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足利氏(将軍家)
●足利二つ引/五七の桐
●清和源氏義家流  
 


 足利氏は清和源氏で、前九年・後三年の役で活躍した八幡太郎義家の孫義康が下野国足利庄によって、足利氏を称したのに始まる。名字としての足利は、平将門の乱に活躍した藤原秀郷の後裔淵名兼行の子成行が下野国足利を開発して足利を称したのが先になる。


足利氏の発祥

 八幡太郎義家の三男義国は、義家が足利氏の女(成行の孫娘とする説が有力)との間にもうけた男子と伝えられる。成長した義国は都にのぼり加賀介に補されたが、康和二年(1100)、一族の佐竹冠者昌義の起した乱の鎮圧を命じられ、常陸に下った義国は昌義を討ち取った。その間、父義家が死去したことで、本来なら源氏嫡流の家督を継ぐ身にありながら、弟の義忠が義家のあとを継いで源氏の惣領となった。一方、義国は昌義の祖父で叔父にあたる源義光との間で小競合いが起り、さらには勅勘を蒙る身となり、ついには下野に土着するに至ったのである。
 義国の嫡男義重は新田荘を開墾して新田義重と称して新田氏の祖になり、二男の義康が足利荘を譲られて足利義康と称した。その後、義康は上洛して鳥羽法皇に北面の武士として仕え、蔵人や検非違使に任官し、陸奥守にも補任されて「陸奥判官」とも呼ばれた。保元元年(1156年)の保元の乱では、源義朝とともに後白河天皇方として参陣した。戦後、論功行賞として昇殿を許され、従五位下大夫尉に任官するなど将来を嘱望されたが、翌年病を得て三十歳の若さで歿した。
 平治元年(1159)に起こった平治の乱に源義朝が敗れると、足利荘は平重盛の所領となり、藤姓足利俊綱が管理するところとなった。以後、平家全盛の時代を迎えると源氏一門は雌伏を余儀なくされ、源姓足利氏の動向には不明な点が多い。やがて、治承四年(1180)、以仁王が挙兵すると義康の長男足利矢田判官代義清は、以仁王に味方したが敗れて京から逃げ落ちた。その後、義清は木曽義仲の挙兵に加わり、寿永二年(1183)、備中水島の合戦において弟義長と共に討死した。
 一方、足利荘にあった義康の三男義兼は、早い時期から源頼朝の麾下に加わっていて、兄たちの死後、源姓足利氏の嫡流を継ぐことになった。義兼の母親は熱田大宮司季範の娘で頼朝の母の妹にあたり、 頼朝とは従兄弟であったことが家督相続に有利に働いたものと考えられる。
 一時期、平家に属して勢力を振るった藤姓足利氏は、頼朝に攻められた足利俊綱が家臣の桐生六郎に殺害され、俊綱の子忠綱は壇ノ浦で敗れて没落した。その後、忠綱は足利に帰ってきたが、足利荘はすでに足利義兼の領地となっており、追い詰められた忠綱は飛駒山中で自殺して藤姓藤原氏は滅亡した。

■足利氏--初期閨閥系図




足利氏の勢力伸張

 義兼は文治五年(1189)の奥州合戦にも従軍し、頼朝の「御門葉」として敬われ、鎌倉幕府が開かれると、 将軍への随行などの序列では常に最上位におかれた。頼朝が死去したのち執権北条氏が権力を確立していくと、足利氏は北条氏に協力することで自らの地位を発展保持していった。
 鎌倉時代は北条氏と縁戚関係を結び、義兼のあとを継いだ義氏は三河守護となり、その子泰氏は上総守護をも兼ねて、所領は下野・三河・丹波・美作・上総・下総に散在した。かくして、各地の所領に一族を配したことで足利一族は大いに発展していった。しかし、北条得宗家の専制強化によって多くの御家人が失脚、あるいは滅亡し、足利氏も鎌倉末期には「百姓のごとき」生活を送っていたと記している記録もある。
 たしかに、北条体制が確立されていくにつれ、幕府創業以来の御家人の多くが没落していった。足利氏も北条氏の下風に立つようになったが、源家将軍家断絶後は武門源氏の嫡流とみなされて外様御家人中第一の地位を有し、赤橋・金沢など執権・連署を勤めた北条氏一門から正室を迎えていた。
 鎌倉時代の足利氏代々のなかで特筆されるのは家時であろう。『難太平記』によれば、足利氏には源義家の「我七代の孫吾生かはりて、天下を取べし」と書かれた置文が伝わっており、家時が丁度七代目に当たっていた。未だもってその時ではないことを嘆いた家時は八幡大菩薩に祈って、「我命をつづめて、三代の中にて、天下を取らしめ給へ」 と語って腹を切ったと書かれている。
 家時の死後、家督を継いだ貞氏は鎌倉幕府が崩壊する直前の元弘元年(1331)九月に没した。貞氏の嫡男高義は死去していたため、高氏が足利氏の家督を継いだ。高氏は元応元年(1319)に十五歳で元服したが、その前年の文保二年(1318)に後醍醐天皇が即位している。尊氏と後醍醐天皇が同時期に歴史に登場したことは、何ともいえない歴史の符合を感じさせる。ちなみに、高氏の「高」は北条高時から一字を拝領したもので、のちの尊氏は後醍醐天皇の諱「尊治」の一字を拝領したものである。


