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陶 氏
●唐花菱
●周防大内氏支族
陶盛政が開基となって創建した陶氏の菩提寺竜文寺、陶弘政が開いた正護寺には「大内菱」を刻した瓦が葺かれており、陶氏は大内氏と同じく「大内菱」を家紋としていたと考えたい。


 中国地方の戦国大名大内氏を下剋上で倒した陶氏は、大内氏の一族であった。大内氏は百済の聖明王の子琳聖太子が周防国多々良浜に着岸し、その子孫が同国大内村に住み、以来、姓を多々良、氏を大内としたといわれている。しかし、これは創作された伝説であり、大内氏の出自は周防権介を世襲した在庁官人であったようだ。
 大内氏のことが歴史の上ではっきりしてくるのは、平安時代末期になってからである。仁平二年(1152)八月一日付の「周防国在庁下文」に、多々良氏三人、賀陽氏二人、日置氏二人、矢田部氏、清原氏の九仁が在庁官人として連署している。これに多々良氏三名の名前があるのは、この頃すでに周防国内で大きな勢力に成長していたことを示すものであろう。
 多々良の名は、養和二年(1182)の「野寺僧弁慶申状案」や、文治三年(1187)の「周防国在庁官人等解状」にも見えている。以上のことから、多々良氏は源平争乱期を生きた盛房のころには、在庁官人として最高の地位を占めていたとみられる。
 大内氏は盛房・弘盛の代に、一族を周防国府周辺の要地に配して在地領主化させ、本拠地の吉敷郡大内を中心に勢力を拡大していった。吉敷郡の宇野・吉敷・問田・黒川・矢田の各氏、都濃郡の鷲頭・末武氏、佐波郡の右田氏らで、陶氏は右田氏からさらに分かれた大内庶流であった。

陶氏の出頭

 陶氏は周防国佐波郡右田村に居住して右田氏を名乗った盛長の孫盛俊の二男弘賢が、吉敷郡陶村に住んで陶を名字としたことに始まる。これが陶氏の発祥に関する定説だが、初代の弘賢は定説のとおり盛俊の二男であったのか、盛俊の嫡男弘俊の二男であったのか意見が分かれている。
 弘賢の子弘政は陶村より周防国都濃郡富田保に移って若山城を築き、以来そこが陶氏累代の居城となった。陶氏はそこの地頭職として次第に実力をつけ、有力在地領主へと成長していった。弘政の名は貞治四年(1365)の年号のある棟札にその名が見えることから、十四世紀の後半に活躍していたことが知られる。すでに、南北朝争乱時代には大内氏の有力家臣であったことは疑いをいれない。
 とはいえ、初代の弘賢から最後の晴賢までの家督の順序、兄弟間の輩行(順番)など、不明な点が多い。陶氏の本家である大内氏も、陶氏みずからも戦国乱世のなかで滅亡したことから、いまに伝わる系図に不備な点が多く、それが陶氏(大内氏も含めて)の事蹟を分かりにくいものにしていることは否めない。
 さて、弘政の子弘長は応永八年(1401)に長門守護代に任じられ、さらに弘長の孫盛政の代、永享四年(1432)に周防守護代となった。周防は大内氏にとって本拠であり、陶氏が周防守護代に任じられたことは、大内氏家中における重臣筆頭の地位を確立したことを意味するものでもあった。以来、周防守護代の職は陶氏が世襲した。

大内氏への誠忠

 陶氏が仕えた大内氏は、長弘が建武の新政下で周防の守護に任じられ、ついで足利尊氏に属して長門守護も兼ね、防長両国の守護職を兼ねる勢力に成長した。南北朝時代末期の義弘の代になると、周防・長門・石見はもとより、豊前・和泉・紀伊の六ケ国の守護職を兼ねる大勢力にのし上がった。しかし、義弘は足利義満の謀略によって、応永の乱を起こし敗死してしまった。
 義弘のあとは弟の盛見が継ぎ、盛見は九州探題渋川氏を支援して北九州に進出したが、永享三年(1431)、少弐・大友の連合軍と戦って討死してしまった。盛見の死後、義弘の子持盛と持世の間で家督相続をめぐる争いがあり、持世が持盛を滅ぼして家督を継いだ。ところが、持世は赤松満祐が将軍義教を殺した嘉吉の乱の巻添えで重傷を負い、死んでしまった。その跡は盛見の子教弘が継ぎ、その子政弘のとき「応仁の乱」が勃発したのである。
 応仁の乱に際して政弘は、西軍の中心勢力として京都に滞在し活躍した。盛政の子弘政は政弘に従って在京し、東軍との戦いで戦死した。そのあとは、右田家を継いでいた弟の弘房が陶氏を継いだが、弘房もまた応仁二年(1468)の戦いで戦死してしまった。そのあとは、弘房の嫡男弘護が継いだが、十三歳という若さであった。
 大内政弘は西軍の重鎮として京都に常駐していたため、領国の支配がおろそかになりがちであった。その留守をあずかって山口に滞在していたのが弘護で、若冠ながらも筑前守護代に任じられるなど、政弘の留守をよくつとめていた。ところが、文明二年(1470)、大内氏の家督相続問題に不満をもっていた政弘の叔父教幸(道頓)が東軍に通じて反乱の兵を挙げた。道頓は弘護を味方に誘ったが、弘護はそれをきっぱり断わると、ただちに討伐軍を率いて出陣、道頓の軍を撃ち破った。さらに、道頓軍を追撃して九州に追い落し、文明三年、道頓をを自刃に追い込んだ。
 道頓の失敗は弘護を若僧とみくびった結果とはいえ、大内政弘の留守を預かって、よくその任をまっとうした弘護もなかなかの人物であったといえよう。文明九年、政弘は京都から帰国すると、弘護の留守中の功を賛え、以後、弘護は政弘の君側に仕え、筑前守護代として少弐氏追討などに活躍した。

