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謙信後の上杉氏


 景勝は弘治元年(1555)十一月二十七日、長尾政景の次男として誕生した。母は上杉謙信の姉仙桃院である。幼名は卯松、のち喜平次顕景と称した。永禄七年(1564)七月五日、父政景の死後、謙信の招きで春日山城に移り養子となった。天正三年、二十一歳のとき景勝と改名し、弾正少弼に任じられた。この官名は謙信が越後国主の座について四年目の天文二十一年(1552)後奈良天皇から賜ったものである。このことからみて、謙信は景勝を自分の後継者にするつもりでいたようだ。
 一方の景虎は、小田原北条氏康の七男で、元亀元年(1570)謙信と氏康とが越相同盟を締結した際、謙信の養子となった。
 天正六年(1578)三月十三日、上杉謙信が死去すると、養子の景勝と景虎とが家督相続をめぐって争った。 世にいう「御館の乱」である。

家督相続の争い、御館の乱

 景勝は三月十五日、謙信の遺言と称して春日山城の本丸・金蔵・兵器蔵を占拠し、二十四日には謙信の後継者であることを内外に報じた。景勝は逸早く、春日山城の在庫金三万両を手中におさめたのである。  景虎は妻子をともなって春日山城を脱出し、前関東管領上杉憲政の居住する御館に立て籠り、春日山城の景勝に対抗したため、越後国内を二分しての争いとなった。
 景虎の兄北条氏政は、妹の主人である甲斐の武田勝頼に景虎救援を要請した。これを受けて勝頼は二万の大軍を率いて景虎救援のため信越国境に兵を進めた。一方、景勝は勝頼を敵にまわすことの不利を悟り、勝頼に和議を求めた。その際、勝頼は東上野の地と黄金一万両を贈って和議を求めたという。これに対し、勝頼は氏政が景虎救援に出陣しないことに疑念を持ち、勝頼の要求を入れて和議を結んだ。ついで、勝頼は越後に入り、景勝と景虎との和議を進め、一時、両者の和議が成立したが、まもなく破れたため、八月、勝頼は兵をまとめて帰国した。
 九月はじめ、景虎の兄北条氏照と氏邦は景虎を救援するため、関東軍を率いて越後に侵攻し、樺沢城を根拠地に、坂戸城をはじめ景勝方の諸城を攻撃した。九月末、氏照は北条輔広、河田重親らを樺沢城に、北条景広、篠窪出羽守らを御館にとどめて帰国した。
 年が明け、天正七年二月、景勝は大軍を府中へ進め、御館を攻撃した。このとき景虎方の将北条景広が討死し、府中は火の海となり、名刹安国寺、毛徳寺などが灰燼に帰した。景虎方の拠点であった樺沢城も上田衆に奪還され、北条氏の越冬軍は関東へ逃げ帰った。
 その後、景虎方の諸城は次々と攻略され、兵糧をも遮断されてしまい、御館は完全に孤立してしまった。  三月十七日、御館は景勝軍の猛攻撃を受けて落城した。このとき、前関東管領上杉憲政は景虎の長男道満丸を伴い、和議仲裁のために春日山城へ向かう途中で景勝方の兵に斬殺された。敗北した景虎は、兄氏政のいる小田原城へ逃亡しようと、鮫ケ尾城に立ち寄った。ところが城主堀江宗親の謀反にあい、腹を切った。享年二十六歳。
 景虎敗死のあとも越後各地では戦闘が続き、景勝は天正八年四月本庄秀綱の栃尾城を、七月ごろに神余親綱の三条城を、翌天正九年二月に北条輔広の北条城などを攻略した。ここに、謙信死後三年にわたった動乱も、景勝の勝利で終わった。景勝は謙信の遺領を相続し、越後の大名となったのである。しかし、この三年にわった内乱は、謙信が培った勢力を大きく後退させることにもなったのであった。
・上杉景勝-肖像

