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吉川氏
●三つ引両/九曜
●藤原氏南家流
『見聞諸家紋』には、輪のない三つ引両が記載されている。
 


 吉川氏は本姓藤原氏で、南家武智麻呂の四南乙麿の後裔を称している。すなわち乙麿六代の孫藤原維幾は常陸介として東国に下向し、平将門の乱(天慶の乱=939)に平貞盛・藤原秀郷らと協力して将門を討滅する功を立てた。そして、維幾の子為憲は東国に定着し、子孫は伊豆・駿河・遠江地方に繁衍して工藤・伊東・入江氏らが分かれ出た。入江氏は為憲三世の孫維清が駿河国入江庄に住して入江を称したもので、吉川氏はこの入江氏からさらに分かれた一族である。
 入江維清の孫馬三郎景義の嫡男経義は入江庄吉河村に居住し、はじめて吉香または吉河を称した。吉川は吉香と書かれることが多く、また木河とか金河と書く場合もあり、すべて同じであるが、南北朝時代あたりから吉川に統一されるようになった。このように吉川氏の場合「よしかわ」ではなく、「きっか(わ)」と呼ばれるのが正しい。

吉香氏の勢力伸長

 吉香経義は源頼朝が鎌倉幕府を開いた初めから、その麾下に属して忠勤を励んだ。建久四年(1193)、経義が病死したのち小次郎友兼が吉香氏を継承した。友兼は駿河国第一の勇者と称され、かつて、頼朝の命によりこれも信濃一の勇者と称されていた井上光盛を討ちとった。さらに、文治五年(1189)の奥州合戦にも出陣して頼朝に忠勤を励んでいた。
 吉川氏を史上有名にしたのは、梶原景時一族が謀反を起し京都に向かった時、それを駿河の狐ケ崎に討ったことである。正治二年(1200)正月、相模国一宮に蟄居中であった梶原景時が幕府に逆意を企て、京都にのぼらんとして一族郎党を引き連れ一宮を出立した。これを察知した小次郎友兼は、一族の船越三郎・矢部小次郎・庵原小次郎などとともに途中狐ケ崎で待ち伏せ、激戦のすえに三十三人の首を取った。友兼は景時の三男で剛勇無双の武者景茂と戦い、死闘を演じて景茂を討ちとった。しかし、自らも重傷を蒙り、翌日名誉の戦死を遂げた。
 友兼の子朝経も父とともに狐ケ崎の戦いに参加しており、父の死後、吉香家を継承した。そして、亡父の功により梶原氏の旧領のうち播磨国揖保郡福井庄の地頭職に補任された。その子経光は「承久の乱(1221)」に北条氏に属して上洛軍に加わり、宇治橋の戦いにおける勲功により、安芸国大朝本庄の地頭職に補任された。吉香氏は経義、友兼、朝経、経光の四代の間に、駿河、播磨、安芸に地頭職を得て、その勢力を充実、拡大させることに成功したのである。
 文永四年(1267)、経光のあとを継承した経高は駿河国吉河村に居住していたが、遠隔地にある安芸大朝本庄の領地を治めることは容易ではなく、領主不在をよいことに大朝近在の豪族たちが、大朝庄を侵掠するようになった。経高は幕府に訴えて、豪族たちの侵掠を停止することに成功したものの、なお現地は不穏なものがあった。

