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肥塚氏
並び矢羽
(武蔵七党私市氏流)


 肥塚という名字は、牛や馬の厩肥を積み重ねて小山になったものを肥塚といい、それが地名となった。武蔵国秩父地方の幡羅郡(大里郡)肥塚が肥塚氏の名字の地であり、関東の荒蕪地を開発した領主らしい名字である。伝えらえる系図などによれば、桓武平氏の熊谷直季の弟三郎直長が幡羅郡肥塚邑を開発、肥塚氏を名乗ったとある。一方、『古代氏族系譜集成』には熊谷氏は武蔵七党のうちの私市党とあり、平姓は後世の付会といえそうだ。
 直長より五代の孫光長の弟秀長は熊谷氏とともに承久の乱に出陣、勢多橋合戦に軍功があり、播磨に地頭職を得て播磨肥塚氏の祖になったという。ちなみに『太平記』の巻八の一節に「播磨の住人肥塚、三百騎を率いて」と記され、元弘の乱において六波羅方との武家であったことが知られる。
  一方、系図などの所伝によれば、鎌倉幕府の有力御家人足利氏に属した肥塚氏は、元弘の乱に際して肥前守頼景が西上、赤松円心と行動をともにした。建武三年(1335)の軍功により足利尊氏より神東郡のうちに八ヶ村(二千石とあり不審)を与えられた。やがて赤松一族別所氏から室を迎え、足利幕府が開かれると赤松氏に属して播磨に土着したという。 系図の記述を鵜呑みにすることはできないが、肥塚氏は武蔵国から播磨に西遷した武家であったようだ。

播磨肥塚氏の足跡

 龍野城下町から揖保川に沿って南下すると、林田川との合流点西方の小山に梶山城址がある。 『赤松氏播備作城記』に「鍛冶山城、文明元年(1469)、赤松治部少輔教弘が築城、のち肥塚氏が城主」とあり、 『播磨鑑』に「明徳三年、赤松治部少輔教弘が築城、子の教久は嘉吉の乱に討死。その後、肥塚和泉守城主」とある。
 嘉吉の乱後、赤松家の再興に尽力した赤松政秀に属した和泉守憲春が梶山城に入り、以後、光憲、祐忠と続いた。その間、 守護赤松義村と老臣浦上村宗との間に不和が生じ、龍野赤松氏、肥塚氏らは守護方に属した。永正十八年(1521)、 赤松義村と浦上村宗が合戦に及ぶと、龍野の赤松村秀は弟の太田城主廣岡中務丞(なかつかさのじょう)とともに義村に味方した。 ところが、中務丞が村宗方に離反、敗れた義村は室津において暗殺された。その後、備前から播磨西部を掌握した村宗も、 摂津の戦いで討死した。村宗の死後、嫡男の政宗が浦上氏を嗣ぎ、一族の支援を受けて勢力を保った。
 赤松氏と浦上氏の対立から生じた「播磨錯乱」と呼ばれる乱世、肥塚和泉守祐忠は龍野城主赤松氏に属して浦上氏、 太田城の廣岡氏らと対立関係にあったようだ。弘治二年(1556)、祐忠は浦上氏と廣岡氏の奸計にはまり、 梶山城を留守にした隙を突かれた。廣岡勢の不意打ちに室の白菊、弟の祐政らは城を枕に討死、祐忠も敵勢に囲まれて進退窮まり 菩提寺の圓融寺に入って自害した。この梶山城の戦いにおいて鉄砲が用いられたといい、 事実であれば播磨では最初の使用ではなかろうか。 落城の時、白菊の機転で城を逃れた子どもたちは生き延びたというが、肥塚氏は武家としての歴史に幕を閉じた。


肥塚氏ゆかりの史跡

林田川越しに梶山城を遠望・梶山城本丸の石碑・梶山城の曲輪

円融寺に祀られる肥塚和泉守の位牌・境内墓地に建立された和泉守の供養塔・和泉守自刃の地


 いまも権現山に残る梶山城跡は、山上の主郭を主体として三方の尾根に小さな曲輪群が設けられる。 堀切、土塁などはなく、切岸の高低差と曲輪群で構成され山城としての妙味には欠けるものだった。 主郭には子孫が建立された城址碑が静かにたたずんでいる。

肥塚氏の家紋

 肥塚氏が領したという旧揖西郡御津町あたりの墓地で発見した肥塚姓の墓紋は、こぞって「並び矢」紋であった。菩提寺という円融寺には「常泰院殿楽翁道安大居士」と刻まれた真新しい肥塚和泉守と妻白菊・家臣らの供養塔が建立され墓地の一角に和泉守を葬ったという畳一畳分ほどの空き地があった。そして、供養塔には「並び矢」紋が打たれ、傍の碑文には、建立に寄与した肥塚姓の方々の名前がずらりと刻まれていた。
 播磨の肥塚家の場合、御津町を中心に分布する肥塚家と広峯神社の神職で御師を世襲した肥塚家と 二つの流れがある。御師の肥塚氏も関東武士の流れを引く家と思われるが、両者の系譜的関係は不詳である。 ちなみに、御師肥塚氏の家紋は「橘」であった。また、福岡藩黒田家の家中に「三つ三階菱」を用いる 肥塚氏があるが、播磨肥塚氏との関係までは知りえなかった。

 

■参考略系図
・古代氏族系譜集成、大江島肥塚氏系譜より作成



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