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浅井氏
三つ盛亀甲
(藤原氏の子孫か?)


 浅井氏は近江国浅井郡小谷城を本拠とした国人領主で、京極氏の下で勢力を徐々に拡張し、浅井亮政は越前の朝倉孝景や美濃の斎藤道三らと結び江北の覇者となった。ちなみに、浅井は「あさい」ではなく「あざい」と読むのが正しい。
 浅井氏の出自に関しては諸説があり、一般に「三条公綱落胤説」というものが流布している。これは、京の公家で正親町三条実雅の長子公綱が、嘉吉年間(1441-44)、勅勘を蒙って京極氏に預けられた。公綱は京極氏の所領のうち浅井郡丁野村に蟄居していたが、やがて土地の娘との間に男子をもうけた。その後、許しをえた公綱は京に帰っていったが、男子は丁野村に残り、成長してのち浅井重政を名乗り京極氏に仕えたというものだ。そして、重政の曾孫に浅井氏三代の初代亮政が生まれたというのである。
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系図:三条公綱落胤説のもの



江北−戦国前史

 浅井氏が起こった近江国は鎌倉時代に入り佐々木氏が近江守護職に任じられ、浅井郡を含む江北は佐々木一族の京極家が支配するところとなった。京極氏を江北の守護職であったとするものもあるが、近江守護職は観音寺城に拠った嫡流の佐々木六角氏が任じられた。とはいえ、南北朝時代の京極道誉(高氏)、応仁の乱に活躍した京極持清が近江守護職に任じられたこともあった。
 室町時代、浅井氏は今村・河毛・安養寺氏らの江北諸武士とともに京極氏の根本被官の一人に数えられる存在であった。根本被官というのは、京極氏が江北に入部して以来の譜代家臣のことで、『江北記』によれば「根本当方被官之事」として今井・河毛・今村・赤尾・堀・安養寺・三田村・弓削・浅井・小野・二階堂の十二名が記されている。そのほか、京極六人衆として、多賀・大津・若宮・黒田・加賀・隠岐ら諸氏の名が知られる。そして、かれらが京極氏を頂点とした江北武士の実力者たちであった。
 京極氏は持清の代に六角氏を凌ぐ勢いを示したが、持清の死後、家督争いが続いて衰退の度合いを深めていった。そのようななか、隣国の美濃国で内乱が起こり、その余波を受けて京極高清は六角高頼と対立するようになった。この争乱で京極氏は六角氏に押されて、江北の海津に逼塞する状況となった。
 やがて、上坂氏をはじめとした井口氏・浅見氏らの支援をえた高清は今井城を居城とし、高清の後ろ盾となった上坂氏が次第に発言力を強めてきた。これを面白く思わない江北の国人領主たちは、文亀元年(1501)、上坂氏を排斥しようとして今井城を攻撃した。高清らは六角氏に応援を頼んだため、国人衆らの敗戦となった。この戦いで国人衆の浅井直種・三田村定元らが戦死した。
 今井合戦ののち内訌を克服した京極氏は上坂氏を執政として、つかの間の安定期を迎えるが、それも長く続くことはなかった。浅井直種の戦死後、浅井氏の中心人物として表舞台に現れるのが浅井三代の基礎を築いた備前守亮政である。

