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黒田氏
●藤巴/黒餅
●宇多源氏京極氏流
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戦国時代、竹中半兵衛と並ぶ軍師と称された官兵衛孝高を出した黒田氏は、宇多源氏佐々木氏の末流といわれている。鎌倉時代の末、近江北方六郡守護である佐々木京極佐渡守満信の次男四郎左衛門尉宗満が、近江国伊香郡黒田村に住んで黒田判官を称したのが始まりとされる。
『尊卑分脈』によれば、宗満の後は宗信−高教と続き、その後は高宗−高信−清高までの代々が記されている。室町時代、黒田氏嫡流は宗家京極氏から自立して幕府奉公衆になり、評定衆をもつとめる名門であった。左衛門尉清高には男子がなかったため、京極持清の二男政光が養子として黒田氏を継いだ。黒田氏が京極一族として、重視されていたことがうかがわれる。
政光の生きた時代は、応仁の乱のまっただ中であった。父持清は細川勝元の率いる東軍に属したため、政光は兄勝秀とともに父に従った。ところが、応仁二年(1468)に勝秀が陣没し、文明三年(1471)には勝秀の嫡子孫童子丸も没したため、政光は京極氏に復帰した。しかし、孫童子丸の後見をしていた弟政経が幕府によって京極氏家督とされたため、それを不服とした政光は西軍に走って政経らと対立した。ここに京極氏は分裂し、政光は六角氏と結んで政経らを圧倒したが、翌文明二年に死去してしまった。享年二十四歳の若さであった。
京極氏系図にみえる政光には男子がなく、政光の京極氏復帰と死によって黒田氏嫡流は断絶という結果になったようだ。しかし、一説によれば政光には男子高政があり、黒田氏を継承して幕府に出仕したのだという。この高政こそ、近世福岡藩主黒田氏が祖とする人物である。一方、『黒田家譜』の「源姓黒田氏系譜」などには、高政は清高の叔父にあたる高宗の子として記されている。年代的にみれば、政光の子とする方が無理はないが、それを裏付ける確証があるわけではない。
■京極氏略系図
京極満信┬宗氏−高氏−高秀−高詮−高光−持清┬勝秀−高清−高広
│ └政光
│ ↓
└宗満−宗信−高教−高宗┬高信−清高=政光−高政
└高宗−高政
黒田氏の流転
『黒田家譜』によれば、黒田高政は将軍の怒りに触れ近江を退去させられ、備前邑久郡福岡村に移り住んだということになっている。すなわち、永正八年(1511)、山城国船岡山の戦いに出陣したことき、将軍足利義稙の怒りを被ったというのである。
船岡山の戦いとは、将軍義稙を擁する細川高国・大内義興の連合軍と、高国と対立する前将軍義澄=細川澄元・三好連合軍との戦いで、義稙方の勝利に終わった合戦である。このとき、高政は佐々木六角氏に従っていたが、軍令に叛いて功名をたてようとしたことから足利義植の怒りをかったのだという。いずれにしても、近江の所領を失った高政は、浪々の身となり備前国に流れていったのである。
備前国は佐々木氏の一流である加地氏が鎌倉時代より児島郡を本拠としており、一門も各所に散在していた。高政はそのような備前佐々木一族を頼り、当時、備前随一の商都で『福岡千軒』と言われる備前福岡を目指したものであろう。そして、家伝の「玲珠膏(れいしゅこう)」という目薬を製造販売して、暮らしを立てたという。
かくして、黒田氏は備前に根をおろすわけだが、備前の黒田氏と近江の黒田氏はまったく別系統であり、のちに双方を結び付けた系図が創作されたのだとする説もある。加えて、船岡山における高政の一件は、偽書として有名な『江源武鑑』から引用されたものといい、そのままには信じられいものともいわれている。黒田氏においては高政という人物がキーマンになるわけだが、その実在も含めて事蹟については不明なところが多い。
高政の子重隆は武家としての立身を願ったようで、備前から播磨に移り住んだ。そもそも備前・播磨は赤松氏が守護職を管掌したところであったが、赤松氏の権威は地に墜ち、播磨は群雄割拠する「播磨錯乱」と称される政情であった。また、備前は赤松氏の重臣であった浦上氏が下剋上によって支配下においたところであり、商都福岡には播磨の情報が集まっていたと思われ、重隆は播磨にこそ出世の好機があると睨んだのであろう。播磨に移住した重隆は広峯神社の御使と組んで家伝の目薬の製造・販売を行い、得た財を低金利で貸付け、たちまち土豪として成長を遂げていったのである。
