朝倉氏
三つ盛木瓜
(日下部氏流) |
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朝倉氏は開化天皇または孝徳天皇の後裔といわれている。はじめ日下部を姓としたが、平安時代末期に但馬国朝倉に
居住し朝倉氏を称したことに始まるという。
下って南北朝時代、孫右衛門広景が足利方の斯波高経に属して越前で戦功を挙げ、坂井郡黒丸城に拠り斯波氏の目代と
なって越前に地歩を築いた。朝倉氏は広景以後家景の代まで黒丸城を本拠とし、守護代甲斐氏などと争いながら、坂井郡・足羽郡に勢力を伸ばしていった。
朝倉氏の出自を探る
朝倉氏の系図は諸本伝わっているが、一つは開化天皇の皇子彦坐命の子孫とするもの、そして、孝徳天皇の皇子表米親王の子孫であるというものの二つに分類される。『朝倉始末記』『赤淵大明神縁起』、但馬の日下部系図などは表米親王後裔説であり、但馬の竹田城の山麓には表米親王を祀った表米神社が鎮座している。
表米親王後裔説によれば、孝徳天皇には三人の男子があり、長男の有馬皇子は謀反の罪を着せられて刑死、弟は出家して入唐、末の弟表米は幼かったため但馬国に流されたという。成長してのち、百済に出兵して戦功があった。そのとき、乗船に穴があきついに沈没かと思われたとき、粟賀明神、養父明神などに必死で祈ったところ、天空より竜に乗った神々があらわれ、船の穴には大鮑が咬み付いて穴を塞いだ。この奇瑞に力をえた表米勢は敵を撃退、無事、但馬に凱旋することができた。表米親王は船を救ってくれた鮑を持ち帰り粟鹿大明神に奉納、親王の子孫は鮑を食することはなかったという。
表米親王の奇瑞の真偽はともかくとして、親王の子孫は日下部姓を賜って但馬の豪族として栄え、平安時代末期の宗高が
養父郡朝倉に住して朝倉氏を称した。宗高は但馬守となった平忠盛に仕え、その子太郎高清も平重盛に仕えて源平合戦
では平家方として活躍した。平家が壇ノ浦で滅亡したのちは、但馬に隠れ潜んでいたが、残党狩りによって捕縛されて
鎌倉に送られ三浦義村に預けられた。おりしも関東に白い猪が現れて、多くの被害を与えたため、頼朝は猪退治を
命じたが誰も退治することはできなかった。そこで、神に占ったところ、但馬に豪勇に武士がいるから、捜し出して退治させるがよいとの神託が出た。豪勇の武士とは高清のことではないかと思った三浦義村が、試みに強弓をひかしてみると、高清は素晴らしい強弓の業を披露した。
討手に選ばれた高清は但馬に帰って養父大明神に参拝、鏑矢を授かると鎌倉にたち帰った。かくして建久四年(1193)
五月、頼朝に拝謁した高清は名刀を授かり、白猪退治に出かけた。白猪と遭遇した高清は、八人張の強弓に神より
授かった鏑矢をつがえて見事に白猪を射殺す手柄を立てたのであった。頼朝は高清をただちに赦免すると、但馬の本領を
安堵し、三つ木瓜の紋を許したという。
以上が朝倉氏発祥に関する伝説だが、朝倉一族は高清を祖として一族が但馬に繁衍した。『朝倉系図』をみれば高清の
あと高景、ついで広景となっているが、あまりにも代数が少ない。『日下部系図』によれば高清は数人の男子
*があり、
長男の安高は八木氏、二男の信高が朝倉氏を継ぎ、三男の長高は七美氏を称した。信高の系は承久の乱に京方となった
ため勢力を失い、鎌倉方となった安高の系が主流となった。そして、安高の孫をみると家高が八木を称し、以下、
能直が宿南、高茂が寺本、高時が田公、そして末男の高実が朝倉を称している。この高実の子孫が、信高系の朝倉氏に
代わって朝倉氏の嫡流となったのである。
室町時代、但馬守護職は山名氏が世襲したが、その被官のなかに朝倉氏の名がみえ、その居城址が朝倉に残っている。
