筒井氏
梅鉢/六つ星
(藤原姓?/大神姓か?)
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筒井氏は大和国添下郡筒井を本拠とし、興福寺に属する僧兵から身を興した武士で、動乱の時代を生き抜き大和の戦国大名となった。大和は中世を通じて、たとえば甲斐の武田氏、薩摩の島津氏といった守護はおかれず、代わって興福寺が守護職として大和一国を支配した。
興福寺は藤原氏の氏寺として繁栄したが、やがて神仏習合がすすむとともに、藤原氏の氏社である春日神社の祭祀に関わるようになった。保延元年(1135)春日若宮社殿が創立され、翌年より若宮祭礼が始まったが、若宮祭礼は興福寺執行が主導するかたちで盛大化していった。かくして、興福寺は春日神社を支配下におくようになり、大和一国を支配する体制を確立していったのである。そこには、他国のように武士が守護として補任される余地はなかったといえよう。
興福寺の権勢
興福寺における守護・国司の権は興福寺別当が有し、別当は大衆・僧徒をもって一国の支配を行った。やがて、荘園内の荘官・名主らを僧徒に準じて衆徒とし、春日社領荘園内の荘官・名主を国民としてその権力基盤を強化した。この衆徒・国民がのちに大和武士として成長、そして衆徒の代表的存在となったのが筒井・古市氏らで、国民のそれが越智・箸尾氏、十市氏らであった。戦国時代になると、古市氏を除く四氏が「大和四家」と呼ばれる勢力となった。
興福寺は一乗院門跡と大乗院門跡の両門跡が並び立ち、いずれかより興福寺の別当が出た。衆徒・国民はそれぞれの門跡に被官として仕え、鎌倉時代の末期になると国民を中心に若宮祭礼において流鏑馬の勤仕を行うようになった。そして、若宮祭礼における流鏑馬勤仕が大和武士としての矜持となり、アイデンティティとなっていった。
やがて、南北朝時代ころより武士たちは党を形成するようになり、室町時代になると越智氏を中心とする散在党、十市氏を刀禰とする長谷川党、箸尾氏を刀禰とする長川党、平田荘の荘官万歳・布施・高田氏らの平田党、楢原氏を中心とした南(葛上)党、そして筒井氏を中心にした戌亥脇党の六つの党が生まれるに至った。いまも若宮祭礼において流鏑馬が行われるが、それは中世に大和武士が勤仕した流鏑馬の伝統を受け継いだものである。
大乗院門跡と一乗院門跡は平安末期より対立関係にあったが、鎌倉時代後期の永仁元年(1293)、大乗院門跡と一乗院門跡との争いから、「永仁の闘乱」と呼ばれる事件が起った。両門跡の対立は幕府の介入を呼び、幕府御家人の南都駐在を招き、ついには両門跡の配流という事態となった。大乗院門跡と一乗院門跡の争いはその後も続き、南北朝時代になると大乗院門跡は北朝方に、一乗院門跡は南朝方に味方するという始末であった。両門跡の対立は興福寺の権威を失墜させ、衆徒・国民たちの自立をうながす結果につながった。
鎌倉時代から南北朝時代はじめにおける筒井氏の動向は知れないが、至徳三年(1386)の『興福寺衆徒評定状』に、衆中沙汰衆のひとりとして筒井順覚があらわれる。衆中は官符衆徒とも称され、幕府将軍家の被官人であった。以後、筒井氏は大和の歴史にその足跡を大きく刻んでいくのである。
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写真:おん祭の稚児流鏑馬。
筒井氏の出自を探る
筒井氏の出自については諸説があり、一つは藤原姓、一つは大神姓とするものに大別される。