浅井氏の出自を探る

 浅井氏の出自に関して、浅井氏研究の泰斗である小和田哲男氏は、『公卿補任』に公綱が勅勘を蒙ったという記事がないこと、浅井氏は重政がはじめて名乗ったという点などから、公綱後裔説は浅井氏が本姓を藤原氏に結びつけるための作為であったと結論づけられている。
 実際、伊香郡余呉町にある源昌寺本尊薬師如来背銘に建保三年(1215)の銘があり、浅井氏の名が記されている。また、寛喜三年(1231)の年号を持つ円満寺の古鐘銘にも浅井氏の名が見えることなどから、浅井氏は鎌倉時代よりこの地に勢力を持っていたことは疑いない。さらに、『竹生島縁起』には、平安時代の貞観十三年(871)に浅井盤稲、翌十四年に浅井広志根らの名が記されている。盤稲・広志根らが戦国浅井氏の先祖とは断定できないが、かれらは郡司クラスの豪族であったと思われ、その子孫が戦国領主に成長したとしても容易にうなづけるものである。
 浅井氏は京極氏の根本被官として戦国時代以前より江北に勢力を有していたことは疑いない。しかし、南北朝の争乱、応仁の乱における京極氏の軍事行動のなかに、浅井氏の名はあらわれない。持清死後の内訌期にも、浅井氏の名が出てくるのは今井合戦における浅井蔵人直種がはじめである。
 『江北記』のなかに、「浅井蔵人、今の備前守親事なり」と記されている。今の備前守とは亮政のことで、亮政の父は浅井蔵人であったことが分かる。そして、浅井蔵人は『清水寺再興奉加帳』に見える浅井蔵人丞直種と同一人物といい、亮政の父は浅井直種であったと推定されている。さらに、『証如上人日記』の天文九年(1540)の記事に「浅井備前舅即惣領也」という記事があり、浅井備前こと亮政は娘婿となって惣領家を継いだことが知られる。
 浅井氏の庶流直種の子で、男子のなかった浅井惣領某の娘婿となって浅井氏宗家の家督を継承した人物であった。亮政の妻は蔵屋といったが、父の名は明らかではない。ただ、明応十年(1501)に浅井直政という人物が本貫地である丁野郷の土地を寄進していること、名乗りの「政」の字が浅井三代に共通であることなどから亮政の岳父は直政であったと推定される。諸本ある浅井系図のうち比較的信頼がおけるという『東浅井郡誌』に掲載された系図をみると、直政の叔父に直種がみえ、その二男として亮政が記されている。
 浅井氏は滅亡したとはいえ、長政の娘たちは歴史に大きな足跡を残した。とくに、徳川秀忠の室となった江は三代将軍家光の実母である。さらに娘和子は後水尾天皇の女御として入内百九代明正天皇を生んでいる。浅井家の血脈は徳川将軍家と皇室へとつむがれたのである。徳川家系図、『寛政重修諸家譜』の武家系図集を例に出すまでもなく、江戸時代初期において浅井氏の歴史を考証・調査し、通史を編むことは何故に行なわれなかったのであろうか。時期的に家の歴史が失われていたとは思われないだけに、まことに不思議なことというしかない。

亮政の奮戦

 大永三年(1523)、京極高清の跡目をめぐって内訌が起こった。高清の意を汲んで次男高慶(高吉)を擁立する執権上坂信光の一派と、浅見貞則を盟主として長男高延(高広)を擁立する三田村・今井氏ら国人衆とに分裂!亮政は浅見派に属して、上坂信光らと対立した。対立は軍事抗争となり、亮政らは尾上城の戦いにおいて勝利、京極高清・高慶父子を尾張国に逐った。かくして、高延が京極家の家督を継いだが、今度は浅見貞則が専横を振るうようになった。
 亮政ら国人衆は上坂信光と和睦すると高清を迎えて浅見氏と対立、小谷城に拠った。この混乱のなかで国人一揆の盟主となった亮政は京極家中における地歩を確立、着実に勢力を拡大していった。そして、大永四年、亮政は小谷城において京極高清を饗応、みずからの力を江北国人衆に示したのである。以後、高清を傀儡として京極家中における実権を掌握するのである。文字通り、亮政は下剋上の人物であった。いま、小谷城址に残る京極丸は、高清を迎えるために築いた曲輪と伝えられている。
 この亮政の台頭は、京極氏の宗家にあたる江南の戦国大名六角定頼との対立へと進展した。六角氏は近江守護職に任じ、代々、観音寺城を拠点とする近江の最大勢力であった。定頼は管領細川氏の内訌に翻弄される足利将軍を援け、近江に保護するなど六角氏の全盛期を現出した実力者であった。亮政にとっては、まことに恐るべき大敵との対立となった。
 江北の動向を睨んでいた六角定頼は、大永五年、浅井を叩く好機到来とみて自ら軍勢を率いて出陣した。対する亮政は越前の朝倉教景に援軍を求め、朝倉宗滴率いる朝倉勢が小谷城へ入った。宗滴は小谷城の一角に金吾丸を築くと、六角氏と浅井氏の調停に努めた。一旦、和議がなったが、六角方の攻撃に敗れた亮政は高清を擁して美濃へと脱出した。
 その後、亮政と高清は小谷城に復帰したが、享禄元年(1528)、上坂信光に擁された高慶が挙兵、これに今井秀信が味方して浅井郡に進攻した。亮政はこれを内保河原で迎え撃ち激戦となった。どうにか、亮政が勝利を得たものの、被害は大きく、また京極氏の内訌は六角定頼の江北への介入を許す要因となった。
………
写真:小谷城址に残る京極丸址の土塁