足利幕府を開く

 後醍醐天皇の討幕運動に端を発した「元弘の役」が起ると、幕府は北条氏一門の名越高家と足利高氏を大将として大軍を上洛させた。このとき、高氏は幕府の要求にしたがい、起請文を書き、妻登子と嫡子千寿王(のちの義詮)を人質に置いて、一族・被官以下三千余騎を率いて鎌倉を出発した。
 入京した尊氏は六波羅の軍議にしたがい、四月二十七日、山陰道を伯耆船上山に向けて出京した。この日、一方の大将として山陽道に向かった名越高家は赤松則村と戦って敗死した。これを聞いた高氏は、ついに討幕の決意を固め、そのまま丹波国に入ると篠村に陣した。篠村八幡宮の社前に旗を揚げ、願文を奉納して所願の成就を祈った高氏は、しばらく近国の武士たちの参集を待った。五月七日、大挙して京都に攻め入り、六波羅を陥落させた。その翌日、東国では新田義貞が旗揚げし、二十一日に鎌倉幕府を滅亡させた。

 
●篠村八幡宮
尊氏が討幕の兵を挙げた篠村八幡宮。延久三年(1071)、源頼義の創建と伝えられる。境内は意外に狭いが、尊氏の旗揚げに由来するという矢塚、旗立楊などがある。

・左:篠村八幡宮の鳥居
・右:篠村八幡宮の対い鳩紋


 かくして、後醍醐天皇による建武新政が開始されると、高氏は第一功労者として厚く遇された。しかし、新政の施策は公平を欠くところが多く、論功に不満を持った武家たちは武家政治の復活を願い、尊氏に期待をよせるようになった。そのような情勢下、中先代の乱が起こると、尊氏は乱制圧のために東国に下った。そして、乱を鎮めた尊氏は鎌倉に居座り、ついに新政に反旗を翻したのである。
 討伐軍を破った尊氏は、官軍を追撃して上洛すると京都を制圧下においたが、ほどなく奥州から長躯上洛してきた北畠顕家軍に敗れて九州に奔った。九州で態勢を立て直した尊氏は、湊川で楠木正成を討ち取り、ふたたび京都を制圧下においた。そして、比叡山に逃れた後醍醐天皇に代えて光明天皇を擁立して室町幕府を開いた。一方、京から脱出した後醍醐天皇が吉野で朝廷を開かれ、以後、五十七年間にわたる南北朝の動乱時代に入ったのである。


