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宇喜多氏
剣酢漿草/児文字*
(三宅氏流/佐々木氏流?)
*宇喜多氏の場合、児文字紋が有名
 だが、本来は剣酢漿草であった。
 また、洲浜も用いていたといわれ
 ている。


 宇喜多氏は宇喜田氏とも浮田氏とも書く場合があるが、すべて同じである。備前の豪族三宅氏の後裔といわれている。
 三宅氏の出自に関しては、古代、百済国の兄弟三人が、船で渡来し、備前の国に至り一つの島に拠ったが、旗にみな”児”という字が記されていたことから、その島を児島と呼ぶようになったという。三兄弟は自ら三宅と名乗り、そこから宇喜多氏などが輩出したという。
 これは宇喜多能家画像の賛にみえることであり、戦国時代、宇喜多氏がそのように信じ、家系をそのように受け止めていたことを示している。その他、佐々木氏の流れとして、児島高徳の後裔とする説もある。しかし、正確なところは不明というしかない。
 宇喜多氏歴代で、動きが比較的つかめてくるのは高秀から能家あたりからである。能家は浦上則宗・宗助・村宗三代にに仕え、応仁の乱後、浦上氏が内訌を繰り返し、衰えをみせた時、則宗をもりたてて勢力を回復させることに成功し、重く用いられていたことが知られている。

宇喜多能家の活躍

 十五世紀末当時、備前国は赤松氏の守護代として浦上氏が支配していたが、室町初期備前守護に任じられたこともある有力国人の松田氏が、文明十五から六年(1483〜4)に備前国で勃発した騒乱に一役をかい、赤松・浦上氏の備前支配を排除しようとした。この合戦は福岡合戦と呼ばれ、備前国における戦国時代への突入の契機と考えられている。こうして、浦上氏と松田氏は備前国内で互いに勢力を争うようになった。
 さらに、浦上家中では、家督をめぐって内訌も起こっていた。すなわち、明応八年(1499)浦上則宗と浦上村国とが同族ながら、備前、播磨の国境付近で合戦におよんだ。則宗は戦いに敗れ白旗城に篭城、村国はそれを包囲し白旗城は落城寸前になり、一族のものまで則宗を見捨てて落ち延びようとするにいたった。この時能家が義を説き、兵を励ましたことで則宗勢はよく奮戦し、村国はあきらめて兵を引き揚げた。
 文亀二年(1502)冬、能家は浦上軍の総大将として三百騎あまりを率い、吉井川を越え宍甘村付近で、浦上氏の宿敵松田勢と戦い、能家みずから敵将・有松右京進を討ち取り、有松の供回りの兵二人も突き伏せ首を取るほどの奮戦をしたことで、配下の将兵も勇み立ち功名手柄をたてた。
 翌年、能家は浦上勢とともに吉井川をわたり、松田勢と雌雄を決すべく上道郡に進入した。松田元勝もみずから兵を率い御野郡笠井山に陣を定め、旭川の牧石の河原で両軍は激突した。浦上勢は旭川をわたり松田勢と戦ったてが、松田勢は大軍を山からおろし浦上勢を包囲した。
 浦上勢の劣勢を見た能家は宇喜多全軍を率い旭川をわたり救援に向かい、元勝もみずから笠井山を下って乱戦となった。乱戦の中、能家は部下を下知しながら縦横無尽に切り廻り、兜に三筋の矢をうけ、内兜も槍で突かれ負傷したが、その傷をものともせず奮戦し、松田勢を敗走させるにいたった。
●宇喜多氏の軍旗

浦上氏と赤松氏の対立

 永正十五年(1518)村宗は、父則宗の跡を継いで赤松家の政務を執っていたが、赤松義村と不和となり居城の三石城に退去した。しかし、義村は、みずから兵を率い浦上勢の諸城を攻め落とし、三石城に迫った。浦上氏にとって主筋にあたる赤松義村の攻撃であり、城中は動揺し一夜のうちに七十余人が城を捨てて逃げ去るほどの状況となった。しかし、その武勇と知略で将兵の信頼を得ていた能家の活躍により赤松勢の猛攻に耐え、やがて、船坂峠の戦いで赤松勢を討ち負かし敗走させることに成功した。
 同十七年(1520)、赤松義村は浦上村国を三石城にこもる浦上村宗に当て、また、東美作の浦上勢を攻略するべく小寺則職を送りこんだ。これに対して村宗は能家に二千余騎の軍勢を授け、東美作の救援に向かわせた。この報告を受けた義村は軍勢を集め美作に将兵を送った。一方、村宗も三石城から二千五百人を率いて能家と合流したが、赤松勢の大軍に圧倒された浦上、宇喜多勢は一夜のうちに逃げ失せ、残ったものは七十余人となる始末であった。しかし、能家は夜明けを待たず、踏みとどまったこの七十余人の兵を率いて朝駆けをおこない赤松勢を打ち破った。この形勢を見て一度は離散した浦上勢も帰陣する者が増え、ふたたび赤松勢と対峙。このあと、村宗の謀略で小寺氏の家臣を寝返らせ、小寺氏率いる赤松勢に討ち入り赤松軍を敗走させた。これらのたび重なる敗北で、赤松義村の権威は失墜する一方、浦上村宗の勢力は拡大し逆に播磨に侵入して西播磨一帯を制圧し、赤松義村を隠居させることに成功した。そして、その後義村を幽閉し、ついには殺害するにいたった。ここに、浦上氏の下剋上となったのである。
 大永三年(1523)、赤松義村のあとを継いだ政村を擁立した浦上村国と小寺藤兵衛を討つため、浦上村宗は播磨に出兵、しかし、先陣を務めた能家の次男四郎が村国の策略にあって討死、それを知った能家はみずからも死すべしと敵陣に突っ込み奮戦、浦上軍に勝利をもたらした。この能家の奮戦を伝え聞いた管領細川高国は名馬一頭と名のある釜を贈ったと伝えている。