陶氏の混乱

 文明十四年、石見国津和野の領主吉見信頼が大内を訪ねて山口にやってきた。政弘は宴を催して信頼を歓待したが、その席上で弘護は信頼との間に隙を生じて、両者ともに死去してしまった。弘護は二十八歳の若さであり、政弘はもとより、弘護の死を惜しまぬ人はなかったという。
 信頼は大内教幸が謀叛を起こしたとき、教幸に味方して陶弘護らと戦った。その後、大内氏とは敵対関係にあったが、麾下に属すことを許され、十四年、山口に招待されたのであった。一方、陶氏と吉見氏との間に所領をめぐる紛争があった。陶氏は周防国富田保の地頭職に補任されてそこを本拠とし、次第に周辺の公領や私領を浸食し、ついには佐波郡徳地をめぐって吉見氏と対立に至った。政弘は弘護に味方して吉見氏討伐の兵を出し、陶氏一族は政弘が兵を引いたあとも吉見氏の所領内で違乱行為をしたため、吉見氏は幕府に訴え出るということもあった。
 それらのことがあいまって、弘護と信頼との刃傷となり、弘護は早世してしまった。弘護には三男一女があったが、いずれも幼年であり、弟で右田氏を継いでいた弘詮が推さない兄弟を後見する形で陶氏の家督となった。
 やがて長享二年(1488)になると、弘護の長男武護が陶氏の当主となったようだが、延徳四年(1492)、京都において出奔してしまった。その結果、弟の興明が継いだ。ところが、行方知れずになっていた武護が周防にあらわれ、興明を討ちとってしまった。兄弟の争いは「富田合戦」とよばれるが、原因など事件の詳細は不明な点が多い。ただ、武護、興明の死によって三男の興房が若冠十四歳で陶氏の家督を継承した。
 永正三年(1506)、興房は周防守護代の地位にあった。これは、陶氏が一連の騒動から立ち直り、大内氏筆頭の重臣の地位に返り咲いていたことを示している。

大内氏の柱石、興房

 興房は大内義興に仕え、その股肱の臣として大活躍し、大内氏の勢力拡大に貢献した。永正五年、義興がかねてより庇護していた前将軍足利義稙を奉じて上洛の軍を起こすと、興房もこれに随従して細川・三好軍と戦った。永正八年の船岡山合戦には、先陣となって奮戦、大内軍に勝利をもたらした。
 大永四年(1524)、大内義興が嫡男義隆とともに尼子方の安芸武田氏を撃つために出陣したとき、興房(道麒)は義隆の後見となり銀山城を攻撃した。このとき、尼子方に属していた毛利元就は、銀山城救援に出陣、大内軍は元就の夜襲によって散々な敗北を喫した。敗れた興房は、元就の名将ぶりに感動し、義興に毛利氏抱き込み工作を進めて、ついに元就を大内方に転じさせることに成功している。
 享禄元年(1528)、大内義興は臨終の床で、興房に大内氏の後事を託し、嫡男義隆の補弼を依頼した。義隆が二十二歳で家督を継承すると、興房は義興の遺言を守って若い義隆を支えて、大内氏の威勢を落すことはなかった。義隆は北九州経営に意欲的で、抵抗する少弐氏、それを支援する大友氏との対立を深めていった。享禄三年には、筑前守護代杉興運が少弐氏を攻めたが、龍造寺氏らの活躍で敗戦を蒙った。ついで田手畷の戦いに勝利をおさめた少弐氏は杉興運を攻略して太宰府に乱入した。
 天文元年(1532)、興房は義隆の命を受けて二万三千の兵を率いて九州に出陣、豊前で大友軍と戦った。ついで、筑前守護代杉興運、豊前守護代仁保隆重らとともに筑前に入り、大友方の諸城を攻略した。そして、天文三年、勢場ヶ原において、大友軍と戦い大友方の大将吉弘氏直・寒田親将を討ちとる勝利をえたが、新手の大友勢の登場で苦戦となり、ついに敗れて周防に逃げ帰るという一幕もあった。
 その後も興房は義隆の重臣として、九州・中国の各地を転戦し、少弐氏、尼子氏、大友氏らの攻勢から大内氏を支え、その領国体制にほころびを生じさせなかった。残された記録などによれば、興房は寡黙な人柄で、文武を兼ね備え、和歌や連歌にも精通し、公家の飛鳥井雅俊や連歌の宗碩らとも交流があった。
 やがて、戦陣に明け暮れた興房は病を得て、天文八年(1529)四月、四十代後半の壮年で死去した。

