赤井氏
丸に結び雁金
(清和源氏満快流) |
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戦国時代、丹波国氷上郡を本拠として天田郡、何鹿郡まで勢力下に収めた赤井氏は、清和源氏頼季流と伝えられる。
すなわち、源頼季の子井上満実の三男家光が、保元三年(1158)故あって丹波芦田庄(今の兵庫県氷上郡青垣町芦田)へ
流され同庄に住した。家光は芦田を名乗り、子孫は丹波半国の押領使を務めて勢力基盤を確立していった。
建保三年(1215)、家光五代の孫朝家の子為家が赤井野を譲られて赤井を称したのが赤井氏の始まりという。
以後、赤井氏は赤井野の後屋城を本拠とし、赤井系図によれば荻野・栗住野の諸氏が分かれ出たことになっている。
南北朝時代の赤井基家は足利尊氏に仕えたという。しかし、『太平記』の尊氏旗上げの段において、
氷上郡の久下氏をはじめ、長沢・志宇知・葦田・山内・余田・波々伯部・酒井氏らの丹波武士が馳せ参じているが
そのなかに赤井の名は見出せない。赤井氏が確かな歴史上に登場してくるのは、
戦国時代の大永六年(1526)七月、八上城主波多野一族が管領細川高国と戦ったとき、
波多野氏に味方した赤井五郎(伊賀守忠家らしい)が最初である。
とはいえ、伝来する赤井氏関係の正式文書では、赤井ではなく芦田(葦田)田と署名していることから、
芦田が正式な名字と認識していたことは疑いない。赤井を名乗った背景には芦田一族からの自立といった同族間における
葛藤を克服した結果で、戦国時代になってからのことといえそうだ。そして、赤井氏の子孫が徳川旗本として
近世に生き残ったことから、本来の系図を赤井名字中心に書き改めたとも考えられる。現在、芦田氏・荻野氏らの
確かな系図が伝来していないことも、そこに原因があるのではないだろうか。
中世の丹波武士の家紋を知る史料に「見聞諸家紋(東山殿御紋帳)」があり、そこには、久下・福井・中沢・上林・
内藤・蘆田・波々伯部氏らの家紋が収録されている。かれらは、将軍家、丹波守護細川氏に属して上洛していた
武士たちであり、赤井氏の本家にあたる葦田氏の名は見えるものの赤井氏の名はここにも見出せない。
強いてみれば、赤井氏は葦田氏に包含された存在であったとも考えられる。
赤井氏の家紋を探る
さて、赤井氏の家紋であるが、赤井氏の祖である葦田判官代忠家の譜に、忠家は木曽義仲の上洛軍に馳せ参じて
勲功を挙げ、太刀・軍書・葦田系図などを与えられたという。そして忠家の紋は「左三つ巴・井の内桐・
隹麦(なでしこ)」であったと記されている。
ついで、氷上郡青垣町佐治の妙法寺に蔵されている『赤井氏系図』には、黒井城主荻野悪右衛門直正の紋所は
「井の内五三桐、隹麦(なでしこ)、丸の内雁金、左三つ巴、藤丸、丸の内沢瀉」と記されている。同系図は
天正五年(1577)正月、信井氏という人物が黒井兵主神社で書き上げたものと伝えられ、直正がまだ在世している
ときのものである。当時、直正は織田軍と対峙しているときであり、赤井一族の武運を信仰する兵主神社に念じて
赤井系図を収めたものと想像され、鵜呑みにはできないがある程度は信じてよいものと思われる。
● 左より:井の内五三桐、隹麦(なでしこ)、左三つ巴、藤丸、丸の内沢瀉
さらに、江戸時代に編纂された『寛政重修諸家譜』には、近世、旗本として江戸幕府に仕えた赤井氏の系図も収録され
「雁金・隹麦(撫子)・蔦・十六葉菊・五七桐」紋を用いたとある。一族のうち芦田(赤井)時直を祖とする家は、