藤原姓説は、春日神が河内国枚岡より遷宮の時、春日社の神奴として供奉した藤原四家の一つから出た藤原順武が添下郡筒井庄によて筒井氏を称したとするものである。そして、順武の四十三代の嫡孫が順永律師法印であるというが、それを裏付ける史料があるわけではない。これに対して大神姓説は、『平城坊目遺考』に「姓大神」とあり、『大和志料』にも「筒井の本姓は大神氏にして大物主神の苗裔なりしを後ち興福寺衆徒となるに及び、藤原氏を冒せるものならん」とあること。加えて、『郡山町(現大和郡山市)史』では、田原本にある森屋神社を祀る森屋党の中心的存在である森屋筒井氏から興福寺衆徒になったものの子孫であろうとする説を記している。
他方、筒井氏が発祥したという添下郡筒井の地名は古代には見られず、中世の文書にもあらわれないことから、筒井氏が添下郡に移住したのちに発生した地名と考えられる。実際、筒井氏が藤原姓を称するのは順慶のあとを継いだ定次のときからで、それ以前の筒井氏は藤原姓を称した形跡はない。これらのことから、筒井氏は大神氏の流れとみなされるようだが、正確な出自や発祥の地に関しては不明というしかない。一方で、筒井氏の家紋が「梅鉢」であることから、菅原氏の後裔とするものもあるが付会の説というものであろう。
文書にあらわれる筒井氏をみると『源平盛衰記』に「筒井浄妙明春」、『平家物語』『太平記』『応永記』に「筒井浄妙」がみえる。浄妙は世襲名と思われ、筒井氏が平安末期より世代を継いでいたことがうかがわれる。『応永記』の浄妙は三井寺の堂衆であったといい、戦国大名筒井氏につながる最初の人物である順覚と同時代の人物だが、両者の関係は不明である。また、応永のころの熊野那智山の先達である筒井大弐順湛が大和で活躍していたが、こちらも筒井氏との関係は不明である。
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家紋:『見聞諸家紋』に見える筒井氏の梅紋。
大和永享の乱
南北朝の動乱は、明徳三年(1392)、将軍足利義満の尽力で合一がなった。しかし、その後も両朝の対立は続き、大和でも小競合いがつづいた。
応永十一年(1404)、順覚は後南朝方の箸尾為妙と十市遠重と戦い、筒井郷を焼き払われた。幕府は筒井氏を支援して箸尾十市を破ると、所領を没収して十市氏領は興福寺に箸尾氏領は春日社に寄進した。二十一年になると多武峯寺衆徒と沢氏が争い、幕府は合戦の停止を命じるが止まず、却って沢氏を応援する越智氏をはじめ十市・高田・布施氏らも出陣して争乱は拡大をみせた。興福寺は幕府に事態の収拾を訴え、幕府は衆徒・国民を上洛さえると私合戦の停止を誓わせた。そのとき幕府に召された官務衆徒には古市・豊田中坊・小泉らと並んで筒井戌亥脇・井戸戌亥脇らがみえ、一方の国民には越智・十市・箸尾・布施・万歳氏らが名をつらね、大和の乱世を織り成す諸将が一同に揃っている。
永享元年(1429)、足利義教が将軍になると順覚は義教に謁し、翌年、興福寺領河上関務代官職を宛行われた。順覚は興福寺の官務衆徒として、また幕府将軍の被官として着々と勢力を拡大していたことが知られる。同年の七月、大乗院衆徒豊田中坊と一乗院衆徒井戸某との対立から大和永享の乱が起った。順覚は十市氏らとともに親戚でもある井戸某を支援し、一方の豊田中坊には越智・箸尾氏らが味方した。さらに豊田中坊方には沢・秋山氏が加わり、敗北した筒井氏は領内を焼き払われる始末となった。
以後、大和の各地で戦いが繰り広げられたが、筒井氏は劣勢であった。幕府は越智・箸尾氏の討伐を赤松氏に命じるなどして、大和の争乱の収拾につとめた。幕府が筒井氏に肩入れをしたのは、大和南朝方の中心である越智氏討伐に筒井氏をあてたことと、順覚の二男成身院光宣の幕府に対する働きかけもあったようだ。永享六年、順覚は越智氏を攻撃したが敗北、弟の五郎とともに討死してしまった。勝ちに乗じた越智氏は筒井城へ押し寄せ、その勢いは当たるベからざるものとなった。越智党は奈良中雑務検断職(南都の警察権)を奪取、越智党の豊田、福智堂、小泉の三人がその職に就いた。
