波多野氏
丸に抜け十字/丸に竪二つ引両
(藤原氏北家秀郷流?) |
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丹波国は北を丹後・若狭、東を山城、南を摂津、西を播磨・但馬に接する大国であった。畿内五カ国に接する山陰道第一の国で、早くから豪族が存在し、大和朝廷ともつながりをもっていた。古代の四道将軍伝説には、北陸に大彦命、東海に武川別、西道に吉備津彦、そして丹波に丹波道主命が遣わされ、多紀郡(篠山市)にある車塚古墳は丹波道主命ともいわれている。丹波は古代より中央政権との関わりが深く、平安京が開かれると都にもっとも接近する国であった。
源平時代になると平宗盛が五畿内・伊賀・伊勢・近江・丹波の惣管となり、平盛俊が丹波国諸荘園総下司に任命され、丹波は平氏政権を支える政治的・軍事的に重要なところであった。やがて平家が滅亡して鎌倉幕府が開かれたが、丹波には皇室・公家領が多かったためか守護が設置されることはなかったようだ。
承久の乱後、執権北条義時の弟時房が守護に任じられ、宮方に味方して没落した公家や武士の旧領は東国御家人に与えられた。和知荘の片山氏、栗作郷の久下氏、大山荘の中沢氏、佐治庄の足立氏などで、かれらは新補地頭とよばれ、次第に在地領主(国人)化していった。しかし、丹波は依然皇室・公家・社寺領が多く、武士の在地領主制の進展は他の地域に比べると著しく遅れをとらざるをえない状況にあった。
丹波武士の活躍
元弘三年(1333)、後醍醐天皇を中心とする倒幕勢力を討つため足利高氏が上洛してきた。伯耆国船上山に向けて出陣した高氏は丹波篠村八幡宮で倒幕の決意を固めると、丹波の武士に檄を飛ばした。『太平記』によれば、久下氏をはじめ、荻野・芦田・波々伯部・中沢らの丹波武士が高氏のもとに馳せ参じた。かくして、高氏は丹波武士を率いて六波羅を攻め落とした。一方の鎌倉では新田義貞が鎌倉を攻め、北条高時らは切腹して鎌倉幕府は滅亡した。
建武元年(1334)、後醍醐天皇親政による建武政府が発足したが、翌年、足利尊氏の造反によって新政は崩壊、南北朝の動乱時代を迎えた。芦田・波々伯部・中沢らは尊氏に味方して、丹波守護に任じられた仁木頼章に従った。その後、丹波守護は仁木氏が更迭されて山名時氏が補されたが、観応の擾乱に際して時氏は直義方となったため仁木氏がふたたび守護に任じられた。やがて仁木氏は幕府内部で勢力を失い、擾乱が終わったのち時氏がふたたび丹波守護となった。時氏は小林氏を丹波守護代に任じて領国経営を進め、時氏の死後は氏清が丹波守護を継承した。
当時、山名氏は一族で十一カ国の守護職を有して「六分の一殿」と称される大勢力を築いていた。将軍義満は山名氏の勢力削減を図るようになり、策謀をもって山名一族に内紛を誘発させた。策謀にのせられた氏清は南朝に通じて挙兵。京都に攻め入ったが敗れて滅亡した。さしもの山名氏の勢力は但馬・伯耆・因幡三国を保持するばかりとなり、丹波守護は幕府管領をつとめる有力者細川頼元に与えられた。以後、丹波守護は戦国時代の末期まで細川京兆家が世襲するところとなった。
細川氏は守護代、小守護代、郡奉行などを置いて領国支配機構を整備していった。その特長は、丹波の国人を起用せず、みずからの内衆を領国支配に起用したことである。守護代は二宮氏、香西氏らが任じられ、香西氏が罷免されたあとは一時期をのぞいて内藤氏は守護代を世襲した。内藤氏の場合、多紀郡曽地にいた内藤氏の子孫というが、細川氏の領国支配のあり方からみて可能性は低いのではなかろうか。それはおくとして、細川氏の丹波支配のありかたは、丹波国衆の反発を招かざるをえなかった。
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写真:篠村八幡宮
波多野氏登場前の丹波
