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戦国山城を歩く
明智光秀の黒井城攻め─ 陣城群訪問記 [弐]
・野村構居・東中城・長谷山城
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黒井城の陣城めぐり、その二回目。
今回のガイドは山城めぐりの先輩であり、丹波の山々に精通された天々さん。
訪ねた陣城は、茶臼山城を皮切りに、惣山城、野村構居、東中城、長谷山城、
そして、前木戸城の六城。これまでに登ったところもあったが、そこはそれ、城攻めは何回行っても楽しいものである。
午前十時、集合場所のJR黒井駅で天々さんと落ち合い、大阪からの列車組のお二人と落ち合って、最初の訪城地茶臼山城へ。
登りかけてすぐのところで、前回の下山時に落としたファイルを発見。なるほど!この二カ月間、
茶臼山城への訪問者はなかったということなのかしらん?と思えばマニアックな城というしかない。
次は、東方すぐのところにある惣山城である。今回は、前回は草に蔽われて見られなかった竪堀群をジックリと観察。
竪堀は山麓まで落ちる最大のものを中心として西方の山腹に数条、南尾根にもいくつか確認できた。
おそらく、茶臼山城と惣山城とは南方面で連絡し合っていたものと思われた。
野村構居
茶臼山城を下山したのち、すぐ東北の田圃の中にある野村構居を訪ねる。いわゆる在地土豪の館跡で、
周囲を土塁で囲み、堀を巡らしていたであろう地形がよく残っている。虎口は北方の黒井城側に開き、
土塁は多紀郡の栗柄峠へ通じる街道側に備えている。誰の居館跡かは不明だが、まず、荻野氏系の在地勢力が拠ったものであったと考えられた。
篠山市内に「土居の内(大渕館)」とよばれる中世土豪畑氏の居館跡が残っているが、おそらく野村構居も同じような土豪居館であったろう。
いまや田圃と化しているものの、土塁や櫓台、堀跡、虎口などが残る現状が損なわれないことを願ってやまない。
田圃に残る土塁、向うに惣山城址が見える
櫓台跡と虎口 土塁と堀跡 東の土塁
東中城
昼食を摂ったあと、三尾山城西麓に残る東中城を攻める。この城は兵庫県の調査資料を見ると、舞鶴自動車道が城址を横切っており消滅したものと思っていた。
ところが、天々さんいわく、資料に記された城址の位置は間違いで、その東の尾根先に城址遺構は良好な状態で残存しているとのことだった。
おりから消防団のみなさんが野焼きをされている溜池堤防より尾根に分け入ると、尾根斜面を断ち割る堀切が見えた。
近づくと二重堀切で、主郭直下の堀切は見事なもので、東方は山麓まで落ち、西方はそのまま城域を取り巻く横堀となって北方まで続いている。
堀切を登ると縦長の主郭で、北方に二の曲輪、その先に小曲輪が続いている。
西方に開く虎口受けを伴った虎口を入ると横堀が左右に伸び、正面に主郭の高い切岸と二の曲輪の大土塁(櫓台か)が敵勢の侵入を遮断している。
縄張りは二つの曲輪を主体とした単純なものに思われたが、堀切から連続する見事な横堀、畝状を呈する竪堀、虎口の構造など…、見どころの多い城址だった。
尾根筋から南端部の堀切を見る
斜面に竪堀として落ちる堀切 畝状を呈する東斜面の竪堀 主郭と北の曲輪
長谷山城
コンパクトな縄張で築かれた東中城のつぎの訪城先は市島町喜多にある長谷山城、数ある城郭サイトのリポートはもとより、
兵庫県の調査資料にも漏れた無名の山城である。
城址は黒井城北東にそびえる小富士山の、さらに北東方に位置する小山上にあり、周囲は中世山城群が散在しているところだ。
丹波お馴染の獣除け柵によって本来の城道が閉ざされていたが、南尾根先の曲輪と堀切に登る。そこから尾根筋を登っていくと放射状に築かれた畝状竪堀があらわれる。
その向こうには南端曲輪の切岸、東にまいていくと虎口を守るように見事な竪堀が一条落ちている。
長谷山城址を遠望
南端尾根の畝堀群 南端曲輪東側の竪堀 土塁で囲まれた南端曲輪
南端曲輪は半円状に土塁が取り巻いたトーチカ状を呈し、そこから山上の主郭まで、見事な切岸で区切られた曲輪が階段状に連なる。
それぞれの曲輪の削平は丁寧で、一部には登り土塁が築かれ、薄っすらとだが東斜面に城道らしきものも残っている。
山上主郭手前の曲輪の北西部に建物礎石を思わせる石材があったが、その位置から推して礎石であると断定はできなかった。
主郭は円形の自然地形の残るマウンド状で、北尾根を見ると見事な堀切え尾根筋が遮断されている。
長谷山城の場合、南尾根先の畝堀・土塁囲みの曲輪は先進の技術を、尾根筋に築かれた段状の曲輪群は古様を感じさせ、新旧が混在した城址であるようにみえた。
天々さんによれば、長谷山城は在地土豪の北村氏、あるいは船越氏が築いたもので北村城、船越城とも称されるとのこと。
また、黒井城の赤井氏と八木城の内藤氏(松永氏)が対立したとき、内藤氏勢力が天田郡から氷上郡市島まで伸び長谷山城はその勢力下に属していたという。
その歴史は漠としているとはいえ、これだけの縄張りを有し、残存状態も良好な山城が無名であるというのは驚きというしかない。
まだまだ、このような状態の良い山城が各地に残っているのかと思うと、山城攻めの藪漕ぎも「また楽し」というものだ。
曲輪を区切る見事な残存状態の切岸
土塁と曲輪切岸 曲輪を見下ろす 北尾根を遮断する大堀切
長谷山城を堪能したあとは、前木戸城を訪ねる。すでに秋の陽は西に傾き、ソロッと夕闇が広がりつつあった。ともあれ、暗闇に沈みはじめた前木戸城に登り、
この城を特徴づける土塁と横堀を見る。改めて思ったことは、前木戸城が園部の宍戸城に似たつくりで、先進性をまとった城跡であるということだ。
今回、併せて六つの中世城砦をめぐったが、いずれも個性的な城揃いのうえに案内役の天々さんとの城談議もおおいに楽しめた。こういう出会いが積み重ねっていくことで、
さらに山城めぐりの深みに嵌まり込んでいくのだろうな〜。
● 登城 : 2011年11月28日
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