が往復するとは思っていなかったであろう。
 国衆夜久氏の最期について、天正七年(1579)、信長の丹波攻めにより但馬磯部谷(兵庫県山東町)に逃れたという。一方、関ケ原の戦いの時、福知山城主小野木氏に従い滅亡したとする説もある。『夜久家文書』の中の「羽柴秀長書状」や「天正九年秀吉禁制」などから、夜久氏の没落は関ケ原の時であったろうと思われる。
 先に取り上げた『夜久系譜・記録家譜』によれば、夜久野郷を没落した夜久主計頭は但馬国磯部村大内へ退いた。主計頭には二人の男児があり兄・舎政は成人後、高内に戻り医を生業としたという。そして『記録家譜』には、中世における夜久氏の歴史は漠として知られないとあり、歴史を継承する難しさが正直に吐露されているのだった。
・子孫の家に伝来する夜久宗憲の肖像画(市文化財)

夜久氏の家紋考察

 さて、夜久氏はどのような家紋を用いていたのだろうか。『丹波志』には「剱酢漿(酢漿草)ト九牧笹」、 幕ノ紋「沢瀉」とある。果たしてそうか?いまも夜久名字が多い夜久野高原に、夜久氏の家紋を尋ねてみると、嫡流と思しき但馬大内の夜久氏は「竹輪に十五枚笹」紋が用いられていた。同じく但馬久田和の覚性寺に墓石が並ぶ夜久氏は「丸に割り菱」、その北方宮の夜久氏は「九枚笹」が用いられている。
 一方、丹波側の小倉の夜久氏は「丸に十五枚笹」、上夜久野駅北の墓地の夜久氏は「剣酢漿草」「九枚笹」を用いる家に大別されていた。さらに、但馬朝来郡の生野にも夜久名字があり、墓地を訪ねてみると、こぞって「五三の桐」紋が用いられていた。
 こうしてみると、夜久氏の家紋は一様ではないが、『丹波志』に記される「丸に笹」「剣酢漿草」紋が多用されているのだった。ところで、夜久氏が分かれたという桓武平氏秩父氏流の家紋は「三つ花菱」という。久田和覚性寺の夜久氏に用いられる「丸に割菱」はそれを伝えたものだろうか。


■参考略系図
・「尊卑分脈」「群書類従」「夜久氏 記録家系」などから作成


バック 戦国大名探究 出自事典 地方別武将家 大名一覧

戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
由来ロゴ 家紋イメージ




日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、 乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
戦国山城

篠山の山城に登る

日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、 小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。 その足跡を各地の戦国史から探る…
諸国戦国史

丹波播磨備前/備中/美作鎮西常陸



篠山五十三次

人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。 なんとも気になる名字と家紋の関係を モット詳しく 探ってみませんか。
名字と家紋にリンク 名字と家紋にリンク

どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、 どのような意味が隠されているのでしょうか。
名字と家紋にリンク 名字と家紋にリンク

篠山の低山に登る

丹波篠山-歴史散歩
篠山探訪
www.harimaya.com