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細川氏(上守護家)
九曜/二つ引両・五三の桐
(清和源氏足利氏流)
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九曜紋を用いたのは、戦国時代信長に仕えてからのことという。それ以前は 足利一族として「二つ引両」だった。


 細川氏は足利義康の四代目の孫にあたる義季が、三河国額田郡細川に住んだことから、その地名をとって細川氏を名乗るようになった。すなわち、室町幕府を開いた足利氏の支流で、清和源氏足利氏流ということになる。
 鎌倉末期から南北朝の動乱期において、細川氏一族は足利尊氏に属して活躍、一連の戦功によって讃岐・阿波・河内・和泉諸国の守護職に任じられた。三代将軍義満を補佐した細川頼之は、貞治六年(1367)、幕府管領職に就任すると将軍家の権威確立に尽力した。以後、細川氏は斯波氏・畠山氏と並んで、幕府三管領の一人として幕政に重きをなした。

細川氏の興亡

 頼之の養嗣子となった弟の頼元も幕府管領に任じ、丹波・讃岐・摂津・丹波の守護職を兼帯し右京大夫に任ぜられた。以後、細川氏惣領家は右京大夫の官途を踏襲したことから京兆家とよばれるようになった。頼元のあと惣領家は満元─持之─勝元と続き、勝元は応仁の乱の一方の立役者となった。勝元のあとを継いだ政元は明応の政変で幕政の実権を掌握し、細川氏の全盛時代を現出した。しかし、実子がなかった政元は澄之・澄元を養子に迎えた。それが家臣団の分裂を起こし、ついには永正五年(1508)家臣に暗殺されてしまった。以後、細川宗家は家督を巡っての内訌が連続し、勢力を衰退させていった。
 細川氏は京兆家を宗家として、阿波守護家・備後守護家・和泉上守護家・典厩家などの分流があった。内訌の末に細川宗家が没落、代わって近世に生き残った肥後熊本藩主細川氏は上守護家の後裔にあたる。言い換えれば、細川氏の庶流ということになる。和泉上守護家は、細川氏の権勢を確立した頼之の弟頼有から始まる。
 頼有は一族とともに尊氏に属し、男山合戦では讃岐勢を率い、阿波勢を率いた兄の頼之とともに奮戦した。管領に就任した兄頼之を援けて領国経営にあたり、南朝方河野氏と戦いを繰り返した。頼有は備後守護に補任され、最初和泉半国を領し、その子頼長が和泉一国の守護となり子孫繁栄することとなった。以後、この流れが上守護家と呼ばれるようになった。頼長のあと持有─元有─元常と継承され、代々刑部少輔に任じられた。
 細川上守護家の領する隣国河内は畠山氏が守護職をつとめ、畠山氏の内訌が応仁の乱の一因となった。乱が終熄したのちも畠山氏の内訌は止むことなく、細川政元の明応の政変は、畠山氏の内訌を衝いたものであった。父畠山政長を討たれた尚順は、家督を継ぐと細川政元に弔い合戦を挑んだ。ときに上守護家の細川元有は、はじめ尚順に味方していたようだ。しかし、のちに尚順から離反したことから、明応九年、尚順の攻撃を受け和泉の岸和田城において討死した。