応仁元年(1467)、かねてより燻っていた管領畠山氏・斯波氏の家督争いに、将軍家の継嗣問題が絡まって応仁の乱が起こった。丹波守護細川勝元は将軍義政をかついで東軍を率い、但馬の山名宗全が西軍を率いて勝元と対立した。丹波は山名氏の領国である但馬から京への道筋にあたり緊張状態におかれたが、守護代の内藤元貞はよく防衛につとめ丹波一国を保持した。
応仁の乱が終わったのち、内藤氏は一宮氏との抗争によって丹波守護を更迭され、上原氏が守護代に任じられた。ところが、上原氏の支配に対して丹波国人衆が反発、延徳元年(1489)、大規模な国一揆が起こった。一揆衆の荻野・須知・久下氏らは須知城、位田城に籠って上原氏の攻撃に抵抗した。一揆衆の抵抗に手を焼いた細川政元は自ら出陣して、明応元年(1492)に一揆を鎮圧、荻野氏らは自刃して一揆は弾圧されて終わった。
当時、幕府は将軍足利義材を奉じる畠山政長が管領として権勢を振るっていた。明応二年、政長は義材とともに河内に出陣、対立する畠山基家を攻撃した。これを好機とした政元派足利義澄を奉じて、クーデタを決行、政長を自害に追い込み義材を捕らえて義澄を将軍職に据え、幕政を牛耳るようになった。この明応の政変が、本格的な戦国時代の幕を開くきっかけになったというのが定説になりつつある。細川氏の領国である丹波も、否応なく戦国争乱の坩堝へと叩き込まれていった。
ここに至って、これまで一切登場することのなかった波多野氏の姿が丹波史に登場してくるのである。波多野氏は丹波生え抜きの武士ではなく、石見国の吉見清秀が細川勝元に仕え応仁の乱に活躍、勝元の命を受けて母方の波多野を名乗った。そして、政元の代、多紀郡の小守護代に任じられ多紀郡に下向してきたものであった。
波多野氏出自考
武家波多野氏としては、藤原秀郷の玄孫にあたる経範が、はじめて波多野を称したとされる秀郷流波多野氏が知られる。保元・平治の乱で源氏方として活躍した義通の時代は、秦野盆地から足柄平野への進出がめざましく、河村・松田・大友・菖蒲・広沢などそれぞれ地名を負った庶子家を輩出した。承久の乱の功によって、越前国比志庄を与えられた波多野義重はその地に移住したようだ。義重は曹洞宗を伝えた(開祖)道元禅師を所領の比志庄に迎え、永平寺を建立し、以後代々曹洞宗の庇護者になるなど宗教史のうえで大きな功績を残した。この義重の流れが秀郷流波多野氏の本流となる。鎌倉時代には六波羅探題評定衆をつとめ、室町幕府にも評定衆の一員として京都で活動した。
丹波波多野氏の出自に関して、『丹波志』では「波多野氏は其の初め因州八上郡・周知郡を領有しければ、士人みな八上殿と称す。然る所、応仁の乱に秀国、秀高、秀行、秀長、父子兄弟山名宗全に従ひて京に攻め上り、其の後、秀長・此の地に留まり住す。其の子備前守秀忠・永正中、朝路山に築き、高城と称し、城下の地を八上と号す」とあり、因幡国から移住してきたことになっている。また、『籾井家日記』では「秀郷後裔、鎮守府将軍波多野筑前守義通公の五代の末、経基公の御時、初めて丹波国に御安住なされ候より、丹波本荘波多野家と申し奉る。御父義基公を伯耆波多野と申し奉り、御子経秀公をば美作波多野家と申して御一流也。さて経基公より七代、正四位侍従因幡守行秀公・因州の守護国司として、因幡・伯耆・美作三箇国を守護す。行秀公より代々守護国司職を守り、四代の後胤、因幡中将刑部大輔波多野秀綱公の御嫡子を因州の国司右近衛中将左衛門太夫波多野秀行公と申し候。御二男をば美作少将左京太夫波多野秀高公と申し候。・・・中略・・・秀行公、秀高公と丹波のお屋形波多野下野守秀経公とは、御先祖より一体にて御通路浅からず、此の時丹波波多野の御家に御子なし、秀行公の御子千勝丸殿を御養子になされ、御家督を譲らせらる。波多野右衛門太夫秀治と申して、此の比の御屋形と崇め奉るの御事なり。是を国司家とも、東波多野殿とも、八上殿とも申すなり。・・・後略・・・」とあり、秀郷流波多野氏の流れとなっている。丹波志はともかくとして、籾井日記はいわゆる軍記ものでその内容は鵜呑みにすることはできないものである。
