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浅井長政
●天文十四年(1545)〜天正三年(1575)
●近江小谷城主久政の子。十六歳で浅井氏を継ぐ。それまで江南六角氏の傘下に置かれていた状態を脱して自立し、
それまで六角義賢の"賢"の字をつけて賢政といっていたのを長政と改称している。信長の妹お市の方と結婚して、
友好を保ったが、同盟の朝倉氏との義理を重んじて信長に反抗。天正元年八月、小谷洛城に際し二十九歳で自刃した。
朝倉義景
●天文二年(1533)〜天正元年(1573)
●越前の戦国大名・朝倉孝景の子で、天文十七年(1548)に家督を継ぎ朝倉氏最後の当主となった。当時の越前は
加賀の一向一揆があったものの、一乗谷を中心によく治まり京都から多くの公家が避難し、越前谷文化を花開かせた。
将軍足利義輝が殺害されると、弟の義昭を一乗谷に迎え歓待した。しかし上洛の意思がなく、義昭は織田信長の
もとに去る。その後、近江の浅井長政と結んで四年にわたる信長と抗争を続けたが、敗れて滅亡した。
武田元明
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蒲生氏郷
●弘治二年(1556)〜文禄四年(1595)
●近江日野城主蒲生賢秀の子。十三歳のとき織田信長のもとに人質として送られたが、信長に才能を認められその
女婿となった。天正十年(1582)、「本能寺の変」で信長が亡くなると、秀吉と信長の弔い合戦で戦功をあげた。
その後、秀吉に仕え、伊勢松坂十二万石、会津若松九十二万石に転封される。「文禄の役」のため名護屋在陣中に発病、
四十歳の若さで生涯を閉じた。利休七哲の一人であり、またキリシタン大名でもあった。
足利将軍家(足利義輝)
●天文五年(1536)〜永禄八年(1565)
●室町幕府の第十三代征夷大将軍。十二代将軍足利義晴の嫡男に生まれたが、当時の将軍権力は有名無実化していて、
父義晴は管領細川晴元と対立、敗れて近江に逃れることが再三という状況であった。義輝も父とともに京からの脱出、
復帰を繰り返した。将軍就任後、細川晴元と和睦して京に復帰すると将軍権力の復活に尽力した。しかし、
志なかばで松永久秀・三好三人衆らの謀反によって殺害された。義輝は上泉信綱に教えを受けた剣豪将軍としても
知られている。
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細川藤孝
●天文三年(1534)〜慶長十五年(1610)
●室町幕府奉公衆の三淵晴員の次男という。のちに管領、細川元常の養子となった。実は将軍足利義晴の落胤とする説も
ある。幽斎の名でも知られている。足利義輝に仕えたが、その横死後、義輝の弟義昭を奉じて将軍にした。しかし、
義昭は織田信長に敵対し藤孝の諌言を容れず、結局藤孝は義昭と袂を分かって信長の家臣となった。以後、信長、
豊臣秀吉、徳川家康に仕え、乱世を生き延びた。
古今伝授を継承した歌人としても知られ、家集「衆妙集」、著書「百人一首抄」などを遺した。
筒井順慶
●天文十八年(1549)〜天正十二年(1584)
●天文十八年(1549)、筒井城主筒井順昭のとして生まれる。翌年、父が死去したことで、わずか二歳で家督を継ぐ。
松永久秀と抗争の結果、筒井を追われ福住山中でゲリラ戦を展開した。元亀三年、織田信長の援けで奈良・多聞城攻略に
かかり、天正五年に至って久秀を滅ぼす。明智光秀の援助で、織田信長から大和一国を与えられ、同八年に郡山城に
入った。本能寺の変後の山崎合戦では光秀に応じず、羽柴秀吉に従い領国安堵された。
波多野秀治
●天文十年(1541)〜天正七年(1579)
●波多野元秀(晴通)の嫡男に生まれたというが、晴通の子に生まれ一族の元秀の養子になったともいう。波多野氏は
管領細川京兆家に仕えて頭角をあらわし、八上城を本拠として丹波に勢力を拡大していった。秀治は三好長慶に属したが、
のちに対立、播磨の別所氏らと姻戚関係を結んで丹波の戦国大名となった。永禄十年(1568)、足利義昭を奉じた
織田信長が上洛すると信長に誼を通じた。のちに義昭と信長が対立するようになると離反、信長の丹波攻めに抵抗し
敗れて滅亡した。
赤井直正
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別所長治
●弘治二年(1556)〜天正八年(1579)
●播磨守護赤松氏の一族、東播磨八郡の守護代。三木城を再興した則治から五代目の城主。父安治の病死により、
十三歳の若さで家督を相続した。叔父山城守吉親と孫右衛門重棟の二人の後見を得て、当初は将軍や地方豪族と交誼を
よくして勢力を拡大した。織田信長の播磨侵攻に抵抗して三木城に籠城し、織田軍の総大将・豊臣秀吉の攻撃をうけた。
毛利氏の支援を受けて抵抗したが天正八年落城、二十五歳の長治は妻子とともに自刃。
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赤松晴政
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黒田孝高
●天文十五年(1546)〜慶長九年(1604)
●播磨国の生まれで、小寺官兵衛を名乗り、のち剃髪して如水と号した。織田軍の播磨侵攻において
秀吉の麾下に属し、竹中半兵衛とともに秀吉の軍師として活躍した。賤ケ岳の合戦、小牧の戦い、
九州征伐など秀吉の天下取りの合戦において多くの軍功をあらわした。豊前国六郡十二万石を領したが、
その功のわりには報われる所は少なかった。それは、秀吉が官兵衛の才を恐れた結果ともいわれる。
秀吉没後は家康に接近して、福岡藩発展への基盤を築いた。
浦上村宗
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三村元親
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宇喜多秀家
●元亀三年(1572)〜明暦元年(1655)
●備前の下剋上大名宇喜多直家の子として生まれた。豊臣秀吉に愛され、秀吉養女の豪姫(前田利家の娘)を妻とした。
本能寺の変ののち、秀吉の天下取りの合戦に参加して数々の戦功をあげた。合戦では猛将だったが、若さもあってか
家臣の統率は下手であった。やがて家中騒動を起し、歴戦の重臣たちが宇喜多氏を去った。関ヶ原合戦では西軍の
主力として戦ったが敗れ、八丈島に流された。島にあること五十年、明暦元年八十三歳で生涯を終えた。
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