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津軽氏
●卍/津軽牡丹
●藤原氏後裔?/清和源氏南部氏一族?
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戦国大名には出自不詳のものがきわめて多い。戦国大名からさらに近世大名へと成長転化したような場合、自らの出自を飾り脚色し、なかには創作したとしか思えないようなものある。
津軽氏は、もともと大浦氏を称していたことはよく知られている。それが、戦国末期に南部氏からの自立を計り、津軽地方を奪い取って津軽を称するようになった。そうして、近世になって藤原氏の出と称して近衛家の庶流であると主張しだしたのである。おそらく源平藤橘の四姓に自己を位置づけようとしたことの現われであろうが、明らかに後世になっての創作である。では、津軽氏の正しい出自はいずれに求められるのであろうか。
大浦(津軽)氏の出自
津軽氏の出自を奥州藤原氏とする系図がある。それによれば、初代の秀栄は藤原基衡の二男で秀衡の弟にあたる。秀栄は御舘次郎と称し、保元二年(1157)に基衡の遺命をもって津軽六郡を領し津軽氏の祖になったのだという。しかし、系図の記述は荒唐無稽に過ぎ、にわかに信じることはできない。藤原氏後裔説はおくとして、津軽氏の出自については二説がある。いずれも南部氏から分かれたとするものである。
一つは、『津軽家文書』に伝えられる「津軽御家形様御先祖之次第」で、南部家形様の三男・彦六郎を始祖とする南部家支流説をとっている。この南部家形様とは三戸南部家十三代の守行と思われるが、正式な南部系図には彦六郎の名は見いだせない。彦六郎は家光または則信と名乗り、秋田仙北地方の南部領を支配した金沢右京亮のことである。『津軽家文書』の中に永享六年(1434)の「源家金沢右京亮口宣案」がある。
もう一つの説は、津軽元信と久慈景政の娘との間に光信が生まれたとするものである。同説によれば、文安二年(1445)元信は父則信(威信)が南部光政のために津軽掘越城を攻められて自刃した。このとき、まだ幼かった光信は家臣大曲和泉守に背負われて、母方の縁を頼って南部に逃れ三戸で成長した。元信は長ずるにおよんで、津軽の旧領回復の望みを抱くようになった。このため、南部氏によって岩手県鬼柳で殺害された。その後、南部氏は津軽氏の怨みをやわらげるため元信の子光信を津軽鼻和郡種里に封じた。ときに光信三十二歳であったという。
光信は大浦種里へ入部し、城を構え、津軽に雌伏していた旧臣らを家臣に加えた。光信はそこを拠点として南部氏に復讐せんとして着々と勢力を拡大した。文亀二年(1502)には大浦城を築き、そこに子の盛信を配し、津軽の中央部をうかがう体制を整えた。その間の明応六年(1497)、前関白近衛尚通が中央の戦乱を避けて津軽に下ってきたとき、光信は娘を侍らせ、生まれたのが政信であるという。
以上、津軽光信の出自に関する二説のうち、いずれが真を伝えているのかの判断はいまとなっては難しい。近衛尚通の子とされる政信の猶子説、庶子説については江戸時代の寛永十八年(1641)、嘉永三年(1850)の二度、それぞれ近衛信尋、同忠熈から証明すべき文書が出されているが、これもそのままに信じることはできない。いずれにしろ光信が、のちの戦国大名の津軽為信に連なり、近世津軽藩十万石の大名となる津軽氏の祖となったことは共通しているようだ。
大浦氏の勢力拡張