ところで、兵庫県黒田庄町黒田において従来の説と趣を異にする「黒田氏系図」が発見され、黒田氏はもともと播磨国の一土豪であったのではないか、とする説も出ている。
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【写真】かつて御師の屋敷が並び立っていた広峯神社の一角
→◆もう一つの黒田氏系図
黒田氏、播磨に土着
重隆はひとかどの人物であったが、嫡男の満隆も思慮深く、武勇の人であったという。このため、重隆・満隆二代において、しばしば小競り合いを続けていた近隣の地侍たちは、いつしか黒田氏を主君とあおぎ、臣従するようになった。当時、西播磨には赤松氏の一族、小寺藤兵衛政職が御着にあって威勢を振るい、衣笠・上月・宇野氏らが誼を通じていた。しかし、揖保郡北端の香山城主香山重道のみは自らをたのみ、しばしば小寺氏の領地を侵した。
そこで、満隆は重道の首を引出物として小寺政職に仕えたいと願い出たところ、政職はこれを快諾した。そして、天文十二年(1543)十二月、満隆は竹森以下の郎党を率い、夜陰に乗じて重道を不意打ちにし、その財宝を政職に献上した。政職は香山氏の領地のほかにさらに四十町歩の所領を与え、満隆を客将の礼をもって遇した*。ここに小さいながらも黒田氏は、武家として復活をとげたのであった。
以後、政職は満隆の人物を認めて厚遇したが、さらに小寺家の枢機に参画せしめんと思いたった。天文十四年、政職は明石城主明石正風の女を養女に迎え、満隆に妻合わせ黒田氏を小寺一門に加えた。政職の満隆への信頼は深まる一方で、つぎには家老に任じて小寺姓と諱の「職」の字を与え、小寺職隆と改名させたのである。さらに家老筆頭に抜擢して、与力を付し、小寺氏代々が城主をつとめた要衝姫路城の守備を命じたのである。まさに破格の厚遇であった。一方の職隆も政職の寵に奢ることなく、愚直なまでの忠節をもって小寺氏に尽くしたのである。
職隆は天性、慈悲に富み、また義理を知る人物であった。のち、小寺政職は織田信長の怒りを恐れて御着城を退去し、諸国を流浪して、流浪先の地で客死した。その子氏職が零落の身をかこつと知って嘆き、秀吉に免罪を乞うて氏職を招き、ねんごろに養育し、かつての恩義に報いた。このような職隆を秀吉も深く信頼して厚遇し、姫路在城中、出陣に際して姫路城の留守はかれに任せたという。
職隆の子が孝高、すなわち黒田官兵衛で、如水の号で知られた武将である。十六歳で小寺政職に仕え、小寺氏の重臣に列した。孝高の活躍のはじめは、小寺氏を織田信長と結びつけたことで、これによって信長・秀吉との関係を持つようになったわけである。
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黒田氏と小寺氏の関係のはじめは、重隆の代であったする説が有力である。備前から播磨に移住し財をなした重隆に着目したのは御着城主小寺則職で、則職に仕えた重隆はたちまち頭角をあらわし、家老に抜擢され、天文十四年(1547)には姫路城を預けられるにいたった。そして、姫路城は重隆によって、居館程度の規模であったものが修築されたのだという。
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●黒田氏の名残り
黒田氏が仕えた小寺氏の居城であった御着城址には、黒田孝高の祖父黒田重隆と母職隆夫人の供養塔が残されている。廟所の門を見上げると、黒田氏の紋「黒餅」「藤巴」が据えられている。
・中央:供養塔
・右端:廟所の藤巴紋
→小寺氏のページ
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官兵衛の活躍
天正四年(1576)、毛利氏は織田方となった小寺氏を攻撃、先鋒浦宗勝の率いる軍勢が姫路英賀に上陸した。官兵衛は劣勢の小寺氏にあって、精兵五百騎と策謀をもって毛利軍に大勝、信長から感状を受けた。
当時の播磨は旧守護家である置塩赤松氏をはじめ、東の三木城に別所氏、西の長水山城に宇野氏、龍野赤松氏ら中小の大名が小競り合いを繰り返していた。翌年、信長の中国攻めの総大将として秀吉が播磨に入ってくると、官兵衛は播磨の諸大名の間を説き歩いて、秀吉の播磨攻略を援けたのである。そして、毛利方として節を通す佐用城の福原氏、上月城に拠る上月氏らを攻略、政戦ともに抜群の活躍をみせた。