波多野氏の初代清秀には嫡子元清が南禅寺の月舟寿桂大和尚にもとめた画賛があり、寿桂の『幻雲文集』に「波多野茂林居士肖像賛」として残されている。それによれば「波多野茂林居士は石州の人で、姓は源氏で吉見氏、十八歳で上洛、細川勝元に仕え、母方の姓波多野氏を名乗る。武を好み、応仁の乱以来、各地で戦功を挙げ、六十二歳で没す(要約)」とあり、波多野清秀は石見吉見氏の一族であり、細川勝元に仕えて名を現したことはまず間違いないところであろう。
とはいえ、清秀が母方とはいえ波多野を名乗った背景には、「秀」を用いたことは秀郷流波多野氏に連なる由緒、幕政に影響力をもつ波多野氏らとの関係を意識したものとみられる。
ちなみに『姓氏家系大辞典』では、「八上郡波多野城に拠りし豪族にして、日下部姓、田公氏の族かと云ふ。因幡志に「日下部村、高平城。国侍波多野民部大輔・数代相続の城跡也。高平と云ふ人の墓・其の麓に在り、是の人・草創するにや。」という因幡の波多野氏説、「多紀郡八上城、及び氷上郡氷上城に拠る。因幡八上郡田公氏の族にして、秀長・多紀郡に来り住して、八上殿と呼ぶ。」という田公氏説が紹介されているが、「波多野茂林居士肖像賛」を覆せるものではない。
波多野氏の丹波土着
細川氏の命とはいえ、清秀が母方の波多野を名乗った背景には、秀郷流波多野氏に連なる由緒、幕政に影響力をもつ波多野氏らとの関係を意識したものとみられる。また、細川勝元の内衆に波多野秀久がおり、丹波や摂津に奉書を発給している。清秀の「秀」字は秀久の名乗りに通じるもので、清秀の出頭には秀久の後押しもあったのかもしれない。
清秀が文書上にあらわれるは文明十七年(1485)、守護代上原氏の遵行状においてで、そのとき、清秀は多紀郡の小守護代であった。多紀郡に下向した清秀が拠点としたのは、高城山南西麓の尾根にある奥谷城とみられている。多紀郡の中心地であった高城山麓の八上には、清秀の入部以前より守護代内藤氏の被官辻氏、難波氏らが居住しており、清秀はかれらを駆逐して奥谷に城を築いたようだ。丹波に拠点を築いた清秀は、摂津野間荘の代官職も務めるなどして勢力を拡大していった。清秀没後に家督を継いだ元清は、細川氏内衆として行動、京にも邸を構えていた。
元清が使えた細川政元は実子がなく、九条政元の子澄之養子としたが、のちに阿波細川家からも澄元を養子に迎えた。それが因となって、家中は澄之派と澄元派に分かれて対立するようになった。永正元年(1504)、薬師寺与一が反乱を起こすと、元清は柳本氏らとともに香西元長に協力して淀城攻めに参加した。その後も細川家中の対立は続いたが、永正四年、元清は丹波守護代内藤貞正らと丹後に出陣、加悦城に拠る石川直経を攻撃した。ところが、細川政元が養子澄之を擁する家臣団によって暗殺されるという事件が起こった。ただちに兵を返した元清は澄之に属して行動したが、澄元派の反撃で澄之が滅亡すると、ためらいなく澄元に転じて京都の邸を差し出している。
政元のあとは澄元が継ぎ、細川家の内訌は収まったかにみえたが、今度は澄元と細川高国との間に対立が生じた。
高国は先に政元に追われて周防に流れ大内氏義興の庇護を受けていた前将軍義稙に通じ、澄元と対抗、
義稙が上洛の陣を起こすと義興と結んで澄元と一党を京から
駆逐した。元清は丹波守護代内藤貞正らとともに澄元から離反して高国派に転じ、高国政権の樹立に寄与した。
当時、多紀郡では波々伯部氏、酒井氏が高国派で、大山の中沢氏は澄元派であった。元清は波々伯部氏ら郡内の在地領主を率いて出陣、福徳貴寺の戦いで中沢元綱を倒して多紀郡内を制圧した。
かくして、元清は高国政権を後ろ楯として、船井郡上村荘の代官職を獲得、摂津国杭瀬荘を押領するなど勢力を着実に拡大していった。上村荘は丹波守護代である内藤氏の拠る八木城の後背地にあり、丹波から京都へ通じる山陰道と摂津へ下る能勢街道が通じる交通の要衝であった。以後、波多野氏は大永六年より永禄八年まで、上村荘からあがる炭などを皇室に貢租し続けた。上村庄は、波多野氏にとって京との関係を保つうえでもかけがえのない所領となった。
多紀郡を掌握した元清は新たな支配拠点として、朝路山山上に八上城を構築。その一方で、弟元盛を讃岐出身の
