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戦国山城を歩く
備前に覇を唱えた浦上宗景一代の城─ 天神山城訪問記
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クリスマスの25日、城郭ドットコムさんと連れ立って備前天神山城を攻めてきた。
備前天神山城は三石城、金川城と並んで備前三大山城の一つに数えられる戦国山城である。
築城者は浦上宗景で、宗景一代の栄枯盛衰を刻んだ城として知られたところだ。
浦上氏は播磨・備前・美作守護職に任じた赤松氏の有力被官の一人で、再興赤松氏を支えた浦上則宗は京都所司代も務め、主家を凌ぐ存在となった。そのあとを継いだ村宗は主家赤松義村を謀殺し播磨から備前を支配下に置く一大勢力へと成長、
ついには管領細川氏をかついで摂津へと攻めのぼった。そのプロセスはともあれ、浦上村宗は播磨の生んだ英雄児の一人には違いない。
摂津の戦いで村宗が敗死したのち、嫡子政宗と二子宗景兄弟が並立する形で、浦上氏の勢力は保持された。政宗は播磨室津(室山)城に拠って領国を支配し、
弟の宗景は三石城に拠って備前に睨みを利かした。
やがて、兄弟不和となり、三石城を追われた宗景は新たに天神山城を築いて兄に対抗するようになった。
北方より城址を遠望
宗景が天神山城を築いたのは享禄五年(1532)、現在の太鼓丸(旧天神山城)がそれだという。その後、北尾根に新たに築城工事を開始し、
山麓の家臣屋敷の建設などと並行して工事が進められたようだ。現在に残る縄張りが完成したのは、永禄十二年(1569)ともいわれる。
尼子氏が美作から備前に侵攻した天文二十年(1551)、尼子氏と結んだ兄政宗に対して、反尼子の旗色を示し宗景は国人らを率いて敢然と迎え撃った。
安芸毛利氏らちと通じて尼子勢と対立した宗景は国人らの支持を得て、兄に代わって備前一国に勢力を及ぼすようになった。
かくして、宗景は天神山城を本城として美作・東備前にまで勢力を拡大、戦国大名へと成長していったのである。
さて、天神山城は、岡山県三大河川の一で「東の大川」とも呼ばれる吉井川沿いの峻嶮な天神山上の尾根筋に遺構が残っている。
天神山城攻めにはいくつかのルートがあり、もっともポピュラーなのが北西端の山麓に鎮座する天石門別神社から尾根筋を直登するルートらしい。
ついで西側山麓の天瀬の侍屋敷からのる四十曲りルート、さらに北東の田土から大手曲輪へ登るルート、同じく田土側にある水の手ルートなどがある。
いずれも、かつての城道のようでそれぞれに妙味があるようだ。一方、お手軽なのは太鼓丸の東南すぐのところにある
『和気「美しい森」ビジターセンター』であろうが、山城ファンとしては醍醐味にかけるルートというしかない。
太鼓丸より城址を遠望
今回の城攻めは、車で中腹まで登れる北東田土側の水の手ルートから取りつき、まず太鼓丸曲輪群を踏破し、
その勢いで天神山城を攻める段取りとした。林道の終点に車を止め、明確な山道を尾根筋まで登り、太鼓丸への急斜面をたどれば亀の甲、
下の石門、堀切状地形、上の石門と続いて太鼓丸へとたどり着く。
太鼓丸は巨岩がむき出し状態にあり、北西尾根筋には天神山城、西の山麓には吉井川、東に目を転じれば田土集落など素晴らしいパノラマ風景が望める。
尾根の分岐 太鼓丸虎口 郭を区画する堀切 天神山城への尾根道
太鼓の丸城址遺構は東西に伸びる尾根筋に軍用石→石門→天神山三角点のある本丸、さらに郭・根小屋が続き、その間を堀切で区画している。
東端の土塁を過ぎると、突然ビジターセンターがあらわれる。たしかに、ビジターセンターからの城攻めは楽々コースではある。全体の印象として大味な縄張りで、
切岸、堀切や土塁なども曖昧なものである。ただ、太鼓の丸東の虎口は石垣づくりで城域最大の見どころであった。
一方、軍用石は「このような巨岩を投げ下ろすのは無理だろう!」と突っ込みを入れたくなるもので、城郭ドットコムさんと笑ってしまった。
■天神山城概略図(太鼓丸の案内板より)
