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戦国山城を歩く
流浪の足利義昭(覚慶)を庇護した─
和田城館群訪問記
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かつて近江国とよばれた滋賀県には、1300箇所以上の山城遺跡が残っている。織田信長が築いた安土城址、
六角氏代々が拠った観音寺城址、今年の大河ドラマで注目を集める浅井氏三代の小谷城など、
有名無名の戦国城砦群が目白押しである。
以前、甲賀武士の歴史を調べたときに、佐治氏・三雲氏・山中氏・多羅尾氏らの城跡を巡った。
和田城もターゲットとしていたのだが訪ねる機会に恵まれず、
滋賀県教育委員会主催の連続講座&城跡見学会 「近江の城郭〜歴史の舞台となった城」 に参加するかたちで訪城が実現した。
和田城は甲賀の有力武士和田氏の居城で、松永久秀と三好三人衆によって足利将軍義輝が殺害されたとき、
奈良一乗院を脱出した義輝の弟覚慶(のちの将軍足利義昭)を庇護した和田惟政の城として知られたところだ。
和田谷の城館群(甲賀市発行の和田城館群パンフレットより)
城めぐりは和田城館群のうち、「公方屋敷→和田支城U→和田城→和田支城T」という順番で訪ねる。
いずれの城館跡も和田川の浸食によって造成された伊賀に通じる谷筋沿いにあり、小高い丘に築かれた館というものばかりであった。
そして、いずれも甲賀の城を特徴づける主郭部を土塁で囲んだ縄張りで築かれ、後方からの攻撃に備えつつ谷筋を睨む構造である。
配布資料などにもあったが、和田谷に築かれた城砦群は和田城を本丸とした多郭一城スタイルといえそうだ。
和田公方屋敷跡で解説を聞く参加者、曲輪の広さがよく分かる
極楽寺の無縁墓に紛れる和田惟政の墓 子孫の家の瓦に刻まれた和田氏の家紋 和田支城Uを遠望
和田谷の城館群は、主郭部を高い土塁で囲み、横堀、そして尾根筋を遮断する堀切、主郭を補完するようにして腰曲輪が築かれている。
城跡へは谷筋の街道よりすぐに登れ、城館一つひとつの防衛力はさほどでもなく、やはり館城が集合体として和田谷を防衛していたように思われる。
実際に歩いた和田谷は人家がそれほど多くない。それは戦国時代も同様と思われ、少ない兵力を有効に活用するため、
城館群が連携して敵勢を谷筋で叩きつぶす戦略をもっていた。その防衛戦略は、
はじめは和田城を詰めの城とする支城群を築いて近江方面に備えていたのではなかろうか。のちに足利義昭を庇護した惟政の時代に、
松永氏の勢力が強い大和方面を意識し、公方屋敷を谷の入り口に構えて和田城を最前線とする防御体制を築き上げたようにみえる。
和田支城Uの土塁 和田支城Uの横堀 和田城主郭の虎口
和田氏が勢力を保った中世(戦国時代)の甲賀は一郡を総べるような有力大名はあらわれず、郡中に割拠する武士たちは
惣という自治組織をつくって水平的な郡支配をおこなった。いわゆる他国でいうところの国人一揆に相当するものだが、
甲賀では武士だけではなく農民や僧侶まで惣の構成員となっている。一朝事があれば武士も百姓も、村全体が一致団結して防衛のために立ち上がったのであろう。
甲賀郡中惣をバックボーンとした甲賀武士たちは近江守護で観音寺城主佐々木六角氏を盟主とし、六角高頼が将軍足利義尚の親征を受けたときには、
高頼を援けて将軍義尚の陣を奇襲しておおいに武名をあげた。甲賀といえば伊賀と並ぶ忍者の故郷といわれるが、将軍義尚の陣を襲撃した
戦いぶりは文字通り忍者を彷彿させるものであったようだ。甲賀武士たちは五十三家と総称されるが、義尚軍との戦いで活躍した甲賀武士たちは、
とくに二十一家と呼ばれて戦国時代における甲賀の有力武士となった。
甲賀武士はその存在形態も特異だが、
かれらが拠った城も甲賀式館城とでも呼ぶべき技術・縄張りで築かれたものである。甲賀の城をもっとも特長つけるのは、
和田城砦群で見たとおり高い土塁で囲まれた一辺50メートルを測る方形主郭を中核として、それに横堀、腰曲輪などが付属するスタイルであることだ。
和田城の土塁、参加者と比べると高さが分かる
和田城主郭南の堀切 和田支城Tの土塁 和田支城Tの堀切
中世城郭のほとんどが領内一番の要害山を選び山上を削って主郭を置き、尾根筋や斜面を削ったり掘ったりして
曲輪、堀切・横堀などを設ける山城形式だ。そして、山城から伸びる尾根筋に堀切を切って城域を区画するというのが一般的なものである。
そのような山城においては曲輪の切岸や、尾根筋の堀切、斜面の竪堀などが防衛力を発揮し、
土塁も築かれるが曲輪全体を取り巻くというケースは少ないようだ。
甲賀の城はそのほとんどが平地にあり、高くても比高30メートルくらいの丘陵に築かれた城館というべきものだ。そして、
甲賀地方の地質が岩石の少ない粘土質であったことから、平地の場合は粘土を積み重ね、丘陵の場合ではゴッソリと山を穿ち、
その土をさらに盛り上げることで、見上げるような高さの土塁で囲まれた館城が誕生した。加えて、粘土質の土で築かれた土塁は崩落することも少なく、
甲賀一帯に残る中世館城の多くが往時の姿をいまにとどめる要因となった。
そのことは、往時における土塁の防御力の高さを示したものともいえそうだ。
とはいえ、甲賀の城イコール土を高く掻き揚げた土の城というものでもなく、思っていた以上に規模も大きく、
築城技術、防御思想ともに先進的な城館群だったように思われた。はたして、それが的を射た観察であったのかどうかは分からない。
少なくとも、甲賀の城館群は中世城郭を語るうえで、
多くの示唆をわれわれに与えてくれる城郭遺跡群であることだけは間違いないと実感した。
今回参加した連続講座 「近江の城郭〜歴史の舞台となった城」は、来年の三月までの間に
賤ヶ岳城跡・砦跡 → 虎大岩山御前山城跡 → 横山城跡 → 肥田城跡 → 宇佐山城跡
と開催が予定されていて心惹かれるものもあるが、甲賀各地に残る城砦群めぐりのほうに強く惹かれるものを感じている。
● 登城 : 2011年07月30日
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[ 和田氏 ]
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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どこの家にも必ずある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
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