南北朝の争乱

 情勢は武家方の北朝優位に動いたが、幕府内部で高師直らの反直義派と直義派の対立が起こり、ついに観応の擾乱と呼ばれる内部抗争に発展した。政争に敗れた直義は出家して政務を退き、直義に代わって尊氏は嫡男義詮を鎌倉から呼び戻して政務にあたらせた。鎌倉には次男基氏を下して、東国の宮方にあたらせた。基氏の子孫は鎌倉公方として続き、のちに足利将軍家と対立するようになる。観応の擾乱によって南朝方は勢力を盛り返し、尊氏、直義、南朝が三つ巴となって擾乱が続いた。
 観応三年(1352)、捕らえられた直義が鎌倉で急死したことで擾乱は終息した。しかし、中国地方では直義の養子直冬(実は尊氏の庶長子)をかつぐ山名氏や大内氏らの反幕勢力、鎮西では懐良親王を擁立する菊池氏ら南朝勢力が侮れない勢いをみせていた。直義の死後、尊氏は関東の政情安定につとめ京に戻ったが、直後に直冬の京都侵攻にあった。さらに、文和三年(1354)には南朝方に京都を奪われるという事態に陥った。南朝方から京を奪還した尊氏は、自ら直冬の討伐に出陣しようとした。そのような延文三年(正平十三年=1358)、尊氏は背中に出来た腫物のため、京都二条万里小路邸にて死去した。
 尊氏のあとを継いで二代将軍となった義詮の前途は多難であった。直冬を担ぐ山名・大内氏らは反幕姿勢を崩しておらず、鎮西南朝方は大宰府に拠っていよいよ健在、さらに幕府内では仁木義長と細川清氏・畠山国清らが対立、義長、清氏らは南朝方に降るという有様であった。文字通り、政情は流動的であったが、貞治二年(正平十八年=1363)に大内氏、山名氏らが相次いで幕府に帰参したことで、幕府体制はようやく安定化をみせるようになった。
義詮は斯波義将を管領に任じ、訴訟手続の整備など、幕府体制の整備に尽力した。しかし、幕府重臣間の抗争ややまず、貞治五年(1366)、義将が細川頼之・佐々木道誉らによって失脚するという事件が起こった。翌年、幼少の嫡男義満を管領細川頼之に託して、三十八歳の若さで病死した。
 三代将軍となった義満は十一歳の少年であり、幕政は管領の細川頼之をはじめ、足利一門の守護大名が主導した。頼之は倹約令など法令の制定、公家や寺社の荘園を保護する半済令を施行、さらに宗教統制を強化するなど幕府体制の安定に努めた。一方、楠木正儀を幕府に寝返らせ、九州南朝方に対しては今川貞世(了俊)・大内義弘を派遣して懐良親王ら南朝勢力の駆逐をはかったのである。


幕府体制の確立

 やがて、成人した義満は天授四年(永和四年=1378)、幕府を三条坊門から北小路室町に移した。新御所は花の御所と呼ばれ、その所在地から足利幕府は室町幕府と呼ばれるようになったのである。義満は京都の行政権や課税権などを幕府に一元化するとともに、奉公衆と呼ばれる将軍直属の直臣団を設けて守護大名の軍事力に対抗しうる常備軍を整備した。
 将軍権力と幕府体制の強化を目指す義満は、強大化した守護大名の勢力削減を企図し、康応元年(1389)、土岐氏の内紛につけ込んで土岐氏を討伐した。ついで、明徳二年(1391)には、六分の一殿と呼ばれる大守護一族である山名氏の内紛に介入、山名氏清を挑発して兵を起こさせ討伐、山名氏の勢力を大きく後退させた。そして、翌明徳三年、南北朝の合一を果たして半世紀にわたった南北朝の内乱に終止符を打ったのである。
 その後、応永二年(1395)には、九州南朝方を制圧して一大勢力に成長した九州探題今川了俊を更迭した。了俊後の九州探題職を望んだのは、明徳の乱に大活躍を示した西国の大名大内義弘であった。しかし、義満は渋川氏を新探題に任じ、義弘の野望は空振りに終わった。やがて、義満と義弘の間は円滑を欠くようになり、応永六年、鎌倉公方と通じた義弘は堺で挙兵した。義弘は幕府軍を相手に奮戦したが、衆寡敵せず、畠山満家に討ち取られた。
応永の乱を平定した義満は、明との間に勘合貿易を始めるなど文字通り幕府全盛時代を現出した。また、西園寺公経から京都北山の邸を譲り受け、金閣(舎利殿)を中心とする山荘北山第を造営した。義満時代の文化は、武家様・公家様・唐様(禅宗様)が融合したことから、北山文化と呼ばれることが多い。
 権力並ぶ者のない義満は、皇位簒奪の意図を持つようになったといわれる。晩年の義満は、祭祀権・叙任権(人事権)などの諸権力を天皇家から奪い、応永十五年、次男義嗣の元服を親王並みに宮中において行った。簒奪説によれば、義満は嫡男義持を将軍職に、二男義嗣を天皇にしようとしたのだという。義嗣元服の一ヵ月後、義満は急死するが、その死は皇位簒奪を目論む朝廷側による暗殺だという。果たして義満が皇位簒奪を狙っていたことを裏付ける証拠はないが、晩年の義満はほとんど法王と呼ばれる存在であったようだ。