しかし、やがて毛利氏の巻き返しがあり、三木城の別所氏が反旗を翻すと、信長方になっていた諸大名も雪崩をうって毛利方となった。さらに、信長の部将で摂津有岡城主の荒木村重までが謀叛を起こすにいたった。この情勢の変化をみた官兵衛の主家である小寺政職も動揺を見せ、秀吉はもちろんのこと官兵衛も最大の危機に立たされた。
官兵衛は事態を打開するため、有岡城に乗り込んで村重の説得を図った。ところが、返って囚われの身となってしまった。官兵衛がなかなか戻ってこないため、信長は官兵衛が村重方に寝返ったと決めつけ、人質として差し出されていた官兵衛の一子松寿丸を殺害するように命じた。これを救ったのが、官兵衛と並んで秀吉の軍師をつとめていた竹中半兵衛で、半兵衛は松寿丸を居城に隠してついに守り通したのであった。
かくして官兵衛は、有岡城の落城まで牢獄につながれ、開放されたときは、頭の毛は落ち、足は萎えてしまい「びっこ」となってしまっていた。
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図:黒田官兵衛孝高(如水)の肖像
秀吉の天下取りに尽す
天正八年正月、三木城を落した秀吉が三木城に移ろうとした時、孝高は姫路城を秀吉に譲り、代わり宍粟郡を与えられ篠の丸城に入った。このころ、主家の小寺氏は没落しており、官兵衛は信長の命で小寺姓を棄て、黒田の名乗りに戻っている。
以後、官兵衛は秀吉の幕下にあって、天正九年六月に因幡国鳥取城を包囲し、同年七月に淡路・阿波を経略、十一月には淡路由良城主安宅河内守を攻略し、淡路を平定した。翌天正十年(1582)、毛利氏と雌雄を決せんとする秀吉に従って備中国に出陣した。四月、清水宗治が守る備中高松城を包囲した。ここで、官兵衛が秀吉に水攻めの策を献じたことから、史上有名な「備中の水攻め」となった。
ところが水攻めも大詰めとなった六月、本能寺の変で信長が光秀に殺害された。この知らせを聞いた秀吉は放心の体であったが、官兵衛は秀吉にそっと「上手になされませ」と囁いた。それを聞いた秀吉は、何もいわず官兵衛を見返したという。そのとき官兵衛は、さかしらな失言をなしたことを思い知ったのであった。
ともあれ、毛利氏との和議が進められ、城将清水宗治が切腹することで高松城の戦いは終わった。かくして、史上に残る秀吉の大返しが行われ、山崎の合戦で光秀を討った秀吉が天下取りに躍り出たのであった。その後も孝高は秀吉の帷幕にあって、賤ケ岳の合戦、小牧の戦いなど、秀吉の天下取りの合戦において多くの軍功をあらわした。そして、天正十五年(1587)九州征伐の先陣をつとめ、戦後の行賞において豊前国内のうち六郡十二万石を与えられた。
黒田氏が新領主となった豊前六郡は、そもそも鎌倉時代以来の地頭である宇都宮城井氏が領していたところであった。ときの当主城井鎮房は豪勇の武将として知られ、秀吉の九州平定にも従い、伊予に新領を与えられたがそれを断って旧領である豊前に居坐っていたのである。黒田氏の入部に抵抗した鎮房は長政の率いる討伐軍を撃破する勢いをみせたが、嫡子朝房らを人質として差し出し、さらに女子を長政の室として黒田氏に帰順した。しかし、領内に対する城井氏の存在は侮れないものがあり、官兵衛・長政父子にしてもその処遇に悩まされた。
そのようなおり、肥後に国人一揆が起り、官兵衛はその鎮圧に出陣した。そのとき、留守を守る長政に一計を授け、城井朝房を同行して肥後に出発した。長政は岳父鎮房を中津城に招き、その宴中において謀殺した。一方、官兵衛は朝房を殺害して、目の上のたんこぶであった城井氏を滅亡に至らせたのである。官兵衛は戦国時代きっての器量人といわれたが、この城井氏の扱いだけはかれの人生における数少ない汚点の一つとなった。
官兵衛の不運
官兵衛は廉潔な人柄で、知恵も勇気もあり、武将としての能力もずば抜けていた。しかし、知恵が先走るところがあったようだ。