細川藤孝の登場

 元有の死後、嫡男元常が家督と守護職を継承した。やがて、宗家の細川政元が殺害されたことで、細川氏は内部分裂を起こした。細川澄之が討たれ、細川澄元と高国が対立するようになると、元常は澄元に属した。しかし、高国方が勝利したことで元常は守護職を奪われ逼塞を余儀なくされた。その後、澄元の子晴元が高国を討つと守護職を回復、以後、晴元に属して行動した。ところが、晴元政権をになった三好一族が分裂、晴元は三好元長を討伐するなど政情は混乱を続けた。
 その後、晴元は三好長慶と和睦し、長慶が畿内で活躍するようになった。やがて、晴元は長慶と対立するようになり、長慶は高国の養子氏綱を擁して晴元から離反した。元常は晴元方として戦ったが、ついに敗れて将軍・足利義晴に従って京を逃れ、所領は長慶によって奪われてしまった。天文二十三年(1554)、失意のなかで元常は病死、上守護家細川氏は養嗣子の藤孝が継承した。
 藤孝は元常の弟三淵晴員の二男として生まれたが、実父は将軍足利義晴であったと伝えられる。すなわち、三淵晴員の後妻に入った智慶院(藤孝の母)は、義晴の寵愛を受けた女性であったが義晴が近衛尚通の娘を娶ることになったため、晴員のもとに智慶院を嫁がせたのであった。そして、智慶院の腹には藤孝が宿っていたというのである。
 藤孝ははじめ義晴に仕え、その没後は義輝に仕えた。当時、管領細川晴元と三好長慶が抗争を繰り返しており、藤孝は義輝とともに朽木谷に隠棲していた。その期間は、実に五年三ヶ月というものであった。やがて、義輝とともに京に帰ったが、永禄八年(1565)、義輝は松永久秀と三好三人衆によって殺害された。京を脱出した藤孝は、奈良興福寺一乗院にあった義輝の弟覚慶を救出すると、以後、近江・若狭、そして越前朝倉氏を頼り一乗谷へと流浪の旅を続けた。ここらへんの話は、司馬遼太郎氏の小説「国盗り物語」に面白く描かれている。

信長に仕える

 いずれも思うような結果とならなかった義昭・藤孝主従は、明智光秀を通じて美濃岐阜城主の織田信長を頼んだ。かくして、永禄十一年、織田信長に奉じられて上洛した義昭は将軍職に就任したのである。しかし、信長を取り巻く情勢は予断を許さず、信長は各地の反対勢力との抗争に奔走することになる。当然、信長直轄軍は各地を転戦しており、畿内の防衛は義昭が担っていたようだ。その線で、摂津高槻城に和田惟政が、西岡の勝龍寺城には細川藤孝が配されて京都西方の守備に任じていた。
 永禄十二年、信長は伊勢北畠氏攻めの出兵を行い、翌十三年には朝倉攻めを行ったが浅井長政の裏切りで撤退したが、姉川の合戦で浅井・朝倉連合軍を撃破、ついで摂津に出陣して三好三人衆、石山本願寺と戦った。ついで元亀年間になると、北伊勢の一向一揆との戦い、比叡山延暦寺の焼き討ちを行い、武田信玄の上洛軍を三河で迎え撃った。文字通り東奔西走、一連の戦いのなかで信長の一族や部将の多くが討死した。
 苦戦する信長に対して、諸勢力の攻勢が繰り返され、摂津高槻城主和田惟政が池田氏の攻撃を受けて戦死した。細川藤孝は高槻城奪回のために出陣したが失敗、守りを固めるため勝龍寺城の普請を行っている。その一方で、西岡一帯に割拠する西岡国衆と呼ばれる武士たちの懐柔を進め、上桂の革嶋氏らと協調関係を保った。しかし、西岡国衆は幕府御家人あるいは細川京兆家の被官であった者が多く、細川氏の庶流に過ぎない藤孝を侮るところがあった。また、惣国一揆を組織した歴史を有するかれらは自主独立の気概に富み、その懐柔は一筋縄では行かなかった。
 やがて、信長と将軍義昭の不和が顕在化し、畿内の情勢はさらに混沌の度を深めていた。藤孝は義昭の家臣という立場で信長に属していたが、みずからの進退を決定するときが迫っていた。天正元年、義昭は信長討伐の兵を挙げた。義昭は槙島城に籠城、二条城は藤孝の実兄である三淵藤英が残った。
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■写真:勝龍寺城址

