室町時代中期、将軍足利義政は政務を忘れて奢侈と風流の生活を続けた。結果、幕府の実権は管領の細川勝元や、四職の一人山名持豊らに握られた。そして、将軍家、守護大名家の家督争いからこの両者が対立、応仁元年(1467)、京都御霊社における両畠山氏の衝突が引き金となって「応仁の乱」が勃発した。
 争乱は十一年の長きにわたって続き、京の都を焼け野原にしてしまうとともに、その後百年間にわたる戦国乱世のはじまりとなった。丹波は京の後背地をしめていたこと、幕府の実力者である細川京兆家が守護職を世襲していたことなどから、丹波の国人衆は否応なく京の争乱に翻弄されざるをえなかった。




  
 文明五年(1473)三月に山名宗全が、五月に細川勝元が相次いで死去し、将軍義政は両軍へ使者を派遣して和平させた。ここに応仁の乱は一応の終熄をみせたが、戦乱は日本中に波及し、世の中は戦国時代へと突入していった。それは丹波も例外ではなく、丹波一円はさらなる動乱へとたたき込まれていったのである。
【丹波国人の家紋:丸の内結び雁金/酢漿草/丸の内五本骨扇/丸に二つ引両・Since:2001-07/22】

●Contents
●丹波の戦国-通史 ●丹波三強 ●丹波の主な国人 ●丹波国人の家紋 ●丹波三強の居城 ●丹波の戦国武将割拠図



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