毛利一族でのちに官兵衛と親しくなった小早川隆景は、官兵衛に「如水(官兵衛の号)殿、おぬしは頭が良すぎる。だから決断が早い。しかし、あまりに決断が早すぎると、間違う場合がある。そこへいくと私は生来愚かだから、考えて考え抜く。慎重に事を運ぶから、後で後悔することは一度もない。しかしあなたの場合はどうだろうか。おそらく後悔されることが多いのではないだろうか」と語ったという。隆景は官兵衛のおせっかいで、秀吉の正室高台院の甥秀秋を養子に押し付けられようとした毛利氏に代わって、秀秋をみずからの嗣子に迎えるという苦い経験をもっていた。隆景は官兵衛の知恵の冴えには軽忽な色合いがあり、かえって官兵衛の欠点ともなっていたことを見抜いていたのであろう。
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天下人となったのちの秀吉が、あるとき近習との談話で、「秀吉死後に天下を取る者は誰だと思うか」と聞いた。それぞれ「徳川家康」あるいは「前田利家」などと名前を挙げたが、秀吉はそれらにかぶりを振って、「官兵衛こそ、秀吉死後に天下を取る者である」といった。これを聞いた官兵衛はただちに剃髪して如水と号し、隠居を願い出て、天正十七年、家督を嫡子長政に譲ったという。
秀吉の天下取りの事業に果たした官兵衛の役割は大きかった。しかし、それに報いられたものは豊前国六郡十二万石であった。これは、官兵衛の才覚を畏怖した秀吉が、構えて官兵衛に大封を与えなかったためであるという。
天下を取った秀吉にとって、天下取りの枢機にあづかり、ことあるごとに知謀のきれをみせた官兵衛の存在は、すでに警戒されるものでしかなかったのであった。官兵衛もよくその機微を察し、進退を誤ることは無かったといえよう。以後、官兵衛は長政をオモテに立て、みずからの存在を韜晦していたようだ。
近世大名、黒田氏へ
その後、秀吉が慶長三年(1598)に病死し、慶長五年に関ヶ原の合戦が起こった。このとき、官兵衛は豊前国中津に在り、黒田の兵は長政に従って家康の陣にあった。官兵衛はただちに貯えてあった金銀をばらまいて、たちまち九千余の兵を集めた。上方で家康と三成が戦っている間に九州を平定して、その勢いをもって家康か三成かいずれか勝ち残った者と決戦をして天下を取ろうと目論んだのである。
官兵衛はまず、三成の後押しで豊後国に上陸した大友吉統の軍を打ち破り、その余勢をかって城主のいない三成派の城を次々と攻略、あっという間に島津氏を除いた九州一円を制覇してしまった。官兵衛の軍は数万に膨れ上り、京に上って決戦を挑む気にもなっていた。
ところが、皮肉なことに息子長政の裏工作で、関ヶ原の合戦は一日で終了していたのである。石田三成は処刑され、長政は筑前一国五十二万石を拝領していた。表面上、九州の家康方として行動した官兵衛には何の沙汰もなかった。家康は官兵衛の「天下取りへの野望」を見抜いていたのである。戦後、凱旋してきた長政が父官兵衛に「家康殿は長政の働きに対して右手を取って感謝してくれた」と報告した。それを聞いた官兵衛は「そのとき、御前のもう一方の手は何をしていた」と一喝、長政ははじめて父の真意に気付いたという。
その後の官兵衛は何事もなかったかのように、楽隠居となって、筑前福岡と京都を往復して暮らし、歌や茶道の風雅に遊んで、慶長九年三月二十日に世を去った。官兵衛は乱世には珍しい人情家であったが、晩年、人変わりがしたように廻りの者を怒るようになった。それが度をすぎることもあって、ついに長政が父をなだめた。そのとき、官兵衛は「これは御前のためにやっていることで、いまわしが嫌われれば、死後の政治がやりやすくなるではないか」と語った。父の深慮遠謀の衰えていないことを知って、長政はなだめようとした自身の愚を恥じ入ったという。
こうして、黒田氏は五十二万石を領する大大名に出世し、代々、封を継いで明治維新に至った。ところで、黒田氏は江戸時代なかごろより、男子に恵まれずに養子が続いた。それは、謀略によって滅ぼされた城井氏の怨念のなせるものと噂されたという。あれだけ知恵の冴えをみえた如水にとって、城井氏の一件は、まことに痛恨の極みであったといえよう。・2006年3月29日
【参考資料:姫路城史/ひょうごの城紀行/小野市史/日本の名族=新人物往来社 など】
■黒田氏に関しては、司馬遼太郎氏の小説「播磨灘物語」、平田弘史氏の劇画「黒田三十六計」がある。いずれも傑作で、一読をお薦めしたい。
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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