順覚の戦死後、西大寺にはいっていた長男の順弘が家督を継ぎ、さらに光宣の尽力で幕府軍が大和に出撃、筒井氏は反撃体制を整えることができた。永享九年になると幕府の越智討伐は本格化、翌年には越智方の多武峯寺が幕府軍に焼き払われ、越智・箸尾氏らは逐電して越智方の敗北は決定的となった。そして、十一年、越智兄弟は討たれ、箸尾次郎左衛門も討たれて大和一国を錯乱に陥れた大和永享の乱は終わりを告げた。
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永享二年に筒井順永によって築かれ、以後、大和の大名となった順慶まで七代に渡って筒井氏代々が本拠とした。城址を歩くと宅地開発の波をもろに被っているものの、内堀跡が蓮池となって残り、本丸があった場所は市役所によって開発を禁止されているという。文字通り、往時を偲ばせるものはないが一角にある菅田比売神社脇手には濠がはっきりと見て取れ、筒井氏の菩提寺であったという本門寺、順慶の木造を祀る光専寺がある。筒井駅からもすぐ近くでもあり、何回かに分けてじっくりと探訪する気にさせる城だ。筒井駅から京都に向って一つめの郡山駅、駅のすぐ前に順慶が拠った大和郡山城が威容を見せている。
→ 山の城─椿尾城址に登る
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筒井氏の興亡
乱後、筒井氏内部では順弘と成身院光宣との間に対立が起き、嘉吉元年(1441)十月、順弘は光宣らに背かれ立野方に没落した。この筒井氏の内紛は順弘が惣領としての器量に欠けていたことと、順覚が宛行われた河上関務代官職をめぐる争いがあったようだ。順弘没落ののち、相国寺の僧であった順永が還俗して筒井氏の惣領になろうとした。はじめ、光宣ら兄との間に軋轢があったものの、やがて支援をとりつけた順永は官務衆徒の地位もえた。
一方、大乗院門跡経覚が代官職をとりあげ興福寺のものにしようと画策し、長兄順弘との間の内紛は続いており、順永の立場は不安定なものであった。嘉吉三年(1443)、越智氏の援助をえた順弘によって筒井城を失ったが、順弘は一族・内衆を掌握することができず、ついには光宣の謀略によって殺害されてしまった。その後、幕府の追求によって光宣は没落、さらに古市胤仙・豊田頼英・小泉重弘らと奈良で戦って敗北、光宣は筒井城に退去し、順永は官符衆徒、奈良中雑務検断職を失うことになった。
結果、大乗院門跡のもとで古市・豊田・小泉の三人が官務衆徒となり、河上関務代官職も興福寺の直務支配下に入った。これに勢いをえた大乗院経覚は、古市、小泉、豊田らの官符衆徒に加え国民越智氏らに筒井城を攻撃させたが却って敗北した。以後も、経覚と光宣・順永兄弟との抗争は、経覚の拠る鬼薗山城をめぐって一進一退が続いた。文安二年(1445)、順永は鬼薗山城を攻略したが、経覚方との戦いのなかで筒井実憲・筒井尊覚らの一族が討し、筒井氏は少なからぬ犠牲を強いられた。
筒井順永らが大和で苦闘を続けているころ、幕府管領の畠山氏に内紛が生じ、その影響は大和にも及んでくるようになる。男子のなかった畠山持国は弟持富を養子に迎えたが、のちに実子義就が生まれたことで家督を義就に譲った。これに納得しない家臣団が反発、持国は改めて持富の子弥三郎(その死後弟の政長が継ぐ)を養子に迎えたが、すでに家臣は養子派と実子派に分裂していて、一触即発の状態に陥っていた。