また、先の八木氏は同じ但馬日下部一族である太田垣氏とともに山名氏の四天王に数えられ、
八木城を拠点として戦国末期まで勢力を保った。さらに、田公氏、奈佐氏など但馬の中世史を彩った日下部一族は多い。
………
*
高清の子女に関しては、奈佐郷下司となった高春、朝倉氏を名乗った又太郎高敏、宿南氏を名乗った三郎義高、
田公氏を名乗った四郎高経、福田五郎長高・岡田七郎兼高、僧となった清舜・信応、女子二人がいたとする系図もある。
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室町幕府の成立
高実系の朝倉氏は二流に分かれ、嫡流の重方は南北朝の内乱が始まると足利尊氏に属して活躍、庶流から出た広景と正景(広景)父子は斯波高経に属して越前で活躍した。建武の新政が瓦解して南北朝の争乱が始まると、斯波高経は新田義貞を討ち取り越前を平定した。正景は高経に属して活躍したようで、足羽北庄の代官職を宛行われ、斯波氏の本拠黒丸城を預けられて黒丸城主となった。暦応二年(1339)に斯波高経が足羽郡黒丸城を撤退するさいの軍議に参加しており、早い時期に相当高い地位を得ていたことがうかがえる。
やがて観応の擾乱が起ると、斯波高経は直義方の中心人物として行動したが、正景は子の孫二郎とともに尊氏に属して
奮戦した。正景父子の戦功に対して、尊氏は前の名「高氏」の「高」字を正景に、「氏」の字を孫二郎に与え、それぞれ
高景、氏景と名乗ることを許した。さらに、足羽北庄の預所職を宛行った。擾乱が尊氏方の勝利に終わると、斯波高経は
幕府に帰服して許されたが尊氏の信頼を取り戻すことはできなかったようだ。その後、幕府内における立場を回復した
高経は嫡男義将を将軍家執事(のちの管領職)に就けると、自らはその後見となって幕政を主導するようになった。
高経の専横を嫌った京極道誉ら反斯波派は高経引き下しを画策、そこへ興福寺衆徒が高経の坂井郡河口荘押領停止を
訴えて、春日社の神木を入洛させた。事態を重くみた将軍義詮が突然高経追討の命を出したため、高経は一族とともに
越前に逃げ下った。この貞治の政変に際して高景は、越前新守護職に就いた畠山義深に従って活躍、その功によって
幕府から越前国内七ヶ所の地頭職を宛行われた。
朝倉氏は斯波氏に属して越前に最初の地歩を印したが、斯波氏との関係は決して強固なものではなかった。
朝倉氏は斯波氏の重臣である甲斐氏や二宮氏らと異なり、斯波氏とはある程度の距離を置き、将軍とも直接関係を結ぶ余地をもった独立性の強い武士というべき存在であった。明徳二年(1391)の明徳の乱で、朝倉氏は斯波軍の重要な一翼を担って参戦、次第に斯波氏との関係を強化していったようだ。
明徳三年(1392)、将軍義満の尽力で南北朝の合一が実現すると、室町幕府体制も着々と確立していった。斯波義将は三管領の筆頭として幕府内に重きをなし、よく幕政を総攬した。義将の嫡男義重、孫の義淳らも管領職に就いたが、義将の死後、義淳は管領職を解任され斯波氏の権勢も翳りを見せるようになった。
守護斯波家の混乱
義持のあとを継いだ将軍義教は義淳を管領に任じたが、それは管領職の無力化を図るためだったという。たしかに
義淳は有能な人物ではなかったようで、守護代の甲斐氏は義淳を評して「管領職の器に非ず」などと述べている。
将軍義教は幕府権威の復興と将軍親政の復活をめざして「万人恐怖」とよばれる専制政治を行なった。さらに、
義教は有力守護大名家の勢力削減を図って、積極的に家督相続など内政に干渉した。斯波氏もその標的にされ、義教は
守護代の甲斐氏と通じて斯波氏の無力化を画策した。甲斐氏もまた将軍と結ぶことで、越前支配の実権を掌握しようと
