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戦国山城を歩く
多くの謎を秘めた─ 播磨柏原城址訪問記
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昨年、その存在を知った播磨柏原城跡。何度か登山を計画しながら実現には至らなかった。今回、
宍粟城郭研究会のタケネットさんのお誘いであっさりと実現、しかもガイド役は播磨地方史・城郭研究家として
知られた研究会会長の藤原孝三氏、願ってもない城攻めとなった。
柏原城址は、わが生家より揖保川を隔てた西方にそびえる国見山(現在、国見の森公園と化した)左側に見える
山上に遺構が残っている。国見の森公園の登り口が、そのまま柏原城址への登山道となっていて、先年、
山歩きコースの一つとして整備されたとのことだ。
国見の森公園登山口より城跡方向を遠望、…遠い!
柏原城は旧宍粟郡と旧揖保郡の郡境となる尾根筋にあり、一説には長水城を攻めた羽柴秀吉が陣城として築いたという。
一方、羽柴秀吉を迎え撃った上月城主赤松政範の一族、早瀬帯刀正義が築いた上月赤松氏領北端の備えの城で
あったとする説もある(こちらは徳久城のこととも)。登り口になる宍粟郡側からすれば、城址はあまりにも
遠い山上にあり、宍粟郡側勢力の城址であったとするには、正直、疑問が残る。
とはいえ、城址南西の宍粟川山腹に旧山岳寺院遊鶴寺跡があり、国見の森登山口に実家がある旧友のお祖母さんは
山を越えて新宮より宍粟へ嫁に来られたといい、城址近くの峠は宍粟・揖保双方より濃密な往来があったようだ。
はたして、柏原城はどのような勢力によって築かれた山城だったのだろうか?
城址を目指して登る 峠の竪堀状の道 尾根筋より柏原城址へ
国見の森公園事務局と交渉して林道の柵を開けてもらい、凸凹の林道を走ること二十分ばかり、途中に山歩きコースの
道標が立てられており山麓から城址まで歩くのも楽しそうである。林道終点に車を停め、そこから尾根を登り、
山腹の細道をたどって柏原城址南尾根の峠へと至る。宍粟側から峠へ登ってくる山道は竪堀状を呈し、
揖保郡新宮側から登ってくる山道は緩やかなものであった。藤原会長いわく、峠に曲輪や切岸など城跡遺構は
確認できないが、宍粟側から登ってくる敵を意識した改修が施されたのではないかとのこと。新宮側に緩い地形が
続くのをみる限り、会長のおっしゃる通りかと思われた。
峠から尾根筋をたどっていくと広い平坦地があらわれ、一部には切岸加工など改修の手が入ったように
みえるところもある。平坦地の先に城跡の切岸がみえ、尾根筋を遮断する横堀が穿たれている。尾根の平坦地を
柏原城の尾根曲輪であったとするには、防御施設に乏しく、城跡の有する横堀の尾根筋遮断性が厳し過ぎるように感じた。
伝によれば、平坦地には集落があったというが、このような山上に集落を作る意味合いが理解できない。
藤原会長も解釈に苦しまれているようだった。
出郭の見事な横堀 出郭の土塁 出郭から横堀を越えて二の郭へ
さて、横堀を越えると出郭で、堀側に土塁を築いて防御力を増強している。出郭と山上の二の郭とは横堀で隔てられ、
土橋でつながっている。会長いわく、土橋は後世に作られたもので、当時は木橋でつなぎ、出郭と二の郭は明確に
分断されていただろうといわれる。その証として出郭の中央に盛り上げられた土橋状の地形が、そのまま出郭と
二の郭をつなぐ木橋への通路となっていたと推理されているのだ。
ともあれ、土橋を渡って攻め込んだ二の郭は木々が伐採され、はるか北方に長水城址、正面には国見山、
その東方には無線施設の林立する川戸山、その左方には中国縦貫道が見える。城址に立って周囲を見た限り、
宍粟側勢力の動向を見張るのにうってつけの場所であることが実感される。
一同、二郭で小休止。前方の谷を隔てて国見山山頂を見る
柏原城跡縄張図(山下晃誉氏作図を転載、朱文字は藤原会長の解説を反映)
二の郭で小休止したのち、柏原城址の探索となった。二の郭の東方宍粟側は帯曲輪が取り巻き、
北方に櫓台であったと思しき土壇がある。そして、急斜面の北方尾根筋は二重の堀切で遮断し、その先の尾根には
南部と同様に自然地形の平坦地が広がっている。
ちなみに柏原城址の縄張り図を見ると、主郭部は二の郭の西方にあり、西方から伸びた尾根先に曲輪を築き、
その外周を横堀・竪堀で防衛、北と南に伸びる尾根には自然地形(一部加工しているようだが)の平坦地が存在する。
平坦地を単純に兵站部分と考えたいところだが、城部分との明確な遮断、防御施設のなさなどから、
やはり理解に苦しむものである。藤原会長も、南北の平坦地は柏原城の謎の部分だとおっしゃる。
謎といえば、出郭・二の郭とそれらを取り巻く横堀・堀切などは厳重に普請されながら、西方の主郭部分の普請は
自然地形を残し、堀切も浅い状態のままであることだ。この中途半端な状態こそが陣城の特徴であり、
睨むべき宍粟側を速やかに工事した結果で、柏原城が完成を見る前にその陣城としての機能を失ったことを
示しているようだ。すなわち、主郭、南北の平坦地などは、さらなる工事が企図されていながら、ついには
未完のままに終わったものと考えてよさそうだ。
はるか長水山城址を遠望
北の二重堀切 二郭と主郭を分かつ堀切 横堀に見えるが水路か?
結論としては、藤原会長も断じられている如く、柏原城は新宮側の勢力が宍粟側の勢力に対する境目の城として
築いたものと考えられる。おそらく、播磨錯乱における宍粟宇野氏と竜野赤松氏の対立、可能性としては
天正五年の上月合戦における北の備えとして機能した山城だったのかもしれない。そのようにみてくると、
柏原城の縄張り、現状、後背地との関係など、揖保郡新宮側の城塞であったことはまず間違いないようだ。
小さな戦国山城は残された記録がないものがほとんどで、しかも滅亡した側のものとなればなおさらである。
実際に現地に立ち、よき解説者の説明に耳を傾け、自分の足と目で城跡を歩きまわり、見てまわりすることが
重要であることを改めて感じた柏原城攻めであった。
● 登城 : 2011年10月09日
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