吉香一族の繁衍

 経高は幕府の許可を得て、正和二年(1313)、駿河吉河村から遠く安芸の大朝本庄へ移住していった。大朝庄は吉田川が流れ、西北東は山に囲まれた要害の地であり、中央の盆地は肥沃な水田と良質の耕作地があった。経高が大朝庄への移住を決意したのは、この地が将来の発展を秘めたところであると思ったことが要因であったと思われる。しかし、鎌倉武士である経高であれば、鎌倉と京都間の交通の要衝の地であり肥沃な駿河平野を去り、さらに京都に近い播磨平野でもなく、不便な安芸の地を選んだのはいささか奇異な感を抱かせる。
 当時の幕府内では、ライバルをつぎつぎと倒していった執権北条氏の権勢がいよいよ強化され、ついには、北条氏の御内人(被官)が幕府政治を聾断するようになっていた。吉香氏のように幕府草創期以来の御家人にとっては、必ずしも居心地のよい所ではなかったようだ。経高は中央の影響を受けない安芸大朝庄が、吉香家の自家防衛の適地と考え移住したものであろう。この経高の決断により、吉香氏惣領家は代々大朝庄を本拠として安芸の有力国人に成長をしていくことになるのである。
 経高には四人の弟があり、長弟経盛は播磨国福井庄の地頭職となって播磨吉川氏の祖となり、二弟経茂は大朝庄内鳴滝村の地頭職となり、のちに石見国邇摩郡津淵郷の地頭職を得て石見吉川氏の祖となり、三弟経信は大朝本庄内の境・田原・竹原の地頭職となった。そして駿河国吉河村は末弟の経時が残って、駿河吉香の相続者になった。

戦乱の時代

 吉川氏惣領家は経高のあとを経盛が継承した。経盛のとき鎌倉幕府が滅び、建武の新政がなったが、それもほどなく崩壊して南北朝争乱の時代となった。経盛は建武二年(1335)後醍醐天皇に叛旗を翻した足利尊氏に味方して、一族とともに各地に転戦した。ついで、尊氏の弟直義に属して、石見地方の南朝方と戦った。
 一方、惣領経盛の指揮に従わず南朝方に味方する一族もいた。経盛の弟経長は後醍醐天皇の綸旨を奉じて、伯耆国船上山に馳せ参じ周防国新寺合戦に奮戦した。その子実経は新田義貞の御教書を奉じ、九州に敗走した尊氏方残党の討伐に活躍している。また、経盛の従兄弟経兼と経見の父子は南朝方に帰順し、「観応の掾乱」に際しては直義方に味方して尊氏方の経盛には従わなかった。経兼・経見父子は安芸・長門方面で活躍し、後村上天皇から経兼は駿河権守、経見は左衛門尉に任命されている。
 このように吉川一族は一枚岩として行動できなかったことで、にわかに勢力を弱体化させることになった。しかし、経盛のあと惣領家を継いだ経秋は男子に恵まれなかったため、経見を女の婿に迎えて家督を相続させた。かくして吉川家惣領となった経見は、自領に加えて惣領家の領地を併せたことで、吉川氏の支配領域は拡大され、その基礎も確立されることになったのである。
 やがて経見は幕府方に転じ、九州探題今川了俊に属して九州に出征し、文中元年(1372)、筑前多良倉・鷹見両城の攻撃に参加、ついで小倉・宗像に転戦、さらに天授二年(1376)には高良山合戦に参加するなど、数々の戦場で多くの功を立てた。これに対して、将軍義満は大朝本・新両庄と平田庄の地頭職および石見国永安別府一分地頭職に補任した。かくして経見は新庄の地に本拠を構え、小倉山上に小倉山城を築き、吉川氏の新庄時代の基礎を確立した。
 経見のあとは経信が継ぎ、永享七年(1435)大内持世に従って九州に出陣、豊後国立石城で大友氏の軍と戦ってこれを破り、同十一年の山門合戦、翌十二年の大和国の乱に参加して功を立てた。嘉吉元年(1441)、播磨守護赤松満祐が将軍義教を殺害した「嘉吉の乱」が起こると、播磨国に出陣して赤松軍と戦い人丸塚の戦いで功を立て、新将軍義勝から感状と吉光の太刀を賜った。その後、若狭にも出陣して一色氏の残党を掃討、恩賞として丹波国志摩庄を受領した。
 つぎの之経は、武田信賢と大内氏が戦ったとき、将軍義政の命により信賢を支援して感状を受領している。このように、経信・之経父子は幕府の命によって出陣し、将軍の権威を背景として所領の安泰を図ったのである。