したのである。
永享五年(1433)十二月斯波義淳が死去、弟の義郷があとを継いだが義郷も同八年九月死去、義郷の子千代徳がわずか
二歳で家督を継いだ。宝徳三年(1451)元服して義健と名乗ったが、義健もまた翌享徳元年(1452)九月に死去して
しまった。義健には子がなかったため、一族の斯波持種の子息義敏が本家に入り、越前・尾張・遠江三か国の守護職を
継承した。越前守護斯波家の当主が相次いで世を去るなか、領国支配の実権は守護代甲斐氏が掌握するようになり、
傍系から斯波氏を継承した義敏と甲斐氏とは徐々に対立を深めていった。
越前の国人領主たちは義敏を応援して甲斐氏に反目、義敏と甲斐氏の対立は将軍義政の親裁を受けることになった。結果は甲斐氏の勝利となり、怒った義敏は出奔、越前の堀江氏や斯波氏の根本被官たちは京で乱妨を働いた。幕府は甲斐・朝倉氏に鎮圧を命じ、堀江氏らはことごとくと討ちとられた。事態を憂慮した幕府は義敏と甲斐氏に和睦を命じ、義敏は幕府に出仕し、甲斐氏が押領した所領は返還することになった。しかし、甲斐氏は和睦の条件を履行しなかったため、長禄二年(1458)七月、ついに合戦となり甲斐方の敗北となった。
敗れた甲斐氏は幕府と結んで巻き返しを図り、義敏方と甲斐方との戦いが繰り返された。長禄三年になると戦いは
尾張も巻き込む様相を見せたため、幕府は和睦を図ったが両者の対立はやまず、幕府は甲斐氏を応援して事態の収拾を
目論んだ。対する義敏は甲斐方の敦賀城を攻撃、将軍義政は近江の熊谷氏らに義敏討伐を命じ、これに力をえた甲斐方の
反撃によって義敏は敗退、さらに将軍の命を受けた越中・能登・加賀勢らの攻撃を受けた義敏方は散々な敗北を喫した。
義政は義敏の守護職を剥奪、身の置き場のなくなった義敏は周防の大内氏のもとへ遁走した。
この越前一国を戦場と化した長禄合戦は、守護内衆と国人領主の対立が背景にあり、内衆の代表が甲斐氏であり、
国人の代表が堀江氏という構図であった。そして、斯波氏と対立した甲斐氏は幕府と結び、堀江氏らは義敏を担いで抗争を
繰り返した。この争乱のなかで国内の諸荘園の代官職を獲得し、在地に対する支配力を
確立した武士や国人たちが乱世を生き抜いていったのである。朝倉氏中興の祖といわれる孝景もまた、そうした武士の一人であった。
朝倉孝景の台頭
孝景は朝倉教景(家景)の長男として誕生、守護斯波義敏の「敏」の偏諱を受け孫右衛門尉敏景と名乗り、祖父の
教景(法名心月)の後見のもと嫡子として成長した。長禄二年十一月朔日、彼は甲斐敏光らとともに越前に下国し、
翌三年五月十三日の敦賀城合戦後に足羽郡北庄に居を構えた。
長禄合戦は守護斯波氏と守護代甲斐氏の抗争を軸にしながら、武士や国人の同族内部における対立・抗争をも
はらんでいた。朝倉氏の一族も在京の惣領孝景と越前の庶子家とが分裂して対立、この争乱のなかで、孝景は有力国人
堀江氏をはじめ、同族内の反対勢力も一掃することに成功したのであった。以降、府中近辺や敦賀郡を勢力とする
甲斐氏、大野郡一帯を支配する二宮氏らに対し、一乗谷を拠点に足羽・坂井両郡においてその基盤を固めていく
ことになる。その後、義敏を嫌って教景と名乗り、弾正左衛門尉を称し、越前における覇権確立を狙った。
長禄三年(1459)斯波義敏が周防国大内氏のもとに隠退、幕府は利氏の一族渋川義廉を守護職に就かせた。これが
のちに斯波家を分裂させ、応仁・文明の乱を引き起こす一因となった。このころ、朝倉孝景は関東出陣中であったが、
斐氏とともに上洛を命じられた。関東から上洛した孝景は、在京して甲斐氏とともに義廉を補佐した。その一方で、