「撫子」と「雁」を組み合わせた「三つ雁金に撫子(右図)」紋を用いていて、撫子紋が赤井氏において特別な存在であることを
感じさせる。ところで、赤井氏の家伝によれば、足利尊氏に仕えた基家は九州多々良浜の合戦の功によって
二つ引両の旗を与えられたというが、寛政譜には二つ引両紋はみられない。
こうしてみると、赤井氏はまことに多彩な家紋を用いていたことが知られるが、赤井氏の家紋といえば一般的には
「丸の内雁金」とするものが多い。「雁」といえば、赤井氏の遠祖にあたる井上氏の代表紋であり、先の見聞諸家紋
にも「二つ雁」が井上氏の紋として収められている。加えて、丹波地方に分布する井上一族という大槻氏も「雁金」紋を
用い、葦田(蘆田・芦田)氏、井上氏などの諸家でも「雁金」紋が用いられている。雁紋は赤井氏が井上氏の後裔で
あることを示した家紋といえそうだ。
一方、赤井氏系図に記された悪右衛門直正の紋を見ると、直正の経歴が家紋から知られて面白い。「井の内五三桐、
隹麦、左三つ巴」は葦田判官代忠家の譜に記されたものであり、「丸の内雁金」は井上流赤井氏のもの、そして「藤丸、
丸の内沢瀉」は荻野氏が用いたものといわれる。つまり、直正の赤井家は清和源氏井上氏流葦田氏から分かれ出た
武家であり、直正は一族でもある荻野家に乞われて養子となった。その結果、直正は「井上氏」「蘆田氏」「荻野氏」の
家紋を、併せ持つに至った。家紋・家系が重視された中世において、直正の用いる家紋を見ただけで、その血流が
知られたことであろう。ちなみに、直正直系で伊勢津の大名藤堂家に仕えた赤井氏は「撫子」紋を
用いたことが知られている。このことは、「見聞諸家」に見える蘆田氏の「撫子」紋との相関性を想起させて興味深い。
一方、中世武家にとって切り離すことのできないものの一つに軍旗がある。直正の旗・指物については
「練にて毘、竪六尺九寸五、横三寸六分五、乳七つ」とあり、上杉謙信と同じく「毘」の軍旗を用いていた。
さらに自らの旗指物は「百足小旗」とあり、こちらは武田氏の百足衆に通じるものがあって興味深い。そして、
陣幕には「雁金」紋が大きく描かれていたと思われるが、その確証は残念ながら見出せていない。
赤井氏ゆかりの地へ
ところで、赤井直正の城下町であった黒井を訪ねると直正ゆかりの寺社が散在しており、、
直正の平時の屋形址であったという興禅寺の屋根瓦には「藤の丸」、直正の信仰の篤かった兵主神社は「左三つ巴」と
「藤の丸」が神紋として用いられている。これらの紋が、そのまま赤井氏ゆかりのものと断定はできないが、
相互に影響を受けた可能性は高いと思われる。
● 左より:兵主神社の「三つ巴」「藤丸」 ・興禅寺の「藤丸」
余談ながら、現在、丹波市氷上郡に分布する芦田(葦田)家・荻野家の家紋を見ると、芦田家の場合は「結び雁金」
「三つ頭合せ雁金」「二つ引両」紋、荻野家は「二つ引両」の紋を用いている家が多い。
また、
少数派ではあるが「結び雁金」紋を用いる井上家もあった。
文字通り、雁金紋の天下といってもいい状態ではあるが、
中世芦田氏が用いた「撫子」紋を見つけることはできなかった。なにかの作為が働いた結果であろうか?
● 黒井城北方−多田の円光寺で見た井上家墓石の「結び雁金」/
沼城主芦田光信の墓のある明勝寺で見た芦田家墓石の「三つ雁金」
■赤井氏
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