.
尼子経久
●長禄二年(1458)〜天文十年(1541)
●尼子氏は佐々木京極家の一族。出雲の守護代だったが、経久の時代に戦国大名化をとげる。経久は主家の領地を
乗っ取り、一代で「十一ケ国の大守」と言われるほどの大名となる。しかし、経久の子政久は若くして死に、孫の晴久を
擁して経久の活躍があったが、経久の死後、晴久は毛利元就の策にはまって尼子氏の力を著しく落としてしまった。
曽孫義久のとき、安芸毛利氏のため滅ぼされた。
尼子晴久
●永正十一年(1514)〜永禄三年(1561)
●出雲の戦国大名尼子経久の孫に生まれたが、父政久が早くに戦死したため経久の嫡男として育った。家督を継いだころ
尼子氏は、大内氏と並び立つ一方の雄であった。ところが一族の重鎮新宮党の粛清、備後山内一族との疎遠、さらに
郡山城主毛利氏が大内方に離反するなど不手際が目立った。とはいえ、石見銀山をめぐる戦い、播磨への進攻など
失地回復につとめた。その後、陶氏を倒した毛利元就が台頭してくると、次第に頽勢に追い込まれていった。
多難ななかの永禄三年、月山冨田城内で急死した。
毛利元就
●明応六年(1497)〜元亀二年(1571)
●安芸毛利氏九代弘元の次男に生まれ、安芸毛利氏中興の英主とされる。そもそもは分家として多治比猿掛城主で
あったが、兄興元・甥幸松丸の相次ぐ早世により毛利宗家を相続した。以後、大内氏、尼子氏らの強豪にはさまれながらも
よく勢力を維持し、安芸国人衆の盟主となった。弘治元年(1555)、先に大内義隆を滅ぼした陶晴賢を厳島合戦で破り、
中国地方十ケ国の大名となった。一族の結束を求めて、隆元・元春・隆景の三子に宛てた教訓状は有名。
吉川元春
●享禄三年(1530)〜天正十四年(1586)
●毛利元就の次男として、安芸吉田郡山に生まれた。天文十六年(1547)、吉川興経の養子となり、三年後に家督を
継承した。元就は元春の相続のとき、興経と実子千法師を殺害しており、実質は毛利氏による吉川氏の乗っ取りで
あった。吉川氏の当主となった元春は、熊谷氏の娘を室に迎え、弟で小早川家を継いだ隆景と並んで「毛利の両川」と
呼ばれた。本能寺の変後、毛利氏は秀吉に協力したが、元春は秀吉を嫌って隠居したという。天正十四年、秀吉からの
強い要請を受け九州征伐に出陣、小倉城において客死した。若い輝元が毛利氏を継ぐと、隆景とともによく補佐し、
山陰方面の政治・軍事を担当した。
小早川隆景
●天文二年(1533)〜慶長二年(1597)
●毛利元就の三男として生まれ、のちに竹原小早川氏の養子となる。二兄の元春とともに宗家毛利氏を援け
「毛利の両川」と呼ばれた。羽柴秀吉の高松城水攻めに対抗したが、「本能寺の変」後に秀吉と講和した。以後、
秀吉にあつく用いられ四国・九州に出兵、「文禄の役」では朝鮮に渡って活躍した。伊予三十五万石、ついで筑前など
北部九州を与えられる。豊臣政権の五大老として重用されたが病を得ると、家督を秀吉の甥秀秋に譲り三原に隠退した。
.
大内義隆
●永正四年(1507)〜天文二十年(1551)
●大内氏第三十一代の当主。大内義興の子。享禄元年大内氏を継ぎ、本拠山口に文化の興隆をもたらすが、文化偏重政策から、武断派の重臣・陶晴賢らの謀叛を招き、天文二十二年追い詰められて自刃して滅ぶ。
陶 晴賢
●生年不詳?〜弘治元年(1555)
●大内義隆の重臣。周防守護代陶興房の子。周防国富田の若山城を本拠として謀叛の兵を起こし、義隆を殺害。大友宗麟の弟春栄を迎え、大内氏の家督を継がせた。毛利元就に厳島合戦で敗れ自刃。享年三十五歳?。
村上水軍(村上武吉)
●大永六年(1526)〜慶長九年(1604)
●瀬戸内海の芸予諸島に君臨した海賊大名。村上義忠の子(隆勝の孫とも云う)。能島惣領家の跡目騒動を経て、能島・来島・因島を統轄する海賊統領に就任。豊臣秀吉に遂われ、周防屋代島和田内の二男景親を頼る。
三好長慶
●大永三年(1523)〜永禄七年(1564)
●摂津国芥川城主三好元長の子。天文元年(1532)に家督を継ぎ、管領細川晴元家宰となって勢力を扶植し
ていった。同十八年、将軍義晴・細川晴元らを近江に追放、五年間という期間であったが京都の実権を
握った。戦国諸勢力のなかで、いち早く京都を支配下においた長慶は、のちの織田信長のお手本になる
ところが多かったようだ。やがて、家老松永久秀がその座を脅かすようになり、嫡子義興も秀久の手で
毒殺され、失意のなかで死去した。
十河一存
●
●
.
安芸国虎
●
●
長宗我部元親
●天文八年(1539)〜慶長四年(1599)
●土佐国岡豊城主の長宗我部国親の長男として生まれる。永禄三年(1560)家督を継ぐと、本山氏との
戦いで初陣を果たし目覚ましい活躍をみせた。その後、四国統一に全力を傾け、天正十一年(1583)には
ほぼ四国全域を併合した。しかし、二年後に豊臣秀吉の四国征伐に降伏し土佐一国を安堵された。以後、
九州・小田原に出陣、さらに「文禄の役」にも出陣した。しかし、九州の戦いで嫡男信親を失ったことも
有り、晩年は恵まれたものではなかった。
少弐頼尚
●
●
大友宗麟
●享禄三年〜天正十五年(1587)
●九州の戦国大名。豊後府内城主大友義鑑の子。九州探題。豊後.豊前・筑後・筑前・肥後・肥前の
六ケ国と伊予・日向の半国に大名領国制を展開した。永禄なかば、臼杵城に移り、キリスト教保護、
南蛮貿易を行う。天正六年受洗、フランシスコと称す。天正六年(1578)、四万五千の大軍を率いて
日向に進攻し、島津氏と決戦に及んだが高城の戦いに敗れ、さらに耳川の合戦で壊滅的な大敗を喫した。
立花宗茂
●永禄十二年(1569)〜寛永十九年(1642)
●大友家の重鎮高橋紹運の嫡男として生まれた。子供のころから豪胆な性格で、それを見込んだ
立花道雪から婿養子に望まれ立花家を継承した。当時、大友氏は衰退の色を深めつつあり、実父紹運と
養父道雪は大友氏の両輪として活躍、天正九年、宗茂は秋月氏との戦いに初陣を飾った。以後、
島津氏との戦い、肥後国人一揆の制圧戦、朝鮮への渡海、そして関が原の合戦と、戦雲の中を生き抜き
数々の武勲を飾った。関が原の合戦後、浪人となったが、家康から器量を惜しまれて大名に復活した。
|
|
戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
|
|
応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
|
そのすべての家紋画像をご覧ください!
|
日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
|
・丹波
・播磨
・備前/備中/美作
・鎮西
・常陸
|
|