中興の主、経基

 之経のあとを継いだのが「鬼吉川」の異名をとる経基であった。経基は体格強健、勇猛胆略に富むばかりでなく、文学を愛好し、和歌発句にも造詣の深い文武兼備の武将であった。
 寛正元年(1460)、幕府の実力者畠山政長と一族畠山義就が対戦したとき、経基は将軍義政の命によって政長を援け、翌年、山名是豊に従って出陣し、義就の軍と河内国で戦って功を立てた。ついで、「応仁の乱(1467)」が起こると、細川勝元率いる東軍に属し、西軍の山名宗全の軍と京都各地で戦い勇名を轟かした。
 経基は応仁元年(1457)九月に一条高倉の合戦、十月に武者小路今出川合戦、北小路高倉合戦、鹿苑院口の合戦などにおいて奮戦し、翌年、他家の有となっていた播磨国福井庄を恩賞として還付された。ついで、同年八月、勝元に従って西軍の大将畠山義就軍と京都相国寺跡で交戦した。戦いは義就方の優勢となり、勝元軍からは逃亡者が続出した。そのようななか経基は、部下を励まして陣地を堅守しつつ義就軍に反撃を加えた。経基は身に数多の傷を受けたるを意に介さず、部下の死傷も顧みず、奮闘勇戦してついに義就軍を撃退した。
 この経基の奮戦と勇武に感じた時のひとびとは「鬼吉川」と呼び、またあまりの傷痕の多さから「まないた吉川」とも称したといわれる。「まないた」とは、何ともものすごい異名ではないか。
 やがて、応仁の乱の影響は日本全国におよび、世は戦国時代へと推移していった。備後国内においては和智・宮・山内氏らの国人勢力が東軍の山名是豊を攻めたため、経基は将軍義政の命により、是豊を援けて国人らを撃退した。この功に対して義政は、石見国佐磨村、安芸国の寺原郷・有馬名・北方村・河合名などの地を給与した。かくして、吉川氏の領邑は山県郡の東北、可愛川流域の大半を包括するようになった。その後、文明十四年(1482)経基は幕府の命を奉じて河内に出陣し、長享元年(1487)には播磨守護赤松政則の要請により、播磨に出兵して坂本で奮戦した。
 経基は勇猛果敢な武将であるとともに、文学を愛し、書道にも堪能であった。吉川家には経基自筆の『古今和歌集』『年中日発句』『拾遺和歌集』などの諸書がいまも伝えられている。経基はまた禅学にも通じ、東福寺の僧虎関の編んだ『元亨釈書』を愛読し、五山の僧らとその内容に対してしばしば議論を交えたこともあった。家督を国経に譲って隠退した経基は、永正十七年(1520)、九十三歳の天寿をまっとうして世を去った。

吉川氏と戦国時代

 経基から家督を譲られたとき、国経はすでに五十七歳であった。永正四年、前将軍義稙を奉じて大内義興が上洛の軍を起こしたとき、国経も中国・九州の諸将とともにこれに随従して都に上った。永正八年八月、船岡山の合戦に子の元経とともに参加し、父子ともに奮戦して功を立てた。やがて、元経に家督を譲って隠退した。国経の女は毛利元就に嫁いで、隆元、のちに吉川氏を継ぐ元春、小早川氏を継いだ隆景らを生んでいる。
 大内義興の上洛軍のなかには尼子経久、武田元繁らも加わっていたが、経久は京から出雲に帰ってみずからの勢力拡大を図るようになった。一方、同じく上洛していた厳島神主が病死したことで家督相続の内紛がおこり、安芸国は不穏な情勢となった。義興は元繁を帰国させ、安芸の争乱を鎮圧させようとした。ところが、帰国した元繁は自己の勢力拡大につとめるようになり、永正十二年、有田城を攻撃した。このとき、吉川元経は毛利興元らと協力して有田城を援け、元繁の軍を撃退した。有田城は元経に与えられたため、元経は小田刑部を城将としてこれを守備させた。
 その後、毛利興元が死去して幼い幸松丸が毛利氏の家督を継承すると、永正十四年、これに乗じて武田元繁が熊谷氏らとともに山県郡に侵攻してきた。武田軍は有田城を攻撃し、元経は毛利元就と協力して武田軍を迎え撃ち、熊谷元直を討ちとり、ついで大将武田元繁を討ちとる大勝利を得た。
 このころになると、出雲の尼子経久が山陰から山陽に勢力を拡大し、吉川氏は地理的な位置、姻戚関係もあって大内氏から尼子方に転じ、尼子氏に大内方の動静を報告するとともに、毛利氏を尼子方に結び付けようとつとめた。ところが、大永二年(1522)元経は父国経に先だって死去してしまった。
 元経が死去したのち、国経が若い興経の後見役となった。大永五年、元就が大内に服属したことで毛利氏とは敵対関係になってしまった。しかし、尼子氏の郡山城毛利攻めが失敗した時点から吉川氏も大内方となり、次第に毛利氏との連携を強めていった。やがて一人立ちした興経は、大内氏の月山城攻撃中に再び尼子方に転じ、大内方敗戦の一因をつくった。毛利氏にとって吉川氏の向背は存亡に関わるものであり、元就は興経に不満を持つ吉川経世などに働きかけて興経を隠退させると、自分の子元春を養子として送り込むことに成功した。