越前における勢力の拡大にも努め、越前北部における諸荘園の代官職を請け負うなどして、着々と勢力を拡大していった。
かなり強引なやり方で在地に対したようで、百姓の抵抗を受け、寛正五年(1464)には大乗院より呪詛を行われた。
呪詛から逃れるためであろう、名を教景から孝景に改めている。孝景は守護斯波氏を補佐しながら、越前では強引に
勢力拡大を推し進め、やがて守護代甲斐氏を凌ぐ力を有するようになっていった。
翌寛正六年、さきに大内氏のもとに奔っていた前守護義敏が、甲斐氏や朝倉氏の反対にも関わらず赦されたことで、
事態は波乱含みとなった。翌文正元(1466)年、義廉は失脚、義敏が斯波氏の惣領に返り咲いた。これに対し、義廉を
支持する四職の山名・一色氏および土岐氏らの守護たち、甲斐・朝倉氏ら斯波氏の被官たちは強く反発した。しかし、
義敏は確実に幕府に復帰し、越前守護職にも再任されたことで、洛中では合戦の噂が飛び交う不穏な情勢となった。
ところが、山名勢の巻き返しによって突然に義敏が没落、さらに幕府から追討命令が出た。さらに山名宗全は管領
畠山政長を追い落として、義廉を管領職に就けた。山名宗全の勢力が強大化するのを危惧したのは、娘婿でもある
細川勝元であった。勝元は将軍継嗣問題の解決に尽力していたが、それに反対する日野富子が宗全を頼ったことで、
幕府内は勝元派と宗全派とに分裂した。かくして応仁元年(1467)、京の上御霊社における畠山政長と畠山義就の
合戦を引き金に応仁の乱が勃発した。
大乱における飛躍
将軍義政を奉じる細川勝元は花の御所に本陣を置き、対する山名宗全は花の御所西方に位置する自らの邸を本陣としたことで、それぞれ東軍、西軍とよばれることになった。若狭武田勢が西軍の山名邸を正面から攻撃すると、朝倉・甲斐ら斯波義廉勢は東軍の細川勝久邸を攻撃した。京極勢が加勢に出陣してくると、朝倉孝景はみずから刀を振るって敵を切り伏せる活躍をみせ京極勢を退却に追い込んだ。さらに、武田氏との二条での戦い、東軍方の攻撃を受けた義廉邸の防戦など、孝景は獅子奮迅の活躍を見せ勇名を轟かせた。『応仁記』や『大乗院寺社雑事記』・『経覚私要鈔』など、当時の記録をみると孝景の奮戦ぶりが随所に記されている。勇将孝景の存在を恐れた東軍は、孝景への寝返り工作を画策するようになった。
『朝倉家記』には、孝景が東軍に寝返るまでの経過が記され、当時の複雑な情勢を知る格好の史料となっている。
東軍からの勧誘工作に接した孝景は、「真実上意ニ候哉」と耳を疑ったという。さらに、将軍足利義政の御内書が届くと
孝景は心穏かではいられなくなったようだ。しかし、ことがことだけに慎重な態度をとる孝景に対して、勧誘工作は延々
と続いた。一方の孝景は、東軍の工作に対して越前守護職相当の権限を求めた。孝景にしてみれば、東軍に寝返ることは
斯波義敏の命令を受けることになりかねず、みずからの立場を危うくするものであり、心情的にも我慢できることではなかった。
文明三年(1471)、幕府が孝景の要求をいれたことで、孝景の東軍寝返りは現実のものとなった。乱世とはいいながら、
守護の一族でもない被官が守護権の行使を認められたことは空前のことであった。
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越前守護に代わる存在となった孝景は、幕府の支援をえて越前の平定に乗り出した。甲斐氏をはじめ越前の武士たちは、主君を裏切った成り上り者というべき孝景を嫌悪してことごとく敵対した。孝景は義敏方とたくみに手を結び体制を整えると、文明四年、甲斐氏の拠る府中を攻撃、甲斐勢を国外に追い落とす大勝利をえた。以後、優勢に越前平定戦を進め、その一方で皇室領や寺社領などを押領、越前の武士を被官化して朝倉家による支配体制を確立していった。
