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小早川氏
●三つ巴
●桓武平氏良文流
 


 小早川氏は、源平合戦に活躍した土肥実平の後裔と伝えられる。土肥氏は桓武平氏平良文流で、相模国土肥郷から発祥した。良文は村岡五郎と呼ばれ、三浦・大庭・長尾の諸氏が分かれた。土肥氏の祖となる中村氏もそのひとつで、三浦半島を拠点とした三浦氏と並ぶ有力武士で、国衙の在庁官人であった。
 宗平は中村郷を中心として周辺の荒野を開拓し、それらの開発地に自分の子供たちを入れて開発を推進した。本領の中村郷は嫡男が受け継ぎ中村太郎重平と名乗り、それ以外の子、土肥次郎実平・土屋三郎宗遠・二宮四郎友平・堺五郎頼平らが、それぞれ分け与えられた開発地に屋敷を構え、名字の地として発展していったのである。
 治承四年(1180)、源頼朝が挙兵したとき、土肥次郎実平が中村一族を率いて石橋山の合戦に参加し、以後、富士川の合戦、常陸出兵などに従軍して頼朝から厚い信頼をえた。そして、平氏が壇の浦で滅亡してのち、元暦元年(1184)には備前・備中・備後三ケ国の守護に任ぜられ、播磨・美作の守護に任ぜられた梶原景時とともに、平家敗走後の西国支配の責任者となった。

小早川氏の発祥

 その間、実平の嫡男遠平も父と行動をともにし、よく父を補佐した。挙兵以来、父子ともに頼朝に忠節をつくしたことで、頼朝の側近として重要な場面で活躍した。しかし、平氏打倒の戦に大きく貢献したことで有頂天になった実平・遠平父子は、西国でさかんに荘園侵略を行い、いままで平氏=貴族に押さえ付けられていた鬱憤を晴らした。その結果貴族に訴えられ、頼朝も行き過ぎた父子の行為を許容することはできず、土肥氏は西国で与えられた所領や権限を次第に失っていき、最後まで残った所領は安芸国沼田荘地頭職だけとなってしまった。
 実平のあとを継いだ遠平は土肥弥太郎を称していたが、実平の晩年のころには小早川弥太郎として『吾妻鏡』に登場している。小早川は早川荘のうちの地名とみられており、遠平は早川荘を頼朝から与えられ、そこの支配に力を注いで、土肥氏の新しい拠点としようとしたことを、名乗りは示しているといえよう。いわば遠平は、土肥氏と小早川氏という二つの顔をもっていたことになり、その二つの顔は遠平の二人の子に一つずつ受け継がれた。
 遠平には惟平という実子がいたが、頼朝と同じ清和源氏の血をひく平賀義信の子を養子とし景平と名乗らせていた。惟平は土肥千次郎を称し、嫡男として本領土肥郷を受け継いだ。一方、景平は小早川の名字と安芸国沼田荘を譲り受けた。こうして、土肥氏の庶流として小早川氏が独立し、やがて安芸国に本拠を移し、その遠い後裔に小早川隆景が登場することになる。
 正治元年(1199)頼朝が亡くなると、幕府草創期に活躍した御家人たちと、幕府の実権を掌握しようとする北条氏との間に確執がおこり、それは対立、合戦へと発展することが多かった。その結果、梶原景時・畠山重忠.比企能員らの有力御家人が滅亡していった。建保元年(1213)に起きた「和田合戦」もその一連の流れに位置付けられるものであり、この乱に、土肥惟平は和田方として参戦した。しかし、合戦は和田方の敗北に終わり、土肥一族は大きな挫折に見舞われた。幸いなことに、惟平の父遠平はこの合戦に関与しなかったため、本領の土肥郷と安芸国沼田荘は没収から逃れた。
 かくして、土肥氏は実平以来三代で幕府内における地位と力を決定的に失ってしまったのである。