康正元年(1455)、持国が死去すると畠山氏の内訌は本格化、ついには武力抗争へと発展した。この畠山氏の内紛に際して筒井氏の宿敵越智氏は義就方に味方し、筒井順永と光宣らは箸尾・片岡氏らとともに弥三郎方に味方した。筒井勢の拠る鬼薗山城は義就方に攻略され、長禄元年(1457)には筒井・箸尾氏らの所領は幕府により闕所となり、興福寺に寄進されてしまった。
勢力の拡大
文字通り、筒井氏は危機的状況に直面した。しかし、長禄三年に至って管領細川勝元のとりなしで順永・光宣は許されて所領を回復、順永は奈良中雑務検断職を取り戻すことができた。筒井城に復帰した順永の復讐心はすさまじく、まず小泉氏を滅ぼすとその所領を加え、さらに平群郡にも進出して没落以前の所領を上回る版図を築くにいたった。
翌寛正元年(1460)、畠山義就が将軍義政の意に逆らうところがあり、義政は政長を取り立てた。そして、興福寺衆徒らに義就討伐を命じたため、政長派の筒井順永の立場は有利なものとなった。同年十月、龍田の政長方の陣に義就方が攻め寄せたとき、戦いは筒井軍の活躍で政長方の勝利となった。かくして文正元年(1466)、政長が細川勝元から管領職を譲られたが、翌年、山名宗全に義就が擁立されたことで政長は管領職を罷免された。これを不服とした政長は細川勝元を頼り京都御霊社において挙兵、それを義就方が攻撃したことで応仁の乱が勃発した。乱に際して筒井順永は細川勝元=畠山政長の東軍に属し、成身院光宣は東軍の参謀として活躍した。
文明元年(1469)光宣が死去、乱は大内氏などの上京により東軍の劣勢に推移し、順永も大内勢との戦いに腐心したようだ。一方、大和でも国人衆の対立抗争が激化し、嫡男の順尊、成身院を継いだ順宣(順盛)らが活躍、順尊は春日社前の戦いで越智党を撃破し、順宣は山城において大内軍に勝利している。そして、文明八年、筒井氏の勢力拡大に尽力した順永が死去し、順尊が家督を継いだ。
このころ、近畿地方を争乱においた応仁の乱も終焉に向っていたが、畠山氏の内訌はおさまることはなかった。そのため、大和国では義就派と政長派とに分かれて争いが続き、筒井氏は順永の死によって威勢が落ちると、畠山義就方の越智氏が台頭し、筒井氏勢力は没落してしまった。そして、越智氏と組む古市氏が勢いづき、筒井氏から官務衆徒棟梁の地位を奪取し、古市氏と越智氏が大和を事実上支配するにいたった。
その後、筒井氏は勢力を盛り返したようで、永正二年(1505)、越智党と筒井党は和睦し、越智氏の女が筒井順賢 に嫁いだ。大和国衆の和睦を嫌った細川政元は、家臣の赤沢朝経をして大和に乱入させた。これに協力した古市党を除き、大和国衆は一致団結して抵抗したが敗れ、筒井氏は再び落ち延びることになる。同四年(1507)、細川政元が暗殺され大和国衆は盛り返し、朝経はそのあおりをくって丹後で敗死する。政元のあとを継いだ細川澄元は、朝経の養子赤沢長経に大和を攻めさせ、大和国衆は敗れ、筒井順賢と成身院順宣は畠山尚順を頼って高屋城に逃れた。
永正五年(1508)澄元の兄、高国が畠山尚順と手を結び挙兵し、敗れた長経は討たれた。この結果、筒井氏は復帰し、その他国人衆も元通りとなった。
大和-戦国時代
天文年間(1530ごろ)に入り、筒井順昭が家督を継ぎ、順昭は、はじめ木沢長政に属していたが、のち畠山稙長と結び、天文十一年、稙長が和泉の松浦氏を討とうとして河内高屋城を出陣すると、その留守役として高屋城に出兵した。翌年七月、越智氏が順昭の党、万歳則定を討とうとしたが、稙長の斡旋で兵を収めた。しかし、同十五年十月、順昭は高田氏らを率いて越智氏を貝吹山城に陥れた。『多聞院日記』に、この合戦後の筒井氏について「一国悉以帰伏了、筒井ノ家始ヨリ如此例ナシ」と記している。順昭の時期、越智氏を破っ筒井氏全盛期へ一歩踏み出したことが知られる。