盛信は父光信の跡を継ぎ、家人・町方・寺社などを賀田へ移住させ、大浦の町づくりを行った。天文二年(1533)南部安信が大光寺を攻略し、その勢いをもって大浦城に攻め寄せたが果たせず、盛信に和を講じた。しかし、その一方で石川城を修復して一族の高信を据え、津軽諸城のおさえとし、大光寺に北信愛、浅瀬石に千徳政吉、和徳に小山内満春を入れるなどして津軽氏に対する布陣を固めた。これに対し盛信は、領地の検地を進めるなどして財政基盤の確立に意を注いだ。
盛信には子が無かったため、さきに近衛尚通のもうけた甥の政信を養子として家督を継がせた。天文十年六月、政信は和徳城主小山内満春と戦い、和徳の三味線原で戦死した。政信の戦死後、家督は嫡子の為則が継いだが、為則は少年のころに過って膝頭を切り身体が不自由であったため、軍事は弟の守(盛)信が代行していた。
永禄四年(1561)三戸南部氏に後継問題が起こり、九戸政実と南部信直とが抗争したとき、石川高信は信直救援のために為則へ援兵を求めた。このとき、為則は掘越城主守信を大将に立て、横田城主の堤孫六を副将としてそれに応じた。出陣した守信は南部桜庭の合戦で戦死してしまった。
為則には男子がなかったため、討死にした弟守信の嫡男為信を養子とし、為信の成人後、娘阿保良姫を室とさせ、津軽の家督を譲った。為則のあとを継いだ為信は『津軽一統志』に「天運時至り、武将其の器に中らせ給う」とあり、乱世が生んだ知謀の将であった。為則は永禄十一年頃には最上義光に通じて上方の情勢を尋ねたり、群雄から一歩抜け出ようとしている織田信長に自分を推挙してくれるように頼んだりしている。
天正八年(1580)に南部氏の津軽郡代南部(石川)高信が没すると、その子政信が郡代職を受け継いだ。そのころの郡代補佐役に大光寺左衛門尉光愛、浅瀬石隠岐政吉、そして大浦右京亮為信があたっていたが、郡代補佐役の地位に甘んじる為信ではなかった。
大浦為信の南部氏離反
永禄六年(1563)南部晴政が死去し、そのあとを継いだ晴継も同八年に若死した。その跡をめぐって南部氏内部では一波乱があったが、さきに晴政の養子となっていた信直が二十六代の当主を継いだ。しかし、九戸政実は南部宗家の家督争いのとき弟の実親を立てようとして信直方に敗れ、南部宗家信直に対して叛心を抱いていた。
この南部氏の内紛をみた為信は、南部氏から独立し自立した大名への野望を抱いたようだ。そして、三戸南部宗家の権力闘争の間隙に乗じて邪魔な存在を排除し、野望を果たすための行動を開始した。まず、同役の浅瀬石隠岐が死ぬや、策謀をめぐらしてもう一人の同役大光寺左衛門尉を出羽に追放させた。ついで郡代の拠点である石川城の攻撃を企て、まず堀越城を奪ってこれを修復した。
南部信直時代の津軽郡代は石川城の石川政信で信直の実弟であった。為信の叛乱で石川城が危機に瀕したとき、信直は何度も追討軍を出したが、救援は成功しなかった。その背景には九戸政実の存在があり、信直がみずから兵を率いて出陣すれば、政実が南部氏の本城を攻撃することは必定で、大々的な石川城救援ができなかったのである。このように、為信の叛乱を容易にしたのは南部家中の内訌であり、それを巧みにとらえた為信の行動であった。一説に、南部信直と対立する九戸政実が為信の独立運動を支援した結果であるとするものもある。
そうして天正十八年(1590)三月、郡代の石川城主南部政信を毒殺して石川城を陥れ、その月のうちに浪岡御所北畠顕村を攻めて北畠氏を滅亡させるなど、一方的な活躍を示すようになった。ただし、のちの津軽氏の資料では、石川城攻撃は元亀二年(1571)、浪岡城攻撃は天正六年(1578)とし、南部側の資料に比べて十年以上早く、両者には著しい食い違いがみられる。
・野性味にあふれた為信の肖像
独立大名への途