晴賢の謀叛と滅亡

 長男興昌はすでに戦死していたため、二男の隆房(のち晴賢と改名)が十九歳の若さで家督を継ぐことになった。隆房は父祖以来の周防守護代という大内家中における地位と、もちまえの軍略とによって、大内氏家臣団におけるぬきがたい勢力を作り上げた。しかし、義隆が右筆の相良武任らを重用するようになって、次第に文弱に偏るようになったことから、両者の間には不穏な空気が流れるようになった。天文十九年、隆房は大内氏譜代の家臣杉重矩・内藤興盛らと謀って、富田若山城に引籠ってしまった。そして翌二十年、隆房は義隆の姉の子で、大友宗麟の弟大友晴英を主君に迎えるように取り計らうと、山口の大内邸を攻撃したのである。義隆は長門の深川大寧寺で自刃し、大内氏の当主に迎えられた大友晴英は大内義長と改めて山口に入った。
 かくして、陶晴賢の下剋上は成功し、表面上は義長を立てながら大内氏の実権を掌握した。クーデターを起こしたとき、晴賢は毛利元就にも支援をたのみ、元就も消極的ながら晴賢に味方して大内義隆を見殺しにしたようだ。その後、毛利元就は着々と勢力を拡大し、晴賢は毛利氏が強大化することを危惧するようになった。そして天文二十二年、旗返城をめぐって両者の間にk感情的対立が起こった。その折もおり、津和野の吉見正頼が晴賢討伐の兵を挙げ、元就にも協力を要請してきた。
 このころ、晴賢の勢力は強大であり、元就は吉見氏の依頼を受けるか、晴賢に応じて吉見氏を討伐するか悩みに悩んだ。これをみた晴賢は、毛利氏内部への調略を行い内部崩壊をもくろんだ。これを知った元就は、ついには晴賢と対立する道を選んのである。かくして、陶氏と毛利氏との間で戦いが繰り返されるようになり、弘治元年(1555)、元就と晴賢は厳島を舞台に決戦を行った。戦力的には陶方が圧倒的に有利であったが、元就ては謀略・知略をかたむけて、陶方の切り崩しを行い、大軍を動かしにくい厳島に陶軍を上陸させることに成功した。
 このとき、元就の策を見抜いた陶方の将弘中隆兼は、晴賢に厳島に渡る不利を説いた。しかし、元就は隆兼が毛利に通じているという噂を流しており、晴賢は隆兼の進言を受け入れなかったという。こうして、晴賢は二万の大軍を厳島に上陸させた。一方の毛利軍は嵐をついて兵を島に上陸させ、海からは村上水軍の協力を得て厳島に攻め寄せた。海陸から同時に討って出た毛利軍によって、陶軍は大混乱となり、乱戦のなかで晴賢は自刃し、嫡子長房も自殺してはてたのである。陶晴賢は享年三十五歳の壮年であった。
 晴賢は武将としての力量はあったようだが、それは大内氏の重臣としてのものであって、独立した戦国大名になるだけの力(運も含めて)には恵まれていなかったといえよう。陶晴賢と毛利元就とは親子ほどの年齢差があり、老獪な元就の謀略に若い晴賢は翻弄された末に敗れ去った。また、主君を裏切ったことで人が信じられなくなっていたのであろう。
 ところで、弘中隆兼は子の中務丞とともに厳島神社の社殿近くで奮戦、さらに龍馬場近くの山に拠って毛利軍に三日間にわたって抗戦、ついに力つきて討死した。・2005年03月19日
………
陶氏が毛利氏に敗れた厳島

参考資料:山口県史/宇部市史/九州戦国史 ほか 】



■参考略系図


●右田氏系図

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