宇喜多氏の興亡

 宇喜田能家は、浦上氏に属してその勢力伸張に力を尽し、さらには、宇喜田氏の名を高からしめた武将であった。しかし、天文三年(1534)、浦上村宗の遺命と称して、尾根向こうの高取城主島村豊後守に攻められ、敗れて自害して果てた。残された興家は六歳になる直家を連れて備後鞆に逃れた。以後、宇喜田氏は世を忍ぶこととなる。
 能家の子興家を経て直家の代になると、直家は浦上宗景に仕え、武功を重ねて家名を再興することに成功した。
 永禄元年(1558)頃から安芸の国人領主であり、備後を平定した毛利元就が備中に侵攻。鴨山城主細川通薫は毛利方に属した。同五年、元就の嫡子隆元は備中守護に任じられた。備中国最後の守護であった。永禄八年(1565)毛利氏は美作に侵攻し、翌九年、尼子氏を富田城に滅ぼし、毛利氏は本格的に美作攻略に乗り出した。このころ、美作は尼子氏の手を離れ、宇喜多直家が支配しており、毛利・宇喜多両氏は抗争を繰り返した。元亀元年(1570)宇喜多氏被官花房職秀は荒神山城を築き、美作支配の拠点とした。
 一方、備中国で勢力を拡大しつつあった成羽城主の三村家親・元親父子は毛利方に属し、美作に侵攻するが、同九年家親は宇喜多直家によって暗殺された。翌年、家親の子元親は石川氏・庄氏ら備中国人を結集して宇喜多直家と備前明禅寺で戦うが敗北。この合戦は、二万の三村軍に対し、五千の勢しか持たない直家がその命運をかけて戦った会心の勝利であった。以後、備中には宇喜多氏の勢力がおよぶこととなる。
●宇喜多直家像

備前の戦国大名に

 永禄十一年、直家は虎倉城主伊賀久隆を味方につけ、明禅寺合戦に日和見を決め込んだ松田元輝・元賢を攻め、金川城を陥し松田氏を滅ぼした。さらに元亀元年(1570)には、金光宗高の拠る岡山城を奪取した。天文元年(1573)、宇喜多氏の勢力が拡大し、美作には再興尼子氏・毛利氏が侵入したため、浦上宗景は織田信長に通じた。宇喜多直家はこれに反発して毛利方に属し、同二年岡山城に入城、そこを本拠とした。
 明善寺の合戦に敗れた三村元親はその後、勢力を回復し、元亀元年、松山城を攻めて庄氏を滅ぼし、同二年には佐井田城を奪取、元親は本拠を成羽城から松山城へ移した。
 天正二年(1574)織田氏と結んだ浦上氏に抵抗するため、毛利・宇喜多氏は連合した。宇喜多氏に反抗していた三村氏は、以後毛利氏を離れて松山城に籠った。翌三年、毛利氏は三村方の国吉城・鬼身城を攻略し、松山城も攻め落とし、三村氏は滅亡した。これまで宇喜多直家は主家浦上氏に対して敵対することはなかたが、同五年、直家は、天神山城に拠る浦上宗景を攻め破り、浦上氏は没落。さらに進んで、浦上方の美作三星城主後藤勝基を攻め滅ぼした。かくして、宇喜多氏は備前・美作・播磨の一部を支配する戦国大名に成り上がった。



・左:復元岡山城天守閣 ・右:かつての天守閣の礎石群  


 このころ、播磨には織田信長の部将羽柴秀吉が侵入。播磨の諸大名を降し、あるいは滅ぼしてついにその最前線は備前に迫った。これに対し、宇喜多直家は初め毛利氏に属して、上月城の合戦などに援軍を送って秀吉軍と戦ったが、天正七年、直家は秀吉方に降った。宇喜多氏の被官伊賀久隆は、毛利氏に攻撃され、城は落城。久隆の子家久は毛利方に降ることになる。
 天正七年から九年にかけて、小早川隆景、吉川元春の率いる毛利勢は再三にわたって宇喜多領に侵入、備中忍山合戦、備前八浜合戦、備前辛川合戦、美作寺畑城合戦など、各地で宇喜多勢と激戦を展開、備中忍山合戦では宇喜多源五兵衛・孫四郎父子、備前八浜合戦では宇喜多基家が討死するなど、直家は苦戦を強いられながらも辛うじてこれを防戦していたが、ついに病を得て天正九年二月、死去した。
 ところで、直家の死後、かれの弟である河内守春家が「兄直家の前に出る時は、常に死を覚悟していた」と言わしめていることからも、直家の謀略の凄まじかったことが伺われる。まさに、美濃の斎藤道三と並び称される梟雄であったことがうなづけるのである。

宇喜多氏の没落

 直家の子秀家は秀吉に養われ、前田利家の娘を妻として、豊臣政権下の五大老の一人となった。しかし、関ヶ原の戦いでは、西軍の中心として働き、敗れたあとは薩摩の島津氏を頼ったが、八丈島に流され、かの地で没した。晩年は、備前国の大守であった面影はすでになく、まことに悲惨なものであったという。子孫は、八丈島に連綿し、明治維新を迎えてはじめて流罪から開放された。


■参考略系図
・いずれの戦国大名の系譜も同じだが、初期の系譜は詳らかではない。
 


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