文明六年、西軍の中心人物大内政弘が帰国したことで、さしもの応仁・文明の乱も終息した。しかし、戦乱は日本全国に拡散しており、すでに世の中は戦国時代へと推移していた。この乱において、西軍から東軍に寝返るという荒業をみせた朝倉孝景は諸処における奮戦によって勇将の名を不動のものとし、戦国大名朝倉氏の基礎を見事に築き上げたのであった。
乱は終わったとはいえ、斯波義良を奉じる甲斐・二宮らが反朝倉氏陣営を作り上げ、文明十一年、反朝倉勢は越前に攻め込んだ。情勢は朝倉方が不利であったが、次第に戦況は朝倉方の優勢へと推移していった。そのようななかの文明十三年、陣中で患った腫れ物が原因で孝景は世を去った。享年五十四歳、まだ壮年というべき年齢であった。孝景は戦国大名の家法として有名な「朝倉敏景十七ヶ条」の制定者でもあり、文武に長じた朝倉氏中興の祖というべき人物だった。
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孝景は文明三年に守護職に補任されたとするのが定説となっているが、前後の状況から
守護職相当の権限を得たという表現にした。
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・朝倉孝景像
(東京大学史料編纂所所蔵肖像画模本データベース)
国主として越前を支配
孝景の死は朝倉氏に大きな動揺を与えたが、あとを継いだ氏景は一族を統率して反朝倉勢との戦いを続けた。そして同年九月、ついに反朝倉勢を越前から追い落とす大勝利をおさめ、越前における覇権を確立した。
その後、斯波義廉の子を越前に迎えて国主として推戴、ついで甲斐氏と和睦、越前国は朝倉氏、遠江国は甲斐氏、
尾張は織田氏がそれぞれ守護代として治め、斯波氏を主人として仰ぐことで事態は収拾された。ほどなく、義廉の子は
尾張に移り住んだことで、朝倉氏景による越前支配が確立したのであった。それから間もない文明十八年(1486)、
氏景は三十八歳の若さで世を去った。
氏景のあとは少年ともいうべき嫡男の孫次郎貞景が家督を継ぎ、大叔父慈視院光玖らが後見となって貞景を支えた。
翌長享元年(1487)、将軍足利義尚が六角征伐の陣を起こすと、貞景にも出陣の命令が下った。尾張の斯波義寛も将軍の命を受けて出陣、朝倉氏からは敦賀郡司の景冬が先兵となって近江に出向した。そこで、思いがけぬ事件が起こった。越前国宗主を自認する斯波義寛が、越前を押領した旧被官である朝倉氏との同陣を拒否したうえに、宗主権回復のため「朝倉進退」について幕府に提訴したのである。
斯波義寛の主張は正論であったが、六角征伐を目前とした将軍義尚にすれば迷惑な訴訟であった。訴訟は朝倉方の勝訴となったが、斯波氏の朝倉氏に対する提訴はその後も繰り返された。
義尚が六角征伐の途中で病没すると、そのあとを継いだ義材も六角氏征伐の陣を起こした。この陣に尾張の斯波義寛は
参陣をしたが、貞景は義寛との衝突をさけて参陣しなかった。しかし、越前の「朝倉進退」について義寛が提訴、
朝倉氏と斯波氏の越前をめぐる争いが再燃した。幕府からは五ヶ条の調停案が出されたが、そのなかの「朝倉貞景の
斯波氏参仕」の項は貞景にとって受け入れられるものではなかった。貞景は窮地に追い込まれたが、義廉の別の男子を
越前に迎え参仕することで問題に折り合いをつけた。義廉男子の子孫は鞍谷殿とよばれ、朝倉氏の客臣として
続いたことが知られる。
二度にわたる訴訟を切り抜けた貞景は、越前国主宗主権を獲得し、領国支配組織を整備していった。そうして領国