京兆家内衆の香西氏に、末弟の賢治を大和国衆の柳本氏に入れるなどして、細川氏内部での立場を強化していった。
元清は機を見るに敏く、政略にも長けた人物であった。
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写真:奥谷城址と高城山八上城址(右後方)
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・篠山城址から遠望 ・初夏の八上城址(日置から・八上上から) ・弁天橋方向から見る ・池越しに大熊方面から
・篠山川越しに朝霧の八上城址 ・東吹方面から遠望 ・殿町山麓より ・東仙寺谷方面から ・法光寺城址より ・辻交差点から
→ 八上城址に登る
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勢力の拡大
その後も澄元と高国の抗争は続き、永正八年(1511)、澄元方と高国方とが芦屋河原で戦うと元清も出陣、敗れた高国方の将河原林正頼を八上城に匿った。永正十五年(1518)、大内義興が帰国すると澄元方が反撃、永正十七年(1520)、高国は近江に逃れ六角定頼を頼んだ。翌年、定頼の応援を得た高国は京に進攻、元清もこれに呼応して京に出陣、澄元は恃みの重臣三好之長を討たれて阿波に逃げ帰った。京都を奪回した高国は澄元に協力した将軍義稙を追放、播磨赤松氏のもとにあった義晴(義澄の遺児)を将軍に迎え、高国政権は一応の安定をみせた。
ところが大永六年(1526)、高国は細川尹賢の讒言を信じて近臣の香西元盛を殺害した。怒った元清は弟の賢治とともに晴元に通じて高国から離反、元清は八上城に、賢治は亀岡の神尾山城に拠って兵を挙げた。高国方は細川尹賢を主将とする討伐軍を出撃させた。さらに、長塩・薬師寺・塩川など摂津、山城の守護代、郡代クラスが動員され、但馬守護の山名誠豊にも背後から牽制するように働きかけていた。しかし、内藤国貞が戦線を離脱、池田城主の池田弾正も裏切ったところへ、氷上郡の赤井五郎(忠家)が元清に味方、賢治に加勢したことで、高国方は散々に打ち破られて波多野方の大勝利となった。この余勢をかって元清らは京都近郊にまで勢力を及ぼすようになった。
翌七年二月、元清と賢治は京の桂川で高国軍と対戦、激戦のすえに勝利をおさめた。敗れた高国は将軍足利義晴を奉じて近江に逃れ、幕府官僚も落ち延びて高国政権は崩壊した。元清の子秀忠と賢治が京都に乱入、波多野氏は京支配に関与するようになった。三月下旬、足利義維を奉じた細川晴元が阿波から堺に上陸、「堺政権」とよばれる体制を樹立した。政権を支えたのは、阿波衆の有力者三好元長と丹波衆を率いる元清・賢治兄弟であった。この元清の目覚しい出世は、守護代として勢力のあった内藤氏との対立を生じた。
高国が没落したのち晴元に服した内藤国貞は守護代に任じられたが、その去就は不穏なものがあった。享禄三年(1530)、播磨に出陣していた賢治が、東条において高国を擁した浦上村宗の刺客によって暗殺された。この企てには高国に通じる内藤氏も一枚噛んでおり、波多野氏と内藤氏との反目は深刻化していった。やがて、浦上村宗の支援をえた高国は反撃に転じ、播磨を経て摂津に進撃した。翌年、高国勢は、晴元方の伊丹城、池田城を攻略、池田城に篭城していた元清は城を脱出したが進退極まり自害した。ここに、波多野氏はさきに賢治を失い、元清も失うという事態となった。波多野兄弟を失った晴元方では三好元長が台頭、摂津天王寺の戦いで高国・村宗勢を打ち破り高国を自害に追い込んだのである。
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写真:国道372号線から見る神尾山城
丹波最大の実力者に成長
元清の死後、家督を継いだ秀忠は、晴元が三好氏を重用するようになると反晴元の立場をとるようになった。