吉川氏、近世へ

 元春の吉川氏継承は、一見平和裏にことが運ばれたかにみえたが、元春が吉川の家を継いで三年後の天文十九年、元就は興経と幼い興経の子千法師を殺害している。これは、いまだ壮年の興経と千法師の存在が将来の禍根になると判断して謀殺したのである。このようにして、安芸・石見国境地帯に勢力を持つ吉川氏は毛利一族となり、以後、吉川元春は、小早川氏を継承した隆景とならんで毛利両川と呼ばれるようになるのである。
 吉川元春は主に山陰方面の軍事を担当し、一時は京都に迫る勢いをみせた。しかし、天正九年(1571)織田信長の部将羽柴秀吉に鳥取城を落され、翌年には毛利氏が備中高松城下で羽柴秀吉と講和を結んだ。元春はこの講和に対して反対の姿勢を示したというが、小早川隆景の主導で毛利氏は秀吉と和を結んだのである。この年、元春は家督を嫡子元長に譲って隠退したが、信長をのあとを継いだ秀吉は天下統一を大きく進めやがて豊臣政権が発足したが、元春は秀吉に好意を持っていなかったようだ。
 天正十四年、豊臣秀吉の九州征伐が開始されると、元春は秀吉から強く出陣要請を受け、やむをえず出陣したが小倉の陣で病死した。元春のあとを継いだ元長は、永禄八年(1565)の富田城総攻撃に初陣し、以後、父元春とともに山陰地方の軍事を担当した。元春から家督を譲られてからは天正十三年の四国の役に出陣、ついで父元春とともに九州に出陣した。そして、元春が死去した翌年、日向国都於里において病没した。元長のあとは二弟の広家が継ぎ、隠岐・出雲・伯耆・安芸で十一万石を領し、出雲富田城に住した。

家紋画像 岩国城
【吉川氏が築いた岩国城】<城は広家が慶長六年(1601)より七年を賭けて築いたが、それより七年後の元和元年(1615)、一国一城令によって破却されてしまった。現在のものは復興天守として蘇ったものである。 ●岩国城のページ
【家紋画像:近世吉川氏の用いた九曜紋】

 元春と元長の父子は硬派の武将であったが、いずれも文人的性格を持ち合わせていた。元春は軍事多忙な出雲の陣中で『太平記』四十巻を書写し、いまも吉川家に伝来している。元長は仏書・文学書類を手広く収集・書写・校合し、戦場にも書物を携帯してまわりの諸将にも貸与した。また先祖経基が書写した和歌や連歌の書に補修を加え、禅僧らと交わり宗教面での研鑽も怠らなかったと伝えられている。
 慶長五年(1600)の「関ヶ原の戦」において、毛利輝元は西軍の盟主にかつがれたが、徳川家康の勝利を予測した広家は家康に誼みを通じ、毛利宗家の存続を図ろうとした。戦後、毛利氏は改易こそまぬがれたが、徳川氏の処置は厳しく、防長二国を安堵されるにとどまった。広家は、そのうち岩国三万七千石を与えられ、吉川氏は岩国藩主として続くことになったのである。・2005年3月15日

【資料:岩国市史/戦国大名系譜人名事典/萩藩諸家系譜 ほか】

探究毛利氏



■参考略系図
 


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