支配権を確立すると強大な軍事力をもって、対外出兵を行うようになった。明応四年(1495)、隣国美濃において
斎藤氏と石丸氏の対立が高じて船田合戦が起こると、貞景は斎藤氏を応援して出兵、翌五年に石丸氏を滅亡させた。
また、明応二年(1493)、管領細川政元による将軍義材追放クーデターが起こると貞景も出兵、同七年には
越中に逃れていた義材が上洛を企てると一乗谷において約一年間にわたって庇護を加えた。結局、京に入ることが
できなかった義材は遠く周防の太守大内義興を頼って流浪していった。
戦国大名として君臨
永正九年三月、鷹狩りに出かけていた貞景が急死したが、すでに朝倉氏は越前国主として磐石の存在であった。
家督を継承した孝景は、永正十三年、将軍に返り咲いた義稙(義材)から白傘袋ならびに毛氈鞍覆を免ぜられた。
さらに大永八年(1528)には十二代将軍義晴の御供衆に加えられ、天文七年には相伴衆もに列した。文字通り、
朝倉氏は幕府からも一目おかれる戦国大名に成長していた。
その実力を背景として貞景は、永正十三年、越前に逃れてきた隣国美濃の国主土岐政頼を支援して帰国させ、美濃の
内紛に積極的に介入した。また、六角氏に敗れた北近江新興勢力浅井亮政を庇護してその復帰を応援、さらに丹後勢の
侵攻に苦慮する若狭の武田元信を援護するなど、朝倉氏の勢力は国外にまで及ぶようになった。その一方で、
貞景の代より続く加賀一向一揆との抗争は本格化し、孝景は積極的に加賀に出兵するなどして一揆勢との戦いを
優勢に進めた。
孝景(宗淳)の治世は天文十七年(1548)に世を去るまでの三十六年間におよび、弟高景の謀反などもあったが、朝倉氏の全盛時代を現出した。また、飛鳥井雅康に蹴鞠を学び、自詠の歌を三条西実隆に送って批評を乞うて褒賞を受けるなど、文芸方面でも優れた才能を発揮した。同時代を生きた南禅寺の月舟寿桂は孝景を評して「治世よろしく、将帥に兵法を論じて厳、詩歌を評して妙である」と記し、京都五山の禅僧春沢永恩は文道を左に武道を右にした「風流太守」と述べ、当時、傑僧とよばれた人々が孝景の人物を高く評価した。
朝倉氏の城下町である一乗谷には、飛鳥井雅綱・一条房冬らの公家をはじめとして儒家の清原宣賢、神道の吉田兼右、幕臣の伊勢貞隆、連歌師の宗長・宗牧などなど、多彩な人物が下向し、貞景の治世に華やかな色合いを添えた。貞景は文化面においても黄金時代を現出したのであった。
天文十七年、孝景は足羽郡にある波着寺に参詣の途中で急死した。そのあとは十六歳の嫡男長夜叉丸が家督を継ぎ、天文二十一年将軍義輝の偏諱を受けて義景と名乗り左衛門督に任じられた。若い義景を支えたのは孝景の末子に生まれ、貞景・孝景らを補佐してきた朝倉教景(宗滴)であった。宗滴は敦賀郡司に任じられ、朝倉軍の軍奉行として一向一揆との戦いに活躍、さらに近江浅井氏、若狭武田氏を救援して遠征するなど朝倉氏の武威を高からしめた名将であった。七十九歳という高齢でなおかつ合戦に参加したという話は有名で、宗滴教景の語り残した話を家臣が書き留めた『朝倉宗滴話記(宗滴夜話)』は家訓としても名高いものである。
………
・宗滴がk築いて駐屯した小谷城址の金吾丸
あっけない滅亡
義景も京文化を積極的に一乗谷に移し、山口の大内文化などとともに一乗谷文化あるいは朝倉文化とよばれる
城下町を現出した。さしもの強勢を誇った越前朝倉氏であったが、朝倉宗滴が弘治元年(1555)に死んでからのちは、
歯止めを失った義景の奢りをきわめた生活が始まり、次第に衰えを見せるようになる。
永禄九年(1566)、越前に流浪してきた足利義秋を一乗谷に庇護したが、義秋を奉じて上洛の軍を起こすということは
なかった。朝倉氏に失望した義秋は、美濃の織田信長を頼って越前を去っていった。義秋を受け入れた信長は、
