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戦国山城を歩く
置塩赤松氏に対立した恒屋氏の居城─
恒屋城界隈訪問記
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昨年の夏、田舎に帰省した帰途に「前の城」まで登り、そのまま訪れる機会に恵まれず一年以上が経過していた。
今回、宍粟市の柏原山城に登ったついでに、恒山城に攻め登ってきた。
恒山城は姫路市休養センター・香寺荘の東側にそびえる常居山上にあり、頂上部に「後の城」、
南に伸びた尾根先に「前の城」が築かれ、いわゆる別郭一城構造を呈している。そして、恒屋川を隔てた
西方の山並み山麓に平時の居館を構えていた。
南山麓にある祐光寺より前の城を遠望
恒山城を築き拠点城郭としたのは恒屋氏で、その出自は不明ながら、国人領主として恒屋川流域を領し、
赤松氏被官として勢力を伸ばしたようだ。戦国時代後期の天正三年(1575)、ときの城主恒屋肥前守は、
置塩屋形赤松則房を夜襲、却って赤松方の白国氏によって討ち取られたことが当時の文書などから知られる。
一説に、恒屋氏の最後の当主は与左衛門正友といい、宍粟郡長水城主宇野政頼の五男として生れ恒屋伊賀守光氏の養子になった
人物だという。さきの肥前守が光氏で戦死したのち正友が家督を継いだとすれば話は簡単なのだが、
それを裏付ける史料はない。いずれにしても恒屋氏は、赤松本家と対立する勢力と結び、
夢前川流域への進出を目論んだのであろう。おそらく、恒屋氏を支援した勢力は宍粟郡の宇野氏だったのではなかろうか。
いまに残る恒屋城址は、赤夢前川流域への進出を図る恒屋氏が、置塩赤松氏を睨んで大改修を加えたものであろうと
考えられる。
■ 恒屋城−置塩城 附近図
恒屋城址の縄張り図を見ると、前の城・後の城ともに曲輪を数段に連ね、曲輪群を取り巻くように
放射線状に落とされた畝状竪堀が特徴的である。さらに、前の城と後の城を結ぶ尾根筋を土橋状に削り残し、
後の城でもっとも広い南曲輪と南端腰曲輪の西方から南部に横堀を設け、横堀はそのまま東山腹に
竪堀として続いている。
恒屋城址への登り道は、祐光寺西方の山麓から山腹のお堂に通じる山道があり、
そのまま恒屋城への城道となっている。城道はよく踏み固められ、迷うことなくお堂のある前の城南端曲輪へと
登りつく。恒屋城の本来の登り道は、山麓に構えた平時の居館との連絡もあって
西方山腹に設けられていたことが知られる。
前の城からの眺望と畝堀
前の城−祠と曲輪切岸 前の城西側の城道(凸凹は畝堀) 曲輪切岸と腰曲輪 北方より見た前の城北曲輪
前の城と後の城つなぎ曲輪 後の城南端尾根の大堀切 後の城南部の横堀 二郭の見事な竪堀
曲輪群や城道は雑草や灌木に覆われているが、曲輪切岸は高く、要所に落とされた竪堀は明確、
後の城主郭に入る虎口も見応えがある。なによりも城址からの眺めが素晴らしい、前の城からは南部方面が、
後の城からは平時の館のある西方山麓から北方までが一望である。
恒山城の規模は、恒屋川を隔てた西方に連なる山並みを越えた夢前川流域に構えられた
播磨赤松氏の本拠置塩城に劣らないものである。そして、恒山城の遺構群をみると、
西方の敵を意識した備えとなっている。恒屋城の対する西方の敵とは、置塩赤松氏であったとみて間違いないだろう。
山上の主郭より北方山麓を眺望する
後の城−潅木の茂る南曲輪と切岸 二郭の見事な竪堀 後の城主郭虎口 後の城主郭部
恒屋城を下山したのち、居館跡に建設された香寺荘を訪ねた。香寺荘建設時に遺構は破壊されたようだが、
それでも香寺荘背後の尾根筋に見事な大堀切があったという。しかし、それも香寺荘の拡張工事に際して
発掘調査が施されてのち、まったく破壊されてしまったため、いまでは恒山氏の居館跡を見ることはかなわない。
居館跡と山城跡とが一体となった戦国遺構は、町おこしにも一役買っただろうにと思われるだけに
惜しいことをしたものだ。
恒山城より居館址をを眺望する―左側が居館址であった香寺荘
恒屋氏の居館跡は消滅したが、北方の谷を隔てた尾根先に恒屋氏の家臣花村氏の館であったという
中村構居址が残っている。こちらは土塁囲みの主郭、東尾根の腰曲輪群、主郭を取り巻く横堀、東尾根筋に
切られた堀切など遺構の残存状態は良好だった。主郭が畑と化しているのはともかくとして、
横堀と堀切が民家の物置場となっていたのは、仕方のないこととはいえ残念な光景であった。
とはいえ、遺構が破壊されることなく残っているのは喜ばしいことであり、これからも破壊を受けないことを
願うばかりだ。
香寺荘より中村構居を見る
恒屋城址を見る 主郭土塁と虎口 主郭西から南に掘られた横堀 西尾根筋の堀切
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恒山城のある姫路市北部の香寺地域には、恒屋城を別格の存在として谷田部城、田野山城、伊勢山城などの
山城が散在、併せて構居とよばれる平時の居館祉も残されている。戦国末期には珍しくなった
居館と詰めの城(山城)がセットで残る…、山城ファンにとっては面白いところだ。できうれば、
冬枯れのころに三訪の機会をつくり、西方山麓にあるという大手道から攻め登ってみたい山城である。
● 登城 : 2011年10月09日
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