花の御所跡の碑【左】と金閣寺庫裏【右】



将軍権力の動揺

 朝廷は義満の死後、「鹿苑院太上法皇」の称号を贈ろうとしたが、あとを継いだ義持は管領斯波義将らの意見もあって辞退している。義持は父と折り合いが悪く、また義満が二男の義嗣を溺愛したことなどから、根深い反発をもっていたようだ。将軍職に就いた義持は義満が行った諸政策を否定、明との勘合貿易も取りやめ、北山第も金閣を残してすべて破却している。義持の施政はいわゆる守旧路線であり、義満の積極性にはほど遠いものであった。おそらく、父子は水と油のような相容れない関係であったのだろう。
 義持は管領斯波義将の補佐を受けて、公家化した政治を本来の武家政治に復活させようとした。しかし、その治世は決して安穏なものではなかった。後南朝を支援する伊勢の北畠満雅の反乱、関東で起こった上杉禅秀の乱が勃発、禅秀の乱では禅秀に加担した弟の義嗣を殺害している。義持は将軍権力の強化を図るため側近集団を形成しようとしたが、細川氏ら幕府重臣の反発を招き、幕政は将軍義持の意のままにはならなかった。やがて、応永三十年(1423)、嫡男義量に将軍職を譲って出家したが、ほどなく義量が死去したため後継者を決めないまま応永三十五年に病死した。
 義持の死後、将軍職に就いたのは弟で青蓮院門跡の義円であった。義持には義円のほかに梶井義承・大覚寺義昭・虎山永隆らの弟があり、その中からくじ引きによって義円が選ばれたのであった。還俗した義教と名乗った義円は、将軍権力の強化と幕政の引き締めを目指した。また、将軍直轄の奉公衆を設けて、軍政面でも将軍権力の強化を図った。
 義教は比叡山を屈服させて仏教勢力の政治介入を駆逐し、反抗的姿勢をみせる鎌倉公方足利持氏を永享の乱で滅ぼし、旧南朝勢力の北畠氏を討伐し後南朝勢力を壊滅させた。さらに、有力守護大名の家督継承に介入して、かれらの勢力削減につとめた。そして、意に反する一色義貫、土岐持頼などを粛清した。かくして、義教は将軍権力の強化と幕政の引き締めを果たしたが、その治世は苛烈な側面を有しており、「万人恐怖シ、言フ莫レ、言フ莫レ」と評されるものであった。
 嘉吉元年(1441)、持氏遺臣らが持氏の遺児を擁して起こした結城の乱を平定、義教は得意絶頂を迎えた。ところが、播磨守護赤松満祐の催した結城合戦勝利の祝宴に招かれ、宴たけなわのところで殺害されたのであった。満祐は有力守護大名が次々と粛清されるのをみて、いつか自分の番がくるものと思い悩んでおり、祝宴にかこつけて義教を亡き者にしようと企んでいたのであった。
 この嘉吉の乱によって、義教が確立した将軍権力と幕府政治は瓦解、以後、室町幕府体制は弱体化の一途をたどることになる。しかし、カタチはともあれ義教の尽力によって、室町幕府の命脈が長らえたことも見逃せない歴史的な事実であろう。


応仁の乱、勃発

 義教の横死で、将軍には嫡男でわずか九歳の義勝が就いたが、在位わずか八ヶ月で病死してしまった。その結果、弟の義政が将軍職についたが、八歳の幼い将軍であった。嘉吉の乱による政治混乱と、幼い将軍が続いたことは、朝廷や有力守護大名の幕政介入を招き、将軍権力を大きく動揺させずにはおかなかった。
 やがて成人した義政は将軍として幕政にあたるようになり、鎌倉公方足利成氏の起こした争乱(享徳の乱)に介入した。しかし、三魔と呼ばれた乳母の今参局・烏丸資任・有馬持家ら、将軍家政所執事であった伊勢貞親、さらに正室日野富子の実家日野氏ら側近の政治介入を許し、次第に義政の実権は無実化していった。そのようななかで、義政は守護大名の家督相続に介入したが、管領細川勝元らによって意のままにはならず、ついには政治への情熱を失っていった。
 やがて隠居を考えるようになった義政は、男子がなかったため、弟で僧籍にある義尋を還俗させて後継とした。義尋は兄も申し出を何度も断ったが、ついに折れて義視と名乗ると幕政に関心を示すようになった。ところが、寛正六年(1465)、義政の正室富子に男子が生まれたことで、事態はにわかに波乱含みとなった。富子はわが子を将軍職に就けようとして幕府実力者山名宗全を頼み、一方の義視は管領細川勝元を頼んだため、将軍職継嗣問題は容易ならざる局面をむかえた。ところが、将軍義政はこの問題に対して無関心を貫き、文化的趣味に耽溺するという体たらくであった。
 この将軍継嗣問題に加えて、かねてより家督相続で揺れていた畠山氏と斯波氏の内訌が加わって、応仁元年(1467)応仁の乱が勃発したのである。戦いは細川勝元を頼む畠山政長が陣する上御霊神社を、山名宗全を後ろ盾とした畠山義就が攻撃したことで始まった。以後、応仁の乱は京都を舞台に十一年にわたってつづき、日本全国は収拾のつかない戦国時代へと突入していった。