永禄十一年、義秋を奉じて上洛の軍を起こした。そのとき、信長は朝倉義景にも出陣を要請したが、義景は出兵を
拒否したため信長との間に対立関係を生じさせた。歴史に「if」はないが、もし義景が義秋を奉じて上洛していたら、
あるいは信長の要請をいれて出兵していたら、その後の日本史は大きく変化していたかもしれない。
元亀元年(1570)、織田信長は朝倉義景を攻めるため兵を越前に進めた。ところが信長の妹お市を妻に迎え同盟関係を
結んでいた小谷城主の浅井長政が、信長にまさかの反旗を翻したのである。ここにおいて朝倉・浅井連合軍が、
信長の前に共同の敵として立ち現われることになった。この年六月、近江の姉川を挟んで姉川の合戦が行われ、
義景は一族の景健に兵一万をつけて遣わしたが徳川軍に側面を突かれて敗北した。朝倉義景みずからが大将となって
出陣していたら、あるいは別の結果が生じたものと思われるが、義景は時流を見失った凡将であったというしかない。
その後、義景は武田信玄・本願寺らとも連携して織田信長と対立、一時、浅井長政とともに湖西に進出して
信長を窮地に追い込むという一幕もあった。天正元年、信長軍に包囲された小谷城を救援するために出陣したが
刀禰坂の合戦に敗れて越前に敗走、信長軍の越前侵攻を許した義景は一乗谷を捨てて大野に奔った。しかし、恃みとした
平泉寺僧兵の応援は得られず、一族にも離反され、ついに進退に窮した義景は自害して果てた。越前に勢力を誇った
朝倉氏も、かくして織田信長の前に滅亡した。もっとも人物が要求される乱世に、凡将を戴いた結果というしかない
呆気ない滅亡であった。
・2010年08月25日
【参考資料:福井県史・但馬の中世史(宿南保氏著)・但馬史・戦国大名系譜人名事典[西国編]
・日本の名族[七]・室町幕府守護職家事典[上] など】
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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浅井氏の歴史を探る…
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
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丹波
・播磨
・備前/備中/美作
・鎮西
・常陸
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安逸を貪った公家に代わって武家政権を樹立した源頼朝、
鎌倉時代は東国武士の名字・家紋が
全国に広まった時代でもあった。
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2010年の大河ドラマは「龍馬伝」である。龍馬をはじめとした幕末の志士たちの家紋と逸話を探る…。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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約12万あるといわれる日本の名字、
その上位を占める十の姓氏の由来と家紋を紹介。
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日本には八百万の神々がましまし、数多の神社がある。
それぞれの神社には神紋があり、神を祭祀してきた神職家がある。
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