太鼓の丸の復元図を見れば、天神山城は細尾根に曲輪が連なる連郭式山城で、総石垣造りに瓦葺の建物が描かれている。
復元図の有り様をそのままには受け取れないが、
備前一ともいわれる山城だけの結構を備えていたことは疑いない。
太鼓の丸から尾根筋の分岐点に激下りし、天神山城へ続く細尾根筋を登る。雑木と落葉がいい感じで、木の間越しに西方山麓をゆったりと流れる
吉井川が見える。
尾根筋の両斜面は文字通りの絶壁で、攻める側は大変だったろうな〜などと感慨にふけりつつ南端部の尾根を遮断する堀切にたどり着く。
南端部の堀切 南の段と櫓台 馬屋の段
堀切を越えると南の丸曲輪群、本丸を核とした曲輪群、長く伸びた二の丸曲輪群、そして、大手曲輪から三の丸、北西端に位置する下の段曲輪まで、
500メートル以上にわたる尾根上に曲輪が連なる。このような急峻な山上に、よくもここまでの城を構えたものだと驚かされる。
そして、戦国という時代の殺伐とした空気、そのような時代を生き抜かんとした武将の覇気というか凄気が迫ってくるのであった。
飛騨の丸切岸の石積 飛騨の丸と本丸切岸 本丸の天津社 本丸曲輪
本丸より吉井川を見る
本丸より南曲輪群を見る 本丸切岸と空堀 西斜面の石垣 大手曲輪
実際に歩いた天神山城はまったくの土の城だが、斜面側に石垣跡が残り、崩落したのであろう石が散乱している。曲輪群を区画する切岸は高く、
城道も明確に残っている。広い本丸からの展望は抜群で、宗景絶頂期はここに拠って四方を睥睨していたであろうことが実感される。
桜の馬場とも称される大手曲輪の北東部の虎口の石垣は残存状態もよく、帯曲輪と併せて見どころのひとつだ。
その北西へと連なる曲輪群は三の丸を核とした曲輪が連なり備前から美作へと連なる山並みが一望で、おりから吹く北風が冷たい。
最西端の下の段曲輪は天神山城の西の虎口受けも兼ね、尾根側の切岸は石垣で固められ尾根筋を登ってきた山道が一折れして曲輪へと入っている。
大手曲輪虎口の石垣 大手曲輪の東帯曲輪 大手曲輪から三の丸
三の丸より山麓を眺望 西櫓台と三の丸切岸 下の段を見る 下の段虎口と石垣
天神山城の場合、山上に宗景をはじめ明石飛騨ら重臣の館を置き、西方の天瀬と北方の田土に家臣の屋敷を配していたようだ。
いまも、天瀬からのルート、田土の大手筋ルートには家臣団の屋敷跡であった削平地と石垣が残っているというが、事前の調査不足もあって踏査できなかった。
近い将来、再訪してこの目で確かめたいところである。
中世の城と近世の城をつなぐものとして織豊城郭が定義されているが、その三大特色は 1)石垣 2)礎石 3)瓦 加えて虎口の折れ構造などがあげられる。
天神山城の場合、石垣づくりで発掘調査において礎石・瓦が出土、大手曲輪・西端曲輪の虎口が折れをもっている。いわゆる織豊城郭といっていい構造だが、
どこかシックリこないところがある。それは、比高の高すぎる山城であり、城下町を営むだけの後背地がなく、備前を支配する拠点としては些か辺境にあるせいかも知れない。
実際、宗景を追った宇喜多直家が天神山城を廃しており、近世城郭として不向きだったことがうかがわれる。
「備前国中大抵は宗景にしたがひ、敵する者すくなし」というまでの威をふるった宗景であったが、永禄年間より家臣宇喜多直家が台頭、ついには宗景と直家の力関係は逆転するにいたった。
かくして天正五年(1577)*、天神山城は直家の攻撃にさらされ、数日間の攻防の末に落城した。
宗景は城を捨て遁走して行方知れずとなり、天神山城は歴史に幕を閉じたのである。
天空の城といってもいい天神山城、山上遺構群はすばらしい残存状態にあり、城史は浦上宗景一代限りという分かりやすいところだ。
今回、探索できなかった山麓屋敷群、北西山麓にある資料館訪問を兼ねて、来年の春ごろに行こうかな〜。
*:ここ最近の研究成果により、天正三年に落城したとする説が肯定されつつあるようだ。
● 登城 : 2011年12月25日
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