天文元年(1532)、高国の弟晴国を奉じると、摂津の能勢氏らとともに晴元と対立、京都をうかがった。翌二年、晴元方の赤沢景盛の拠る丹波母坪城を攻め落とした。また、晴国は一向一揆に推戴され、晴元は法華一揆を利用したことから、両者の戦いが京都周辺で繰り返された。秀忠は晴国の感状に副状を認め山崎惣中に忠節を求めるなど、晴国の有力内衆として行動し、十二月、秀忠は晴国とともに入京した。ところが、翌年には晴国から離反して晴元方に復帰、内藤国貞に代わって丹波守護代の地位につくと一族の与兵衛秀親に船井郡代官職を申し付ける判物を発給している。
判物は守護クラスの領主が用いた文書様式であり、秀忠は多紀郡・船井郡の事実上の守護代としての勢力を築いていたようだ。
波多野氏は丹波においては新参者であり、細川京兆家の有力内衆として京と丹波を往来した。元清の死後家督を継いだ
秀忠も京と丹波を往復し京で活動していたことは、京都違乱を停止するように命じた幕府通達などから知られる。
丹波は細川京兆家の守護領国としてその威勢がよく及んでいた、波多野氏は京兆家内衆としての立場を最大限に
利用して丹波に勢力を扶植、拡大していったのである。
やがて守護代の地位をめぐって内藤氏との対立が激化、天文七年、国貞が晴元に背く姿勢をみせると、
三好政長とともに八木城を攻撃、内藤国貞を没落させる。天文九年には三好元長の子で摂津守護代を務める長慶に
娘を嫁がせ、三好氏との敵対関係を解消。のちに長慶と娘の間には男子(義興か)が誕生した。
さらに、多紀郡・桑田郡・船井郡の諸領主はもとより、氷上郡の赤井氏や天田郡の細見氏らとも友好関係を築き、
さらに京都・山城・摂津・播磨にも影響力を及ぼすようになった。かくして、波多野秀忠は山科言継がその日記に
秀忠を「丹州守護」と記すように、押しも押されもせぬ丹波の最有力者にのしあがったのであった。
秀忠は長慶とともに晴元の有力内衆としてその政権を支え、協力して摂津一蔵城、丹波関城攻めを行った。
一方で一族の与兵衛とともに禁裏御所の築地普請を行うなど、朝廷とも密接な関係をもち、京都にも相当な
勢力基盤を築いていたようだ。
秀忠は丹波における勢力を拡大するとともに、本拠である八上城と城下町奥谷を整備、発展させていった。奥谷の防衛機能を強化するため、西方の法光寺山に城塞を築き、八上城、奥谷城と併せて三位一体の守りを作り上げた。いまも、奥谷(殿町)の奥谷城の北部一帯には、ひな壇状に石垣が残り、かつて家臣団屋敷があったことを思わせる。また、奥谷の南東部には波多野氏の菩提寺であったという東仙寺跡があり、谷周辺にも法光寺など波多野氏ゆかりの寺院があったという。さらに、谷の入り口は市が立つなど、奥谷は波多野氏の城下町として賑わった。その跡は戦前まで残っていたが、戦後の圃場整備によってかつての地形は大きく変わってしまった。
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写真:殿町(奥谷)と法光城址
三好長慶との攻防
その後、晴元と長慶の関係が険悪となり、秀忠の娘を離縁した長慶は、遊佐長教の娘を娶り晴元と対立するようになった。このころ、波多野氏は元秀の時代で、元秀は晴元方の一大勢力となり、反長慶勢力の多くが元秀を頼り、波多野氏と三好氏とはふたたび敵対関係となった。元秀は摂津の塩川氏をはじめとした多田御家人らと連係して三好長慶に対したが、一方で有力一族の秀親・次郎父子との対立を深めるなど波多野氏内部の統制も動揺していたようだ。
天文二十一年、八上城は長慶によって包囲されたが、三好一族の芥川氏が元秀に内通したことで、長慶は陣を払い越水城に帰還していった。翌二十二年、長慶は芥川氏を攻略し居城を越水から芥川に移すと、波多野氏への攻撃を強めていった。そうして、長慶は松永久秀・長頼兄弟に命じ、波多野秀親の籠る数掛山城を攻撃した。対して晴元方の香西元成らが長慶に与する内藤国貞の拠る八木城を攻略、国貞を討ち取った。長慶はただちに国貞の女婿であった長頼を派遣、八木城を奪還した長頼は内藤氏の名跡を継いで八木城主となった。弘治元年(1555)、長慶は生瀬口から乱入して八上城を攻撃したが、波多野勢の守りは堅く長慶は撤退していった。