応仁の乱が勃発した上御霊神社の森【左】と勃発の碑【右】


 義政のあとを継いで将軍職に就いた義尚は、応仁の乱後、衰退した幕府権力の回復を狙って、積極的な幕政改革を行なった。長享元年(1487)、公家・神社・奉公衆領を押領して将軍の返還命令も無視する近江守護の六角高頼を討伐するため出陣した。高頼は幕府の大軍を前に逃亡、義尚は押領されていた所領を回復した。しかし、高頼のゲリラ戦に悩まされ、近江での長陣を余儀なくされた義尚は次第に酒色におぼれるようになり、ついに長享三年近江鈎(まがり)の陣中で病死してしまった。享年二十五歳という若さであった。


将軍、受難

 男子のなかった義尚のあとは、かつて将軍職の座を義尚と争った叔父義視の子義材が継いだ。義材は前管領畠山政長の支援を得て、将軍親政の復活を意図した。延徳三年(1491)、近江六角氏征伐の陣を起こして一定の成果をあげたが、管領細川政元は義材の政策に批判的であった。明応二年(1493)、畠山政長の要請を入れて河内の畠山義豊討伐の陣を起こした。ところが、その留守を突いて細川政元がクーデタを起こした。この政変に敗れた義材は京に幽閉され、政長は戦死を遂げ、新将軍には義材の従兄弟義澄が擁立された。
 その後、京を脱出した義材は越中国に奔り、京都への復帰を狙って政長の子尚順と兵を挙げたが敗北、周防の大内義興を頼って没落した。かくして、幕府政治は政元が牛耳るところとなり、将軍義澄は将軍とは名ばかりの傀儡に過ぎない存在であった。
 政元は「四十歳ノ比マデ女人禁制ニテ、魔法飯綱ノ法アタコノ法ヲ行ヒ、」というような人物で、生涯女性を傍に寄せなかったため実子がなかった。そのため澄之、澄元、高国と三人の養子を迎えた。その結果、細川氏家臣団は澄之派と澄元派に分裂して対立するようになった。その煽りを食うカタチで、永正四年(1507)、政元は澄之派の香西元長らによって殺害されてしまった。政元の死を知った義尹(義材改め)は、将軍復帰を狙い、翌年、大内義興に擁立されて上洛した。これに細川高国も加担したため、敗れた細川澄元は将軍義澄を奉じて近江に奔った。
 こうして、将軍職に復活した義尹(のち義稙)は、細川高国を管領に、大内義興を管領代に任じて幕政を掌握した。しかし、細川高国の専横が目立ち始めると、義稙は和泉から淡路に奔って高国と対立した。そして、ついに京への復帰はならず、阿波国撫養において病没した。
 義稙のあと、将軍職は義澄の子足利義晴が高国に擁立されたが、すでに将軍としての実権もなく、享禄元年(1528)、高国が澄元の子晴元に敗れると朽木氏を頼って近江に落ち延びた。このころになると、日本各地には戦国大名が輩出して、それぞれ武力をもって支配地を拡大、独自の領域支配を行うようになった。そのようななかで、義晴は各地を流浪し、その権威はまったく地に墜ちてしまった。