江北の覇者となる

 享禄四年(1531)四月、後藤・進藤・三雲・蒲生氏らを将とする六角勢と箕浦河原で合戦、この戦いで亮政は三田村・浅井・中養寺らが討ち取られる敗戦を被った。しかし、六角方も多くの将兵を失ったために追撃がかなわず帰陣、亮政はかろうじて滅亡を免れえたのであった。
 その後も江北の情勢は目まぐるしく流動的で、天文四年二月、六角定頼が江北に侵攻、海津の戦いで亮政は敗戦を被った。ついで、天文七年(1538)六月鎌刃城の戦いで佐和山城を失い、ついで八月には太尾山城を攻略され、さらに九月には国友河原の戦いに敗れて亮政は小谷城に立て籠もった。ついには篭城に耐えられず小谷城を退散、江北は六角定頼の手に落ちた。まさに連戦連敗、亮政にとって伝統勢力六角氏の壁は厚かった。とはいえ、度重なる敗戦を被ったものの、亮政はよく江北の国人衆を掌握し、六角氏が帰陣すると旧力を回復、よく勢力を保った。
 ともあれ、亮政は六角定頼への従属姿勢を示しつつ、越前国の朝倉氏との友好関係を強化、江北にも教勢を伸張する本願寺勢力とも宥和政策を推し進め、次着実に江北の有力大名に成り上がっていった。天文三年(1534)には京極氏の執権ともいうべき地位に在って北近江統治の主導権を掌握した。
 高清の没後は高吉を擁立したが、亮政の勢力伸張を警戒した高峰と不和になり、天文十年(1541)四月に至って決裂、高吉は六角氏を頼って亮政打倒の動きを見せるようになる。乱世を生き抜いてきた亮政も初老の域に達しており、浅井氏にとっては油断のならない状況となった。そのような最中の翌天正十一年(1542)正月、亮政は突然死してしまった。

雌伏の時代

 亮政は正室(蔵屋)との間に一人の女子(鶴千代)しか生まれず、この鶴千代に浅井一族の田屋氏の男を婿にとり「明政」と名乗らせ跡継ぎとした。ところが、側室との間に久政が生まれたことで家督は久政が継ぐことになったのである。おもしろくない明政は京極高延と結んで久政と対立、かつて父が対立していた京極高延らが浅井氏領に進出、さらに南近江に勢力をもつ六角義賢も進出を始め、浅井家は四面楚歌状態となった。結局、苦境に立たされた久政は六角氏の傘下に入ることによって領国を維持する道を選んだのである。
 久政が家督となったのち、明政は田屋氏に復して湖西の田屋城主になった。浅井氏滅亡後、娘婿の政高と孫の直政は、淀君との縁から豊臣秀吉、ついで秀頼に仕えた。大坂の陣が起こると政高は大坂城内で討死、千姫とともに脱出した直政は江戸に下って秀忠の室崇源院(江)に仕えた。直政は崇源院をはばかって浅井姓を三好姓に代え子孫は徳川家旗本として存続した。
 閑話休題、六角氏に服属した久政は嫡子猿夜叉に六角義賢の「賢」の字をもらい「賢政」と名乗らせたり、六角家の重臣平井定武の娘を賢政に迎えた。これらのことが、『浅井三代記』など近世軍記物などに「久政無能説」を書かせる原因となった。しかし、亮政死後の混乱期にあって、久政には江北の領主であり旧主家であった京極氏、近江守護で幕閣の実力者六角氏を敵にまわして勝算は無かったようだ。久政のとった外交政策は非常に現実的なものであったというべきであろう。
 久政は武の人というより文の人というべき存在で、領内の用水争論について上位権力者として積極的に調停したりと関与して全体を把握したり、小谷城山上に六坊を建設したり、税や寺社政策などを押し進めており、着々と領国基盤を築き上げていた。特筆される軍事的事績こそないが、行政手腕や外交手腕は凡庸ではなかった。ところが、六角に従うのを快しとしない赤尾・遠藤・安養寺氏らの浅井重臣らは、永禄二年(1559)久政の嫡子賢政(長政)を戴き久政を隠居させるに至った。とはいえ、その後も家中(長政)に影響力を有していたようだ。そのことは、織田信長が朝倉攻めをした際、久政が強く長政に信長との同盟破棄を強く迫り、ついに朝倉氏に味方することに決したことでもうかがわれる。

