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美濃部氏
斧菊/梅鉢
(菅原氏流)


 古代、山直郷に属していた。のちに美濃部郷となり、菅原氏の荘園として栄えたといわれる。中世、聖護院門跡の蔵田庄に属し、その後、水口郷になったようだ。いずれにしろ、美濃部が古地名であり、そこに根を張った在地領主が美濃部氏であった。

菅原氏の後裔を称す

 美濃部氏に関する確かな記録は少ないが、その出自について「美濃部天満宮社記」には「延喜元年(901)の政変」で失脚した菅原道真は大宰府に左遷となり、 一族家臣らも失脚の憂き目となった。道真五男の淳茂も京を逐われ、菅原氏の荘園であった美濃部郷梅ケ畑に蟄居した。そして、 美濃部郷の郷長・平左兵衛門為親の婿となり、一子・直茂をもうけた。それから二十余年経った延長元年(923)、淳茂は赦免となって帰洛することになった。 しかし、子の直茂は美濃部に残り、武島に館を構えると在名をとって「美濃部」と名乗り、在地領主への途を歩んだた。
 美濃部には淳茂が大宰府で亡くなった父の冥福を祈るために建立した心光寺、子という直茂が天神社を造営した。このように、 美濃部の地にはいまも菅原氏にゆかりの寺社が残っている。そして、菅原氏に多用され、美濃部氏も家紋とする「梅鉢」「斧に菊」紋が 社紋・寺紋として用いられている。
 もっとも、菅原氏の正式な家系図にみえる淳茂の子に直茂の名はない。いわゆる落胤伝説の類であり、おそらく、淳茂の世話をしたとい う平左兵衛門為親の一族(子どもか)が菅原氏を仮冒したものであろう。
 かてて加えて、菅原道真が失脚(昌泰の変)したとき、淳茂は播磨に流され、七年後の 延喜八年(908)に赦免を受けて京に帰ることができた。以後、朝廷に出仕して兵部丞、大学頭、文章博士、式部権大輔を歴任、 延長四年(926)世を去った。享年59。前記のように近江美濃部氏の出自伝承では、淳茂は美濃部郷に流されて子を成し、延長元年に帰洛したことになっている。また、 淳茂は相模国鎌倉郡に配流され、永谷郷に住居を構えたという伝説もある。いずれも、史実に照らしてみると、 伝説の域を出るものではないようだ。

歴史への登場

 その後、時代は公家の世から武家の時代へと様変わりしていった。鎌倉幕府が開かれると、近江国は佐々木氏が守護職に任じられ、 近江に所領・所職を有する武士たちは佐々木氏の命に従うようになった。しかし、そこに美濃部氏の名は見いだせない。
 美濃部氏の名があらわれるのは南北朝時代はじめの建武四年、美濃部兵衛三郎元茂が祠を再建したという記録である。ついで、 「応仁記」の文明三年、六角高順蜂起の与力に「美濃部」がみえる。甲賀郡の武士たちは守護佐々木六角氏に属したが、美濃部氏もその一人であったのだろう。
 以後、長享元年ごろの『佐々木南北諸士帳』に美濃部源吾、「山中家文書」の大永三年から元気四年の間に、美濃部重国、美濃部六右衛門尉、 美濃部茂在、美濃部茂良、美濃部茂濃、美濃部治茂など「茂」を名乗りに用いる美濃部氏が登場する。おそらく淳茂・直茂の「茂」の字を「通字」とした 一族であろうが、その系譜関係は不詳である。
 山中氏は甲賀武士の有力者で、美濃部氏も伴氏とともに「柏木三家」と呼ばれ、永禄八年には「山中・伴・美濃部各惣起請文」を、 翌年にも「山中・伴・美濃部三方惣起請文」交わしている。
 戦国時代の近江においては、観音寺城を拠点とした佐々木六角氏が勢力をふるい、幕政にも重きをなした。 その佐々木六角氏を支えたのが甲賀の国人たちで、先の「柏木三家」もだが、「甲賀二十一家」「甲賀五十一家」と呼ばれ、 惣国一揆を結んでいた。美濃部氏が一揆の有力構成員であったことは間違いない。

戦国乱世の終焉

 永禄十一年、織田信長が上洛の陣を起こすと、抵抗した六角氏は観音寺城を逐われて没落した。主家を失ったかたちとなった美濃部氏であったが、 茂濃・地茂父子は信長に仕えたようだ。天正十年、本能寺の変で信長が横死、ときに堺にいて進退に窮した徳川家康を、美濃部茂濃ら甲賀武士が庇護して 「神君、伊賀・甲賀越え」に名を残した。
 その後、山崎合戦、賤ケ岳合戦に勝利した羽柴秀吉が天下人レースに躍り出た。甲賀武士たちは、秀吉に属して命脈を保った。 ところが、織田信雄が徳川家康と結んで小牧長久手合戦が起こると、甲賀武士たちは家康方+に気脈を通じたようだ。
 かくして、天正十三年、秀吉の紀州攻めに従軍した甲賀武士たちは、紀ノ川の堤防工事を担当したが、工事が遅れて秀吉から責任を問われ領地没収の処分を受けた。いわゆる「甲賀破議」であった。 秀吉にすれば、家康に通じたこともだが、自立意識が強い甲賀武士たちを排除する機会を待っていたのだろう。
 秀吉が世を去ったのち、関ケ原の合戦が起こると、多くの甲賀武士たちは家康方として行動した。そうして、美濃部茂濃らは家康に召し抱えられ、徳川旗本として近世に生き残ることができたのであった。
・旗本美濃部氏の家紋

・(財)滋賀県文化財保護協会「紀要 第22号」2009年 ・(財)滋賀県文化財保護協会「紀要 第19号」2007年 ・甲賀郡教育委員会「甲賀郡史」1926年

■参考略系図
・美濃部氏の系図は徳川旗本に列なった美濃部氏の「寛政重修諸家譜」をはじめ「諸家系図」「菅原姓美濃部系図」などが伝来している。



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