長慶は秀親・次郎父子に調略の手を伸ばして波多野一族の分裂を誘った。そして、永禄二年(1559)、秀親・次郎らの協力をえて八上城を攻撃した。元秀・秀忠らは防戦につとめたが、ついに敗れて波多野一族は八上城から没落した。長慶は松永孫六を八上城主とし、味方した秀親・次郎父子には八上城の近辺に所領を与えるなどして報いている。居城を失った元秀は毛利氏を頼ったというが、まったく没落していしまったというわけではなく、残された文書などからも多紀郡内の領主に対する影響力を保っていたことが知られる。
永禄七年七月、三好長慶が死去。跡継ぎの義継を擁して松永久秀と三好三人衆が政権を掌握した。翌年、赤井氏と対戦した内藤宗勝が横山城の戦いで討死、十月、波多野氏をはじめ須知氏、柳本氏らが赤井氏に与して八木城を攻撃した。そうして、翌九年、元秀は松永孫六を追って八上城を奪還した。ほどなく元秀は死去したようで、秀治が波多野氏を継承した。
戦国大名、波多野秀治
ところで、波多野氏の歴代については不明な点が多く、名乗りも稙通、晴通など将軍の偏諱をもらったと思われる人物があらわれる。高国政権で活躍した波多野氏であれば、将軍の偏諱を賜ったことは容易に想像できるが、残された文書などに稙通、晴通らの名はみえない。また、初代清秀より元清(稙通か)-秀忠-元秀(晴通か)-秀治と続くという説、秀忠は柳本からは入った養子で、そのあとを元清の実子晴通が継ぎ、その子秀治が秀忠のあとを継いだという説がある。さらに最期の当主秀治は、因州波多野氏から元秀のもとに養子に入ったとする説もある。
八上城を失ったのち、秀治は黒井城の赤井直正を頼って再起を図ったらしい。永禄三年、正親町天皇の即位に際して金帛を献じて朝儀に参加したというが、ちょっと信じられない。永禄八年、赤井直正の挙兵に応じて内藤氏を討ち、翌年、念願の八上城に復帰した。翌年、直正とともに松永久秀に味方して、京四千人の兵を率いて京都西岡に出陣、三好三人衆と合戦におよんだ。
永禄十一年、尾張から足利義昭を奉じた織田信長が上洛してくると、赤井直正とともに信長に降った。元亀元年(1570)十一月、秀治は信長から進物の謝礼を述べられている。秀治は信長に服属して、信長=義昭政権を背景に丹波を代表する戦国大名に成長した。以後、丹波は比較的平穏な時間が過ぎたが、将軍義昭と織田信長の間が険悪になると、にわかに政情は不穏な空気が漂うようになった。赤井氏ら丹波国衆のなかで義昭に加担する者も出てきた。
元亀二年、但馬の山名祐豊が氷上郡に侵攻して山垣城の足立氏を攻めた。直正は足立氏を救援すると、
祐豊を追って但馬に進攻して竹田城を攻略、さらに、長躯して山名氏の居城有子山城に迫った。
窮した山名祐豊は信長に救援を求めたが、当時、浅井・朝倉連合軍をはじめ、石山本願寺、
中国の毛利氏らと対陣中の信長に但馬に兵を割く余裕はなかった。
その後、浅井・朝倉を滅ぼし、伊勢長島の一向一揆を制圧した信長は、丹波攻略を開始した。その槍玉にあがったのは黒井城の赤井直正であった。天正三年(1575)、明智光秀を大将とした織田軍が丹波・但馬に進攻をはじめ、竹田城にいた直正はただちに黒井城に帰ると織田軍を迎え撃った。
織田信長との攻防
光秀の黒井城攻めが始まったとき、波多野秀治は光秀に味方して出陣した。ところが、翌年の正月、にわかに秀治は直正に通じると光秀勢を背後から急襲した。この秀治の離反によって光秀は、ほうほうの体で京に逃げ帰る結果となった。秀治とすれば赤井氏とのこれまでの関係、戦国大名として丹波に支配力を強化しようとしているおりでもあった。おそらく、信長に協力する是非を悩みつつ出陣したのではなかっただろうか。そこへ、信長勢力の伸長を恐れる毛利氏の働きかけがあり、秀治は毛利氏の方がくみしやすいと結論をくだしたのであろう。