景勝の治世

 上杉景勝は、その性格剛直で、矢弾の飛び交う戦場で大いびきをかいて眠ったと伝わる。また、律儀でもあったという。秀吉に降ったならば、その官吏官僚のごとく領地の検地に努め、伏見の堀や船道の工事に精を出した。関ヶ原の戦いのあと、家康に正式に降参したあとは、不満顔ひとつ見せず一所懸命に軍役などを務めた。謙信の養子ではあったが、その姉の子だから血のつながりはある。剛直で律儀な性格は謙信譲りであったものだろう。
 天正九年、新発田重家が御館の乱の恩賞に不満をもち、織田信長の勧誘に応じて謀叛を起こした。同十五年の重家討伐のとき、家臣たちは近道を進言したが、景勝は「兵法に迂を以て直と為すと云うことあり、危うき道に不意の患あり」すなわち「急がば回れ、というたとえがある。険阻な道を行けば不測の事態が起こる恐れがある」といって遠回りをした。案の定、新発田勢は三淵という近道に待ち伏せしていた。景勝は武将として必要な沈着・剛毅な素養を持ち合わせていたのである。その後、新発田氏の討伐に成功している。
 さらに、天正十七年には、佐渡へ渡り、羽茂本間氏を破り、越後・佐渡を支配下に収めた。
 天正十四年、将士四千人を率いて上洛し、秀吉に臣下の礼をとった。ついで参内し、正親町天皇から天盃を賜り、従四位下、左近衛権少将に任じられた。同十六年にも上洛し、従三位、参議、中将に任ぜられ、秀吉から豊臣・羽柴の姓と在京料一万石を賜った。
 天正十八年、秀吉の小田原征伐に参陣し、上野国松井田城、武蔵鉢形城・八王子城攻めで戦功をあげた。文禄元年(1592)の朝鮮出兵には五千の兵を率いて渡海し、熊川城で諸軍を指揮し、翌年、帰国した。  慶長三年(1598)秀吉の命で越後から会津百二十万石に移り、徳川家康・前田利常・毛利輝元・宇喜多秀家とともに五大老に列した。秀吉死後上洛し、翌四年八月、会津に帰ると、居城をはじめ領国内諸城の普請、道路・橋梁の整備、軍備の拡張をはじめた。ところが越後春日山城主堀秀治、出羽角館城主戸沢政盛らは「景勝に謀叛の企てあり」と、家康に密告した。
 家康は使者を送り、景勝の上洛を促した。これに対して十六ケ条にわたって釈明したのが、世に名高い「直江状」である。
 家康は景勝に上洛と謝罪を要求したが、景勝が応じようとしなかったので、豊臣政権に対する謀叛であるとして、会津征伐を決意するに至った。しかし、家康の会津征伐は本気ではなく、石田三成に挙兵させるための誘導作戦であったのだ。老獪な家康の作戦が図に当たり、三成は挙兵、家康はそれを下総国小山で知ると全軍を西上させた。
 一方、景勝は、周囲の伊達や最上らとの戦ったものの、はかばかしくは進まなかった。さらに、家康が西上した時も、 それを追撃するまでの力はなかった。それでも西軍が関ヶ原で敗れてから三か月も家康に降参しなかったのは、 剛直で律儀な性格の故だったのだろうか。

米沢へ

 関ヶ原の合戦後、景勝は上洛して家康に謁見して謝罪し、会津百二十万石から米沢三十万石に移封を命じられた。本来、領地没収となっても仕方のないところであったが、このとき、景勝の老臣直江兼続による政治工作・情勢判断はすばらしく、ひとえに兼続の手腕によるものであった。
 その後、慶長十九年の大坂冬の陣、翌元和元年の大坂夏の陣では先鋒を承り、戦功をたてて家康・秀忠の信任を得た。元和九年三月二十日、居城である米沢城で死去した。六十九歳であった。その一生は、養父謙信が築きあげた版図と大大名としての地位を、徳川政権下の平凡な一大名におとしめてしまったとするものもあるが、武将としてのかれの生涯はどのように評すべきだろう。
・直江兼続-肖像

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