為則は早い段階から独立の実現に向けて、戦略的な布石を敷いていた。浅瀬石の千徳氏を、ついで大光寺左衛門尉の後任の大光寺城主滝本重行を攻め落として、平川沿い一帯を支配し、天正五年には黒石城を築いて津軽平野東部地帯の抑えとした。天正十三年になると、油川の奥瀬善九郎を敗走させ、堤浦の堤弾正を追放して外ケ浜一帯を掌中に収め、さらに田舎館の千徳氏を滅ぼし、天正十六年には、高楯城にいた北畠残党を滅ぼした。こうして為信は十七年の歳月をかけて、南部氏から離反し津軽征服を果たしたのである。津軽全域の支配が完成したこのころから、為信は大浦氏を改め津軽氏を名乗るようになったといわれる。
しかし、為信の南部信直に敵対する一連の軍事行動は、天正十四年(1586)の秀吉惣無事令に背くものであった。そのことは、『南部信直宛前田利家書状』からもうかがわれ、天正十四年の時点の為信は、秀吉が発した惣無事令の処罰対象者であった。
為信は自らの不利な状況を打開するため信直が前田利家を頼ったように、豊臣政権内の要人に鷹などの贈答品を贈り、羽柴秀次や織田信雄を味方にすることに成功した。為信は信直に劣らぬ中央外交を展開し、南部氏を名乗る津軽三郡の領主として、その地位は豊臣政権内で認知された。その結果、秀吉政権による津軽討伐は回避され、南部信直は津軽の地を失ってしまったのである。為信はこれを機会に源姓南部氏の系譜と訣別し、近衛家との旧縁を持ち出して、近衛前久の猶子となり、本姓を藤原氏に転換することに成功した。
為信が秀吉から公認された領知高は三万石で太閤蔵入地一万五千石が設定された。これは、惣無事令違反に対するペナルティであったといよう。とはいえ、為信は一代で大名の座を獲得したのである。その歩んだ道の評価はともかく、乱世が生んだ英雄の一人であったといえよう。
近世を通じて、津軽藩と南部藩は非常に仲が悪かった。それは、為信が本家南部氏に弓を引いて津軽を略奪して独立した大名になったことが原因であった。南部氏にすれば、自己の領国から芽を出した木が、あまりに大きくなりすぎたことを快いはずがない。江戸時代を通じて、両藩の往来がほとんどなかったこともうなづけるところではある。
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為信の死とその後
秀吉死後に起こった関ヶ原の合戦には、徳川方に与して為信は直接関ヶ原に出陣している。その後の為信の動向は必ずしも明確ではないが、京都と国元津軽を何回も往復し、伏見において徳川家康に拝謁するなど一種の参勤を実施している。また、政治動向の中心が上方にあったため、京都に滞在して情報の収集に余念がなかったものと想像される。そして、慶長十二年の末に京都で死去した。
為信のあとを継いだのは三男の信枚であった。為信の嫡子は信建であったが為信に先立って死去しており、信枚が継いだのである。ところが慶長十三年、信建の子大熊が江戸幕府に訴状を提出し、信枚の津軽家相続に異をとなえた。すなわち、大熊こそ津軽家の嫡系であり「惣領之筋目」を継ぐのは自分しかおらず、信枚が津軽家を継承すれば津軽は「庶子の国」となってしまうというものであった。しかし、幕府は大熊の訴えを退け、信枚の家督が幕府から保証されたのである。以後、津軽家は信枚の子孫が「惣領之筋目」として続いた。当然、信建の系統は抹殺された。・2004年10月30日
【参考資料:岩手県史/日本の名族/戦国大名系譜人名事典 など】
●ダイジェストページ
■参考略系図
・清和源氏南部氏後裔説をもとに作成。守行の子で金沢氏を継いだ家光と則信は同一人物とみられ、津軽氏の系図としては「出自説─3」が比較的信のおけるものと考えられる。
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
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