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タイトル


 鎌倉時代から戦国時代にかけての九州は、互いに対立・拮抗する三つの勢力が三すくみの形をとって 推移・展開しているのが特長的だ。

九州、三強の鼎立

 ことの起こりは、鎌倉幕府が諸国に対する守護設置の一環として、豊前・筑前・肥前の北九州三国の守護に武藤資頼を、豊後・筑後・肥後の中九州三国の守護に中原親能=大友能直を、そして、薩摩・大隅・日向の南九州三国に島津忠久を任命したことにある。そのうち、武藤氏は鎮西守護となり、合わせて大宰少弐に任じられたことから少弐氏を称し、島津・大友・少弐の三すくみを形づくる素地ができあがったのであった。
 南北朝の内乱期には、探題方(九州探題一色範氏=尊氏方)と宮方(菊池・阿蘇氏)、および佐殿方(足利直冬方)に 分裂して複雑な抗争を展開した。その後、探題に補任された今川了俊は巧妙な戦略・戦術によって南朝勢力を圧倒、九州は了俊主導のもとで 小康状態を保った。 しかし、了俊が京都に召還されたのちは、ふたたび動揺をはじめ、島津・大友・少弐氏が鼎立状態となった。 以後、九州は三氏を大勢力とした群雄割拠の状態で時代は動いていくのである。
 
 この三すくみの体制に、北九州の計略をめぐって中国の太守大内氏が加わり、少弐氏に代わって 鼎立の一角を占めることもあった。しかし、大内氏は重臣陶氏の下剋上によって滅亡、陶氏も毛利氏に敗れて滅亡した。 こうした下剋上の風潮は九州にも現われ、肥前においては龍造寺隆信が少弐氏に取って代わって戦国大名として台頭した。 ここに至って、九州は龍造寺・大友・島津三氏の鼎立時代を迎えたのである。
 天正六年(1578)、三州を統一し北上の勢いをみせる島津氏に対して、大友宗麟は豊後より軍勢を南下させた。ところが、 大友軍は日向の高城(耳川合戦)で島津氏に大敗、これより大友氏は守勢に立たされた。やがて、天正十二年三月、 旭日の勢いの龍造寺隆信が島津氏と対戦した。隆信は自重をうながす鍋島直茂の諌言に耳を貸さず、 大軍を率いて高来に南下し島原沖田畷の戦いでまさかの敗北を喫した。

中世の終わり

 隆信の戦死によって龍造寺・大友・島津三氏の均衡状態は崩れ、九州の政治地図は大きく塗り変わることになった。 大友氏は龍造寺氏に対して強力な反撃を起こし、筑後の諸士は多く大友方に帰参した。当時、八代にあった 島津義弘は、三州の大軍をもって北上し筑後に侵攻してきた。
 こうして、龍造寺・大友・島津三氏の最後の攻防戦は 筑後を舞台に展開されたのである。天正十三年(1585)、まず大友氏が龍造寺・島津両軍の挟み撃ちにあって敗北した。 島津軍は筑前・肥前に討ち入って広門を降し、大友方の高橋紹運の岩屋城、立花宗茂の立花城を攻撃した。このとき、 紹運は自刃したが、宗茂は立花城に籠って最後まで抵抗した。一方で島津氏に追い詰められた大友宗麟は豊臣秀吉に 援助を求め、秀吉の九州出兵によって島津氏は完敗、時代の歯車は近世へと大きく動いていった。 ・Since:2001-08/02

 
CONTENTS
●鎮西-戦国通史 ●戦国大名伝 ●大名/国人総覧 ●三強合戦記 ●三強の軍旗 ●戦国武将割拠図 ●戦国武将家紋地図 ●三強人物伝
・島津義弘・島津義久・竜造寺隆信・大友宗麟
丹波戦国史/ 播磨戦国史/ 備前備中美作戦国史/ 鎮西戦国史/ 常陸戦国史  

竜造寺氏 大友氏 島津氏 家紋World 武将の家紋 戦国大名探究

戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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家紋イメージ




応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋 二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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