打ち続く乱世

 政元の死後、泥沼の抗争を続けた管領細川一族であったが、ついには家宰の三好氏に取って代わられ、三好長慶が畿内の実力者として台頭した。繰り返される下剋上は、確実に将軍の権威を有名無実化し、幕府体制は崩壊寸前であった。義晴のあとを継いだ義輝は、将軍権力の回復を目論んで、三好長慶との抗争を続けた。一時期、近江守護六角氏の支援を得て京を回復して優勢を保ったが、強大な三好氏の軍事力に敗れて京から出奔した。その後、義輝と長慶に間に和議が成立して京に復帰、幕府権力の復活に尽力した。
 永禄七年(1584)、三好長慶が病死すると、義輝はさらに精力的に政治活動を展開した。しかし、このような義輝の存在は長慶死後の三好氏を牛耳る松永久秀と三好三人衆にとっては邪魔でしかなかった。翌永禄八年五月、久秀と三好三人衆は三好義継とともに挙兵。義輝の居城である二条御所を襲撃した。義輝は上泉信綱直伝の剣豪将軍であり、みずから刀を振るって奮戦したものの、衆寡適せず乱戦のなかで討ち取られてしまった。
 義輝を討ち取った松永久秀らは足利義栄を将軍に擁立、永禄十一年(1568)二月、将軍宣下を受けた義栄は京へと向かった。一方、義輝の弟覚慶は興福寺一乗院を脱出し義昭と名乗って、近江の六角氏、若狭の武田氏、越前の朝倉義景のもとを転々としながら、将軍家再興を目指した。しかし、いずれも思うにまかせず、ついに織田信長の許に身を寄せた。かくして、義昭は織田信長の援助を得て永禄十一年九月に上洛した。これに対して義栄と三好一党は摂津に陣を布いてこれを迎え撃ったが、義栄はその陣中であっけなく病死してしまった。こうして、義昭が晴れて室町幕府の第十五代将軍となった。
 しかし、将軍権力を行使しようとする義昭と「天下布武」という野望を秘めた信長の間は円満を欠くようになった。やがて、義昭は信長を排除しようと企み、本願寺顕如や武田信玄、上杉謙信、毛利元就、浅井長政、朝倉義景などに信長討伐令を下し、信長包囲網を形成した。この義昭の策により信長は窮地に陥ったが、天正元年(1573)上洛途上の信玄が急逝したことで、事態は信長の優勢へと変化していった。信玄の上洛に呼応した義昭は信長打倒の兵を挙げたが、信玄の死によってあっけなく敗れ、京都を追われ室町幕府は滅んだ。
………
写真:義輝が奮戦の末に討死した旧二条城跡の碑


足利氏の没落

 信長によって京都を追放された義昭は、毛利氏領内の備後鞆に亡命し、そこから信長打倒を目指して諸大名に討伐令を下し続けた。天正十年(1582)本能寺の変で信長が横死、その後、豊臣秀吉天下人になると、義昭は出家して秀吉の側近として仕え一万石を与えられたという。「公卿補任」によれば、天正十六年(1588)一月まで義昭は征夷大将軍の地位にあったことが知られるが、すでに天下人とは程遠い存在であった。秀吉が起した文禄・慶長の役に際しては、肥前名護屋まで参陣したことが知られる。
 義昭は大坂で没したといい、その死をもって足利氏嫡流の歴史的使命は終えたといえよう。義昭には数人の男子があったようで、義尋は信長の人質となったあと出家して興福寺大乗院門跡を継ぎ、義在は薩摩の島津氏を頼り永山姓を名乗ったという。また、義喬は会津藩を頼って坂本姓を名乗ったと伝えられている。

■ ■ ■

 室町将軍家とは別に、関東の支配を委ねられた鎌倉府の主に鎌倉公方家があった。尊氏の子基氏に始まり持氏の代に一旦滅亡、持氏の遺子成氏が再興した。その後、享徳の乱を起こした成氏は、鎌倉から古河に居を移し古河公方と呼ばれた。以後、関東の戦乱に翻弄されながらも戦国時代を息抜いたが、天正十一年(1583)義氏の代に嗣なくして断絶した。
 天正十八年、古河公方家の断絶を惜しんだ豊臣秀吉が、義氏の娘と一族の国朝とを結婚させて、義氏の後を継がせた。国朝は下野塩谷郡喜連川に住み、秀吉の朝鮮出兵に応じて出陣、その途次の広島において急死した。そのあとを継承した弟の頼氏は、足利を改めて喜連川氏を称した。子孫は江戸幕府から五千石を与えられ、喜連川公方の尊称を受け十万石の格式で遇せられて明治維新に至った。維新後、喜連川姓を廃して足利姓に復している。・2006年06月18日 → 2008年08月26日

●鎌倉公方家 ●阿波公方家


■参考略系図
 


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