余田氏
丸に一文字/藤巴
(藤原姓か) |
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氷上町の鴨内から鴨坂峠を越えると市島町の上鴨阪、下鴨阪・徳尾と併せて余田(よでん)谷とよばれ、
中世一帯を領した武家が余田氏であった。
そもそも「余田」とは荘園制で、土地台帳に載せられていない田をいった。余田谷は御油荘の寄人が荘外の公田を耕作した田で国の課役に従わず、「余田」と呼ばれた。
のちに荘園として立券、賀茂神社に寄進されたが呼称はそのまま残った。
余田谷を領した余田氏は、久下・足立・吉見氏らと同様に関東から丹波に西遷してきた関東御家人の系譜をひく武家といわれる。伝によれば、元暦元年(1184)二月、余田又太郎為綱が関東より余田谷に来住し、上鴨阪に余田城を構えたという。一方、承久の乱の戦功により、丹波国余田の地頭職に補任されたともいわれる。
歴史的にみれば、承久の乱後に補任された新補地頭の一人であったと思われる。
丹波余田氏の場合、そもそも余田谷の開発領主として「余田」を名乗ったか、余田谷に西遷したのちに「余田」を名乗ったのかが問題となる。余田氏の確かな系図は未だ見ていないが、出自に関しては清和源氏、あるいは藤原氏といわれ判然としない。菩提寺という余田城跡山麓の宗福寺の境内に祀られた余田氏の供養塔には、遠祖として「余田又太郎源藤原為綱、元暦元年二月十日関東より来住」と刻まれている。また、同供養塔には最後の城主として「余田左馬頭監物藤原為家、天正六年十二月二十一日没」と刻まれている。
おそらく藤原姓の武家で、西遷したのちに「余田」を名乗ったものだろう。
余田城址を歩く
余田城は梯郭式の山城。東の城と西の城とに分かれ、谷を隔てた南の山にも支城を構え余田谷城砦群を形成している。小牧・長久手の戦いに際して、徳川家康に呼応した赤井氏残党が籠城した。
先年の台風で被害を被ったが、遺構はよく残っている。
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余田氏の名が史上にあらわれるのは元弘の乱においてであった。『太平記』に足利尊氏の激に応じて、久下弥三郎をはじめ芦田・酒井・中沢・山内らの丹波武士が馳せ参じたが 余田氏もその一人であった。ところが、その後の南北朝の争乱から応仁の乱、
戦国乱世へと推移する丹波史において余田氏の名は見いだせない。
余田氏が領した余田谷は、いまでこそ僻遠の地という印象を与えるが、谷を東西に貫通する道は、西にたどれば鴨内峠を越えて青垣と結び、東は竹田を経て北に丹後、南に春日へと通じる要路であった。いつのころか、前山川を自然の濠とした小山に城砦を構えた余田氏は、奥丹波の在地領主へと成長した。余田城の南山麓に菩提寺という萬松山宗福寺があり、余田氏の供養塔が祀られている。寺の境内墓地には余田家の墓石が林立し、そこに彫られた家紋は「藤巴」であった。『丹波志』によれば、余田氏は元暦の合戦の功において源頼朝の一番の御意にかない、「丸に一文字」の紋を賜った。以後、従来の「藤巴」紋に替えて「丸に一文字」の紋を用いるようになったと記されている。前山川を隔てた東方の山麓にある円通山東皇寺を訪ねてみると、こちらにも余田家の墓石が林立、そして家紋はと見れば「丸に一文字」紋が刻まれている。
そもそものものという「藤巴」の紋は、余田氏が藤原姓であったことを示しているように見える。
戦国時代、余田氏は現在の市島町域を席捲する勢いがあったというが、着実に勢力を拡大する赤井氏に従うようになり、天正三年(1565)、明智光秀の丹波攻めには鹿集城の吉見氏とともに黒井城主荻野直正に従った。天正六年の暮れ、明智方の明智光春の攻撃を防戦した監物為家は敗れて城を脱出、
黒井城へ落ちのびる途中に力尽きて自刃した。その後、子孫は余田谷に帰農したと伝えられている。
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