六角氏との抗争

 浅井氏の家督となった長政は、平井氏の娘を離縁し、六角氏に対して対立姿勢を明確にした。これに対して六角氏は、浅井方の佐和山城を攻撃してきた。佐和山城将百々氏はよく防戦、一方の六角氏も定頼が死去して間もないこともあって、攻防は翌年にずれ込んでいった。この間、浅井方では今井定清を服属させ、六角氏との境目に位置する肥田城主高野瀬秀隆を味方に引き入れるなどの裏工作を行なっていた。
 秀隆が浅井方に寝返ったことを知った義賢は激怒し、ただちに肥田城攻めの陣を起した。肥田城を囲んだ六角勢は、水攻めを行なったが失敗、肥田城の南方に位置する野良田郷に布陣した。そこへ、高野瀬氏の救援に出陣してきた浅井長政が押し寄せた。六角方は蒲生定秀・永原重興らを先陣として総勢二万五千の兵を擁し、一方浅井勢は一万一千という兵力であった。戦いは数に優る六角方の有利に展開したが、緒戦の勝利に油断した六角勢の隙を突いた六角勢の奮戦で結果は浅井勢の勝利となった。いわゆる「野良田表の合戦」と呼ばれる戦いで、この初陣の勝利によって浅井長政は一躍歴史の表舞台に登場したのである。
 以後、長政はこれまで対等に近い存在であった磯野氏・垣見氏といった国人領主を家臣として掌握、また領国経営に意を注ぐなど戦国大名としての地歩を固めていった。一方、敗れた六角氏はといえば、美濃の斎藤氏と結んで長政包囲網を形成しようとした。六角氏に大勝したとはいえ、長政の前途はいまだ多難な様相を示していた。
 ところが、永禄四年(1561)、斎藤義龍が病死して若年の龍興が斎藤氏を継いだことから六角氏の浅井挟撃策はならなかった。さらに、六角氏も将軍義輝、三好長慶らとも敵対関係となり、衰退の色合いを深めていった。そのようななかの永禄六年(1563)、義賢の嫡男義弼(義治)が重臣の後藤但馬守父子を謀殺するという愚挙を犯したのである。この観音寺騒動によって永田・三上・池田・進藤・平井氏らが六角氏から離反、かれらは浅井長政に通じて六角氏に叛旗を翻したのであった。この好機を捉えた長政は観音寺城を攻撃、義賢は甲賀へ、義弼は蒲生へ落ち延び、六角氏の声望は地に堕ちてしまった。かくして、斎藤氏・六角氏の衰退という幸運にも恵まれた長政は、一躍、戦国大名へと成長したのであった。
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写真:肥田城址に残る六角氏水攻め時の堤防址

織田信長の登場

 尾張より織田信長が勃興すると、長政は信長の妹市を娶って同盟関係を結びんだ。永禄十一年(1568)、信長が上洛の陣をおこすと、長政も江北の精兵を率いて参陣した。そして、信長上洛を阻止しようとした六角氏を没落に追い込み、浅井氏の近江における大名権力は磐石になったかと思われた。
 ところが、元亀元年(1570)、信長は越前朝倉攻めの陣を起こした。浅井氏は越前朝倉氏とは同盟関係にあり、かつて、六角氏との抗争においては援軍を受けるなど窮地を救われた恩義もあった。家中の意見は二分されたが、朝倉氏への義理を立てて信長に反旗を翻し織田軍の背後を襲った。かくして、同年六月、長政は朝倉義景と連合して信長・徳川連合軍と姉川で戦ったが敗戦を被った。以後、甲斐の武田氏、本願寺らと連携して信長との対峙を続けた。しかし、次第に追い詰められ、天正元年(1573)、小谷城は織田勢の攻撃を受けて落城、長政・久政父子は自刃して浅井氏は滅亡した。
 小谷城が落城したのち、その旧領は浅井攻めの大将をつとめた羽柴秀吉に与えられた。秀吉は不便な山上にある小谷城を捨て、新たに琵琶湖畔の今浜に長浜城を築いた。そのとき、小谷城の建物などは長浜城建築の材料として利用され、小谷城はまったくの廃城となってしまった。彦根城の西の丸三層櫓は、長浜城へ移築された小谷城の天守をさらに移したものと伝えられている。

浅井氏の故地を訪ねる


・冬枯れの小谷を訪ねた。浅井氏の居城であった小谷城址から、浅井氏の菩提寺であった小谷寺を巡る。前日の雪のため、小谷城への登山は次ぎの機会に譲り、姉川古戦場跡に向う。こちらも一面の冬景色で、浅井軍と織田軍が激突したという田の北方に小谷城が見えた。合戦に敗れた浅井勢が、小谷城を目指して北走する幻が見えるような風景であった。
→ 小谷城址に登る
参考資料:滋賀県各自治体史・室町幕府守護職家事典 [下]・日本の名族 [近畿編]・ 戦国大名系譜人名事典[西国編]・近江浅井氏のすべて・戦国合戦大事典 [5]・近江浅井氏の研究  など】

●さらに詳しい情報にリンク 浅井氏


■参考略系図

 

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