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戦国山城を歩く
元亀争乱の道─
白鳥越えの山城群を歩く
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京と近江の境をなす京都東山の山並み、そこには、逢坂山越え・山中越え(志賀越え)・途中越・白鳥越えなどの
古道が残っている。それらの道々は、古代から中世、戦国時代における数多の戦乱のなかで兵が往来した。
■ 京と近江を結ぶ道 (新修大津市史より)
戦国時代、足利義昭を奉じて上洛した織田信長は天下布武に邁進したが、義昭との不和から諸国に割拠する
群雄との戦いを繰り返すようになった。その発端となったのは元亀元年(1570)、越前朝倉攻めの陣をおこした
信長に対して、浅井長政が信長陣営から離脱、その年の六月、信長は姉川の合戦で朝倉・浅井連合軍を撃破したものの
滅亡にまでは追いこめなかった。その結果、朝倉・浅井氏らは一向宗、三好三人集、甲斐武田氏ら反信長勢力と結び、
巻き返しを図った。 元亀元年九月中ごろ、浅井・朝倉連合軍は比叡山の支援もえて、近江湖西に進出、
大津宇佐山城を攻め守将森三左衛門を打ち取り、大坂本願寺攻めに苦戦する信長を脅かした。
京を睨んだ浅井・朝倉連合軍は、近江志賀と京を結ぶ白鳥越えの道を押さえる山城群を構え、信長と対峙を続けた。
「信長公記」にいう「志賀御陣」で、信長は人生最大の危機に陥ったのであった。 これまで、
浅井・朝倉連合軍の築いた城は、壺笠山城・青山城などが知られていたが、軍勢に比して城の規模、
京に進出するうえでの城の位置など、少なからず疑問があった。比叡山延暦寺を陣にしたということもないため、
どこか、京と近江を結ぶ道に山城跡が存在していることは疑いのないことであった。
では何処に築いていたのか?ということでクローズアップされたのが、白鳥越えのルートに残る
一乗寺山城と一本杉西城(比叡山一本杉城)であった。
国土地理院二万五千分の一地図をベースに作成
一昨年、京の曼殊院から石の鳥居、比叡山一本杉を経て、志賀穴太まで白鳥越えを縦走したが、目的は一乗寺山城と
一本杉西城、壺笠山城の探索であった。 白鳥越えの道は、京から近江に没落していた将軍足利義晴や
義輝らも往来した道で、尾根道から北方を望めば比叡山が間近に見えている。比叡山を味方につけ、
近江から京をうかがった浅井・朝倉連合軍が城砦を築くにはもっとも理にかなったコースである。
先日、福島克彦氏が描かれた一乗寺山城と一本杉西城の縄張り図を入手したこともあって、改めて元亀争乱の道と
山城を再訪したのであった。車二台に分乗して比叡山ドライブウェイ一本杉まで登り京の街並みを遠望、一台を
一本杉にデポしてのち登り口の曼殊院へ移動する。イメージとしては、京方面より浅井・朝倉軍の陣城に攻め登る
という感じだ。
曼殊院傍らの林道に踏み込み、途中から一乗寺山城の大手道であったろう山道に分け入る。山道は所どころ
崩落しているが、なかなか立派なもので途中には砦を思わせる地形もある。蜘蛛の巣に行く手を阻まれながらも
一乗寺山城に近づくと、山道は横堀状態を呈し、右手の尾根筋には曲輪切岸が段状に連なっているのが見える。
曼殊院より一乗寺山城へ続く道 一乗寺山城の切岸と腰曲輪 虎口と曲輪
城址は城道(横堀?)で南北二郭に分かれ、南側は戦う城、北側は兵站基地といった様相である。城址は荒れ気味だが
残存状態は良好、縄張り図にない曲輪や畝状竪堀など京方面を意識した備えになっている。城跡を歩いた印象では
1000人程度の兵力が駐屯可能な構造、東南側谷筋には水場となりうる細流もあり、洛北の土豪と結んで信長勢を
撹乱した最前線の陣城だったことが実感される。
一乗寺山城の北東尾根部分は林道建設で破壊を受けているが、尾根筋を北上すれば、比叡山・雲母坂・一本杉への
分岐にあたる石の鳥居、そこから一本杉西城までは三十分くらいの距離で、浅井・朝倉勢にとっては要所を押さえた
位置にある。
石の鳥居からの取り付きは少し分かりにくいが、道そのものは蜘蛛の巣もなく、よく踏み固められていてまことに快適、
谷を隔てる北方には比叡山の雄姿が見えている。山道を辿っていくと、途中に繋ぎの砦を思わせる地形が散在し、
やがて土塁状の地形を越えると一本杉西城に到着である。
よく踏み固められた西城への山道 西城西の谷に築かれた土塁 段状に築かれた曲輪
白鳥越えの道と曲輪 城道を兼ねた堀切 舛形を伴った主郭虎口
一本杉西城は想像以上に規模壮大、白鳥越えの道に沿って曲輪が連なり、主郭部は尾根筋を堀切で遮断し、
南西部の虎口は桝形を呈している。そして、主郭の南斜面は曲輪が連なり、相当の兵力、物資が蓄えることが
できたのではなかろうか。浅井・朝倉勢は比叡山を望む一本杉西城を本陣とし、近江側の備えとして壺笠山城、
京都への最前線基地として一乗寺山城を要塞化したと考えるとシックリする。
一乗寺山城と一本杉西城を見比べた印象としては、土塁を多用した構造が浅井・朝倉氏の城砦群との共通点を
感じさせ、そこにも浅井・朝倉勢の陣城として構築あるいは修築されたことを物語っているように思われた。
西城主郭東の堀切 土塁で防御した尾根道 白鳥越えの道より比叡山を望む
浅井・朝倉勢の巻き返しにあった信長は窮地に陥り、なりふり構わぬ必死の和解工作を行った。やがて十二月を迎え、
雪の季節を迎えたことで越前への帰還路が封鎖されることを危惧した朝倉義景の腰が砕けた。浅井長政は
義景の弱腰ぶりに歯噛みしたが、単独で信長とは戦うことはかなわず渋々和議に応じて事態は収束した。
一本杉より京都市街を遠望
実際、一乗寺山城・一本杉西城・壺笠山城という城砦ライン、比叡山との連携などを利しつつ、つぎの春まで
対陣を続けていたら信長は京で野垂れ死にしていたかも知れない。甲斐の武田信玄も義景の体たらくに憤激した
というが、和議の成立で信長は手から零れ落ちそうになっていた運を保持しえたのであった。
信長必死の和議工作の本質が、ノー天気な朝倉義景には理解できなかったということだろう。和議の成立後、
比叡山は焼き討ちによって滅亡、浅井・朝倉勢は京への道を断たれた。そして、ついには滅亡の運命をたどるのである。
今回、元亀争乱の道を歩き、山城を探索、比叡山に登るなどして、戦国乱世における運のありかたを
考えさせられた白鳥越えの道であった。
● 登城 : 2011年10月16日
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[ 一乗寺山城
・ 一本杉西(一乗寺比叡山)城
・ 壺笠山城 ]
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