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常陸・北下総両国の戦国史は、最終的に豊臣政権下において常陸国旗頭として五十四万石の大封を領する大名に
成長した佐竹氏、そして、徳川家康の子秀康を養子として迎え、大名としての地位を確定した結城氏の動向を
軸とした歴史が語られがちである。それは、常陸・北下総地方における残存史料のあり方からいっても避け難い
ことであった。
とはいえ、十六世紀初頭、常陸国内には佐竹氏のほかに、江戸氏、小野崎氏一族、さらに府中の大掾氏、
その一族である鹿島・島崎氏、小田城の小田氏、江戸崎の土岐氏、下総結城城を本拠とする結城氏、結城氏の配下に
ありながら、独自の活動もおこない飛躍の機会を狙っていた下妻の多賀谷氏、下館の水谷氏などがいた。かれらは、
それぞれ領主間の合従連衡の策がうまくゆけば、一躍戦国大名にのしあがる機会と
可能性を十分にもっていたたのである。
●2001年8月25日
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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そのすべての家紋画像をご覧ください!
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