しかし、順昭は天文十八年(1549)四月、比叡山に入り、そこで家督を藤勝に譲った。翌年、筒井城に帰ったが六月に没した。天然痘を患っていたといわれる。
家督を譲られたとき、藤勝はいまだ二歳の幼児であった。藤勝の幼少時は叔父順政が後見した。永禄二年(1559)三好長慶の家臣松永久秀は、信貴山城を修築してこれに拠り、同四年には奈良の眉間寺を破却して多聞城を築いて山和の支配に乗り出し、井戸・万歳・沢の諸氏を破り、多武峰寺を攻略し、山和国衆を圧倒した。筒井順政はこのような状況のなかで、永禄七年三月、堺で客死した。このとき、順慶は十七歳であった。
永禄八年五月、松永久秀は三好義継らとともに将軍義輝を自刃させ、十一月には順慶を筒井城に陥れ、順慶は布施城に逃れた。このころ、大和国衆には心変わりして久秀方となる者も多かった。こうした中にあって、順慶は反松永勢の中心的存在として、三好三人衆とともに久秀と戦うこと十余年を数えた。この間、久秀を次第に圧倒し、天正四年(1576)五月には、織田信長から大和の支配を任され、翌年には織田信忠の軍に協力して久秀父子を信貴山城に自刃させた。以来、順慶の山和一円支配が進む。翌六年には吉野郡に出兵し、上市・下市などを焼き払い、真宗勢力を壊滅した。
天正八年九月には織田信長の命により、順慶は郡山の城を残し、筒井の平城を含めた大和国衆の諸城を破却し、郡山の城を与えられた。翌九年から郡山城の構築が進み、天正十一年んは天守閣が造営されている。この間、天正十年六月、本能寺の変で織田信長が横死している。このあと、築城で順慶に協力していた明智光秀からの誘いを振り切って山崎合戦では豊臣秀吉方に味方して筒井氏を存続させたが、同十二年八月、三十六歳で没した。一説には、享年三十七歳ともいう。
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右:筒井順慶の像
筒井氏、余話
ところで、天正十年(1582)の山崎の戦いでは「洞ケ峠の順慶」といわれ、日和見主義の代名詞とされた。しかし、順慶は大和郡山城に居たのである。とはいえ、順慶の態度は光秀派の家臣もかかえ、親秀吉派とはいかなかったようだ。
その後は甥の定次が継いだが、伊賀上野に転封された。定次は関ヶ原の戦では東軍に属して、本領を安堵されたが家臣の提訴によって改易、さらに大阪城の豊臣秀頼に通じていたことが発覚し、子とともに自殺を命じられ筒井氏は断絶した。
【参考資料:奈良県史・11/日本の名族・近畿編/大和郡山市史 ほか】
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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そのすべての家紋画像をご覧ください!
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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約12万あるといわれる日本の名字、
その上位を占める十の姓氏の由来と家紋を紹介。
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日本には八百万の神々がましまし、数多の神社がある。
それぞれの神社には神紋があり、神を祭祀してきた神職家がある。
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