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タイトル


 現在の岡山県は、むかし備前・備中・美作の三国に分かれていた。備前国は今の岡山県東部にあたり、備中国は その西側、美作国は備前国の北部に位置している。
 室町時代、備前・美作の両国は播磨守護赤松氏が兼任し、嘉吉の乱で赤松氏が没落すると、 備前・美作両国は山名氏が守護に任じられた。応仁の乱後、赤松氏がふたたび両国の守護に返り咲いている。 備中国は高(南)宗継が守護となり、ついで秋庭氏、細川氏、宮氏、渋川氏など、めまぐるしく守護が交代したが、 14世紀末からは、細川氏が世襲した。
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 戦国時代、赤松氏被官であった浦上氏が台頭し、永正十七年(1520)赤松氏の美作支配の拠点である岩屋城を攻撃し、 城は数日で落城、以後、浦上氏が美作国を支配するようになった。備前国では、明応五年(1496)赤松政則が没し、 その後に家督争いが起きると、赤松一族や守護代浦上氏・松田氏との対立が生じた。永正十六年(1519)、 赤松義村は浦上氏の居城三石城を攻めたが大敗を喫した。そして、義村は浦上氏に殺害され、以後、 赤松氏は名目上の守護となり実権は浦上氏が掌握した。こうして、備前・美作両国は、浦上氏の下剋上によって、 守護赤松氏の手から奪われたのである。
 備中国はどうか。備中国の守護職はめまぐるしく交代し、最終的に細川氏が世襲しするようになったことは 既にのべた。その守護代としては、庄・石川氏が知られる。細川氏も時代を重ねると、次第に勢力を失い、 守護の被官や国人らが台頭してくる。成羽荘の三村氏、新見荘の新見氏などである。延徳三年(1491)、 守護代庄氏が細川氏に叛し挙兵する。この騒動は守護方の勝利に終わるが、以後、守護の勢力は衰え、有力国人勢力が 台頭してくるのである。
●Since:2001-07/28
・写真:左上から時計まわりに、松田氏の金川城址・浦上氏の三石城址・三村氏の墓所・三浦氏の高田城址

CONTENTS
●戦国通史 ●戦国大名伝 ●三強の居城 ●国人領主と家紋 ●武将家紋地図 ●戦国武将割拠図 ●宇喜多直家伝
丹波戦国史/ 播磨戦国史/ 備前備中美作戦国史/ 鎮西戦国史/ 常陸戦国史
家紋World 武将の家紋 戦国大名探究

戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。 その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋 二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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