芦田氏
頭合せ三つ雁
(清和源氏井上氏流) |
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旧氷上郡の北部(現在の青垣町)にかつてあった芦田庄を領した中世武家・芦田氏、いまも氷上郡北部一帯に芦田姓が広く分布している。伝承によれば、保元三年(1158)満実の三男井上判官家光は故あって丹波芦田庄へ流され、井上を改めて「芦田」を名乗るようになったという。室町時代に成立した系図集『尊卑分脈』には、信濃に封を得た清和源氏多田満仲の子・頼信の二男・頼季が、長久年間(1040~44)に嫡男満実とともに高井郡井上に来住して「井上」を称したとある。
そして、満実の子の一人に井上五郎家光が記されている。
系図の記述を鵜呑みにはできないが、佐久郡葦田に住んで芦田を称していた井上家光は、丹波へ流されると故郷の地名芦田をもって芦田庄にしたとする説がある。一方、すでに氷上郡には芦田庄が成立していたことから在地領主の芦田氏がいて、家光は丹波芦田氏の婿となって芦田を称したとする説もある。いずれにしろ、芦田氏は北信濃から丹波に遷住した武家であったようだ。文治元年(1185)、
平家を滅ぼした源頼朝が鎌倉幕府を開くと、家光の子という道家は丹波半国の押領使に任じられた。
以後、代々、丹波半国の押領使に任じられ、奥丹波に勢力を扶植したのだという。
ところで、丹波に分布する芦田氏の家紋は「三つ雁」紋が多い。「雁」は冬になると北方から渡ってきて、
春になると北方に帰っていく。冬の厳しい信濃において、雁は春を告げる縁起のよい鳥とされ、
家紋に採用されたようだ。芦田氏の分れ出た信濃井上氏の家紋も「二つ雁」紋で、
家紋を見る限り芦田氏は井上氏と近い関係にあったことをうかがわせている。
小室城址を歩く
別名東芦田城、標高519メートルを測る吼子尾山の頂上に残る遺構は、山頂の主郭を主体として尾根筋に小曲輪を段状に設けた連郭式の縄張である。
城址へは山麓にある胎蔵寺傍より山道があり、迷うことなく登ることができる。
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鎌倉幕府が滅亡した「元弘の乱」に際して、葦田氏は久下・余田・山内・中澤・波々伯部・酒井らの丹波武士とともに
足利高氏の旗揚げに馳せ参じている。その後の乱世における芦田氏の動向は明確ではないが、
応仁の乱のころに成立した『見聞諸家紋』に蘆田氏の名字と幕紋「撫子」が収録されている。
芦田氏の信頼できる系図は管見には入っていないが、『赤井氏系図』には赤井氏、荻野氏らは芦田氏と同族となっている。
丹波赤井氏の家紋は「結び雁金」が知られるが、『寛政重修諸家譜』に収録された旗本赤井氏の家紋は
「撫子」「雁」「桐」「菊」などが記され「撫子」紋は赤井氏を代表する家紋となっている。
また、赤井氏は芦田を名乗った形跡があり、
赤井氏に敗れた芦田氏は赤井氏との間で嫡庶の関係に混乱をきたしたようにも見えるのである。
さて、小室城に拠り芦田庄内の栗栖野・沼などに一族を配して在地領主化した芦田氏は、戦国時代になると境を接する佐治庄の足立氏と干戈をまじえるなど勢力の保持につとめた。弘治元年(1555)、氷上郡一円に勢力を拡大する赤井・荻野一族と香良で合戦におよび敗戦、赤井氏に従属するようになった。栗栖野の宝林寺境内に建つ 「祖父祖父堂」は明智光秀の丹波攻めにおいて騙し討ちにあった足立氏らを供養するものとされるが、
香良合戦で討死した芦田・足立氏らを祀ったものではなかろうか。
天正三年(1575)明智光秀が丹波に兵を進めると、芦田氏は黒井城主の荻野直正に属して光秀軍と対峙した。天正七年、但馬から羽柴秀長が丹波に侵攻、芦田氏は小室城に拠って防戦したが力およばず落城、芦田氏は没落した。その後、丹波一国を領した光秀が滅亡すると、芦田氏一族は故地に戻って帰農、いまに家名を伝えたのであろう。
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■参考略系図
・丹波芦田氏の詳細系図に関しては不明
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