時代の転変に身を処す

 義昭挙兵の報に接した信長はただちに上洛すると、二条城を落とし、槙島城に押し寄せた。窮した義昭は信長に降伏し、河内若江城に落ちていった。ここに、室町幕府は滅亡となった。
 義昭没落ののち、藤孝は淀城に拠る三好三人衆の岩成友通攻め、友通を討ち取った。かくして、藤孝は信長から「桂川西地」の一職領地することを認められ、信長政権下での立場を確立したのであった。そして、この前後より細川姓から「長岡」姓を名乗るようになった。このことは、室町政権下の名字「細川」を捨て、織田大名としての政治的立場を表現するものであった。
 以後、長岡藤孝は織田軍団の一員として各地に転戦、河内の一向一揆攻め、本願寺攻めに参加した。さらに、西岡一帯の国衆らを被官化し、反抗的な者を討つなどして領内の支配強化を進めていった。かくして、西岡支配に成功した藤孝は、嫡男忠興に明智光秀の娘を迎え、幕府滅亡という激動の時期を生き抜いたのである。天正八年、丹後支配を命じられた藤孝・忠興父子は、西岡の支配を家老の松井康之に委ねて丹後に移住していった。
 
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復元された勝龍寺城を歩く



きれいに復元された勝龍寺城内は、文字通り城址公園となっている。要所要所に案内板が設置され、戦国時代の雰囲気がほどよく味わえるところとなっている。



・復元された勝龍寺城址の搦手門跡 ・城址を取巻く堀跡 ・沼田丸へ続く土塁跡
・勝龍寺城址の瓦には細川氏の紋が刻まれている ・二の丸にあたる向日神社境内近くの土塁跡


 丹後には守護職の系譜につらなる一色氏が割拠し、細川氏の入部に抵抗した。しかし、藤孝はこれを謀略によって滅ぼし、丹後宮津の城主となり十二万三千石を領する大名となった。その後、明智光秀の寄騎として、丹波・丹後の計略にあたった。
 ところが、天正十年六月、明智光秀が織田信長を本能寺で討ち取るという一大事変が起こった。光秀は寄騎であり旧来の友人である藤孝、娘婿である忠興を味方に誘ったが、藤孝・忠興は進退を誤らず光秀の懇願を黙殺した。以後、剃髪した藤孝は幽斎と号し、光秀を討った豊臣秀吉に従い、丹後の所領を全うした。 

近世大名へ

 慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦が起こった。細川忠興は家康に従っており、幽斎は僅かな兵とともに田辺城の留守を守っていた。そこへ、大坂方の大軍が攻め寄せたが、幽斎は屈することなく六十日間にわたって城を死守した。藤孝は『古今和歌集』の秘伝を三条西実条から、『源氏物語』の秘伝を近衛稙通より伝授されていた。藤孝の死によって歌道秘訣の絶えるのを恐れた後陽成天皇によって、包囲軍は田辺城から撤退となったのである。その筋書きは、藤孝が京の公卿衆を動かして書いたものだと伝えられている。
 戦後、細川忠興は関ヶ原の合戦の功により、一躍、豊前一国と豊後の内速水・国東両郡併せて三十九万九千石を拝領した。幽斎も田辺城における功を賞され、別に隠居料として六千石を与えられた。こうして、細川幽斎(藤孝)は、慶長十五年、七十七歳を一期として世を去った。文字通り、激動の時代を生き抜いた幽斎は、人生の達人といえる人物であったといえようか。
 幽斎のあとを継ぎ、豊前の大大名となった忠興は三斎と号し、『細川三斎茶書』といった著書もあり、利久七哲の一人に数えられるほどの文化人でもあった。忠興も逸話の多い人物だが、ガラシャとの関係は世に喧伝されたところである。忠興のあとはガラシャとの間に生まれた忠利が継ぎ、寛永九年(1632)、加藤氏が改易されたのちの肥後国に転封された。以後、細川氏は肥後一国を領して明治維新に至った。

参考資料:長岡京市史・京都市史・歴史と旅増刊=新苗字事典 ほか】

●細川京兆家 ●阿波細川氏 ●備中細川氏 ■細川氏概説

●細川氏の家紋─考察



■参考略系図
 


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