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蒲池鑑盛
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龍造寺隆信
●享禄二年(1529)〜天正十二年(1584)
●龍造寺周家の子に生まれたが初め僧籍に入り、父の死により還俗して家督を継いだ。周防大内氏を頼って
九州平定を狙う大友氏と対抗した。そして、大友義鎮の肥前侵攻を撃退して権勢を確立した。大友家が
耳川の戦いで島津氏に敗れると一気に勢力を拡大し、一時は「五州の大守」として「肥前の熊」と
称された。天正十二年(1584)、島津・有馬連合軍と沖田畷で戦い、圧倒的な大軍を擁しながらまさかの
敗戦を喫し、隆信は討ち取られてしまった。
鍋島直茂
●天文七年(1538)〜元和四年(1618)
●佐賀藩祖。鍋島清房の二男で龍造寺隆信に仕え隆信の戦死後、実権を握る。朝鮮出兵では龍造寺軍団を率いて渡海。関ヶ原合戦には東軍に属し、肥前国の大半を安堵される。龍造寺家の家督相続後、隠居。
松浦鎮信
●天文十八年(1549)〜慶長十九年(1614)
●肥前平戸城主。商才に長け交易により財をなし、龍造寺氏や大村氏と戦う。港を開き、英・蘭の商館を誘致して貿易王国をつくる。家族をこよなく愛したが長男を失う不幸にあっている。
有馬晴信
●永禄十年?〜慶長十七年(1612)
●肥前領主。有馬義貞の二男。天正十八年受洗。龍造寺隆信を討って島原半島を統一。同十年、少年使節をローマに派遣。関ヶ原合戦では東軍に与する。慶長十七年の岡本大八事件で甲斐国に流され、斬罪となる。
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大村純忠
●天文二年(1533)〜天正十五年(1587)
●大村家十八代当主。有馬日野江城主晴純の二男。天文七年、大村純前の養子となり十八歳にして後を継ぐ。キリシタン大名となり少年使節たちを欧州に派遣。横瀬浦・福田浦・長崎を開港。
伊東祐兵
●永禄二年(1559)〜慶長七年(1602)
●日向飫肥城主伊東義祐の子。島津義弘に攻められて勢威衰え、大友氏の支援を得て島津氏と戦ったが、大敗して豊後府内に落ちた。上洛して秀吉に仕え、九州征伐には先導役となって日向に入り、役後旧領飫肥城に復帰。
相良義陽
●天文十三年(1544)〜〜天正九年(1581)
●肥後球磨郡に生まれる。父は人吉城主相良晴広。諱は頼房・義頼。永禄七年将軍義輝より偏諱を受けて、義陽と改める。天正九年、肥後響原で甲斐宗運と戦い、敗れて討ち死した。享年三十八歳。
島津義弘
●天文四年(1535)〜元和五年(1619)
●島津貴久の二男で、入道して維新と号した。天文二十三年(1554)の初陣以来、武名を内外に轟かせた。
永禄の頃より、長兄義久とともに日向飫肥の伊東氏攻撃をはじめ九州一円に兵を動かし、大友氏の決戦で
ある耳川の戦いでは巧みな戦略で大友氏の大軍に圧勝した。天正十五年、秀吉九州征伐に遭い、抗し得ず
降伏。慶長五年兄義久から家督を譲られ、鹿児島城主となる。 関ヶ原の戦では西軍として出陣、
三百あまりの寡兵で敵陣の中央突破を敢行して薩摩に帰還したことは有名である。
禰寝重長
●天文五年(1536)〜天正八年(1580)
●大隅の国人禰氏の第十六代当主。種子島の領主である種子島氏と抗争を繰り返した。その一方で、薩摩・大隅の統一を
進める島津氏に対して、肝付氏らと結んで対抗した。天正元年(1573)、島津義久からの和議申し入れに応じて島津氏に
帰服した。その後は義久に属して肝付氏らと交戦した。重長は対明貿易を行い、
領内における温州みかんやはぜなどの各産業の開発振興に尽力した名君でもあった。
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