以後、波多野秀治、赤井直正を盟主とする丹波勢と、信長の将明智光秀との間で攻防が繰り返されることになった。とはいえ、光秀は丹波以外の戦場にも駆り出されることが多く、織田勢と丹波勢の間に本格的な戦いが行われることもなかった。一方で信長と毛利氏との対立も激化、天正五年、羽柴秀吉が中国方面の平定を命じられて播磨に進攻した。はじめ、これに協力していた三木の別所長治が信長に離反して毛利方に転じた。長治と姻戚関係にあった秀治は、別所氏を応援して織田軍に抵抗した。
天正六年、信長は光秀を丹波に派遣すると、本格的に丹波平定戦を押し進めるようになった。八上城の秀治に対して光秀は、周囲に付け城を築いて、徹底した包囲作戦を布いた。秀治も新たに曲輪を築くなどして八上城を修築、明智勢を迎え撃った。その間に秀治の盟友赤井直正が病死し、旗下の籾井氏、荒木氏、波々伯部氏らの諸城も落ち、八上城内は飢餓状態を呈してきた。かくして、天正七年(1579)六月、秀治ら波多野三兄弟は光秀からの降服勧告をいれて城を開いた。このとき、光秀が老母を人質として波多野兄弟を降したというが信じられない。飢餓に苦しむ城内では波多野氏を討って投降しようとする動きもあり、万事窮した秀治らが降ってきたものであろう。
秀治兄弟を捕らえた光秀は、三人を安土城の信長のもとに送った。三兄弟を謁見した信長は
「度重なる裏切り、侍の本分を知らず」と言い捨て、かれらを安土城下の慈恩寺において磔の刑に処した。ここに、丹波に一時代を築いた波多野氏は滅亡、主の去った八上城へは光秀の家臣明智治右衛門が入った。八上城が落ちたのち孤立無援となった黒井城の赤井氏は、なおも抵抗を続けた。しかし、支城がつぎつぎと攻略され、ついに八月、城を開いて明智光秀に降伏した。ここに、丹波の戦国時代は終焉を迎えたのである。
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写真:投降した秀治が光秀と対した般若寺城址
余滴拾遺
清秀が丹波に入ってより、五代百年を持って波多野氏は滅亡した。安土で処刑されたとき、秀治は五十一歳であった。秀治には男子がなかったようで、兄弟といわれる秀尚は秀治の養子であったともいう。また、娘の朝路姫は城内の井戸に入水自殺したといわれ、いまも八上城址の一角に朝路池が残されている。
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・伝八上城の遺構で唯一残った城門 ・八上城址の朝路池 ・誓願寺山門/本堂と波多野秀治の墓
・文保寺の山門と本堂 ・波多野家の家紋 ・秀治の墓碑 ・秀治を祀る御霊神社
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伝によれば、八上城落城のとき、秀治の実子で幼子の甚蔵が乳母に抱かれて城を脱出、味間の文保寺に匿われた。成人したのち還俗した甚蔵は波多野右衛門尉定吉と名乗り、篠山藩松平忠国に仕えたという。また、落城のとき八上下村鳴橋に捨てられていて渋谷氏に拾われたという末男は、のちに渋谷氏の養子となり善兵衛久治を名乗って篠山藩の八上郡代をつとめたという。
それぞれ、真偽のほどを知る術はないが、いまも篠山市内にある誓願寺境内の一角に波多野秀治の墓碑と
近世波多野氏の墓碑が並んで立てられている。一方、甚蔵が逃れた味間には、甚蔵の後裔という波多野氏が続いていて
裏山には秀治の墓が立てられ、秀治を祭神とする御霊神社が祀られている。
滅び去った家の歴史は、どうしても伝説的にならざるをえないが、いまも丹波には波多野氏興亡の跡が各地に残されている。
→ 波多野氏家伝-旧版
【参考資料:兵庫県史/戦国期歴代細川氏の研究/日本地名辞典(平凡社)/戦国・織豊期城郭論/丹波戦国史
/兵庫史学/丹波史を探る篠山とっておきの話 などなど】
■参考略系図
戦国・織豊期城郭論 などに掲載された波多野氏系図をベースに作成。
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