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奥丹波を中心に


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室町時代中期、将軍足利義政は政務を忘れて奢侈と風流の生活を続けた。結果、幕府の実権は管領の細川勝元や、 四職の一人山名持豊らに握られた。そして、将軍家、守護大名家の家督争いからこの両者が対立、応仁元年(1467)、 京都御霊社における両畠山氏の衝突が引き金となって「応仁の乱」が勃発した。丹波は京の後背地をしめていたこと、幕府の実力者である細川京兆家が守護職を 世襲していたことなどから、丹波国人衆は否応なく京の争乱に翻弄されざるをえなかった。
文明五年(1473)三月に山名宗全が、五月に細川勝元が相次いで死去し、将軍義政は両軍へ使者を派遣して和平させた。 ここに応仁の乱は一応の終熄をみせたが、戦乱は日本中に波及し、世の中は戦国時代へと突入していった。 それは丹波も例外ではなく、丹波一円はさらなる動乱へとたたき込まれていったのである。
CONTENTS
●丹波の戦国通史 ●丹波三強 ●丹波国人伝【追記】 ●国人の家紋【追記】 ●三強の居城 ●戦国武将割拠図

丹波戦国史/ 播磨戦国史/ 備前備中美作戦国史/ 鎮西戦国史/ 常陸戦国史
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋 二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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