安芸に土着する

 景平は嫡子茂平に沼田本荘、二男の季平に沼田新荘、三男景光に相模国成田荘内の飯泉郷、四男の時景に小松を譲った。安芸国沼田における小早川氏の足跡は、茂平の代から明らかになってくる。茂平は左衛門大夫を称して、沼田荘の要地である古高山に城を築いた。
 承久三年(1221)に起った「承久の乱」に際しては、沼田荘の隣荘である都宇竹原荘と内海にうかぶ生口島の公文は下司たちが京方に加わろうとして上京の準備をし、さらに両荘の領家がともに京方の味方であると幕府に告発し、乱ののちに都宇竹原荘の地頭職に補任された。これにより、小早川氏の勢力基盤は一段と充実した。そして、茂平は幕命によって京都に常駐し、市内の警備や六波羅探題の警備を任務とする「在京奉行人」に任じられていた。
 茂平は長男経平に沼田本荘船木郷を、三男政景に都宇竹原荘を、三男忠茂に信濃国赤川邑を譲与し、沼田本荘の主要部は二男で嫡男の雅平にそれぞれ譲与した。これにより、経平が船木氏、政景が竹原小早川氏、忠茂が赤川氏のそれぞれ祖となり、のちに竹原小早川氏は惣領沼田小早川氏と対立する勢力となる。
 雅平のあと朝平、宣平とつづき、貞平のとき元弘の動乱に遭遇した。貞平は北条氏に味方して討幕勢力と戦い、六波羅が陥落したのち探題とともに近江国番場まで走ったところで、探題一行と分かれて安芸に帰国した。一方、竹原小早川氏では景宗が所領問題による北条氏への恨みから、足利尊氏が反北条の挙兵をすると、ただちに尊氏のもとに加わり軍忠を励んだ。以後、尊氏に忠勤を励んだことで、竹原荘以下の本領の回復をみた。さらに、尊氏が京都を追われて九州に走ると、景宗は足利一門の桃井義盛とともに安芸国の大将に任命された。
 景宗の活躍に対して北条氏に与した貞平は、沼田荘を没収されてしまったが、景宗の奔走によって許されたと竹原小早川氏の旧記に伝えられている。

小早川氏の内訌

 時流にのって竹原小早川氏の家勢はあがり、惣領家である沼田小早川氏と並ぶ存在となった。かくして小早川氏は、沼田と竹原の両小早川氏が拮抗するたたちで並立することになった。
 その後、惣領沼田小早川氏は則平の代になると、将軍足利義持への接近を強めていった。そして、大内氏の重臣平井備前入道の周防・長門の旧領が将軍家の御料所とされたとき、則平はそれを預け置かれた。また、商業活動や朝鮮との貿易などにも進出し、「勘合印」を与えられたのは則平がはじめであった。そして、則平の貿易活動は朝鮮にとどまらず、南方諸国までを含んだ大規模なものであった。このような則平の活躍によって、沼田小早川氏は大きく勢力を伸張したのである。
 ところが、則平の晩年から死後にかけて、長男の持平と二男熈平の間で激しい相続争いが起きた。則平は応永二十年(1413)に持平に所領を譲渡していたが、永享三年(1431)に至って持平に不孝な行いがあったとして、持平への譲状を悔い返し熈平にすべてを与える譲状を渡した。永享五年正月、則平が死去すると、持平はその譲状・古文書を預けられていた叔父令薫の居所を襲って、それらの証拠書類を強奪した。
 事件は幕府に持ち込まれ、所領はいったん切半することで和解がなった。ところが、永享十二年に至って将軍義教は熈平を惣領と認め、持平の知行分はすべて熈平に与える旨の命令を発した。さらに義教は熈平も無能ときめつけて、竹原小早川家の盛景に「小早川一跡」を与えたのである。沼田小早川氏にすれば、驚くべき決定であり、承服できかねるものであった。
 そのようななかの嘉吉元年(1441)、「悪将軍」と陰口をたたかれていた義教は播磨守護赤松満祐によって殺害され、この「嘉吉の乱」によって幕政は混乱が続いた。義教のあとを継いで新将軍となった義勝は持平に沼田家の惣領職を安堵したが、のちに熈平が家督を安堵され、持氏方が抵抗する場合、出雲・備後の国人たちを動員して討伐するように幕府の命令が発せられた。ここに至って、沼田小早川家の内紛は熈平が家督となることでいちおうの解決をみせた。

戦国乱世と小早川氏

 沼田小早川氏の内紛を後目に、竹原小早川氏は弘景(入道陽満)、盛景、弘景の三代の間に大きく勢力を伸張した。その支配領域は内海沿いの安芸国東半分を占め、音戸の瀬戸、安芸三津、高崎浦などの交通の要衝をおさえていた。竹原小早川氏の勢力拡大は、周防の大内氏と結んでだ結果であり、竹原小早川氏の親大内氏的な姿勢は、やがて沼田小早川氏との対立へとつながった。応仁元年(1467)、「応仁の乱」が起ると沼田小早川氏は細川勝元の率いる東軍に味方し、竹原小早川氏は山名宗全に味方する大内氏に従って西軍に加わったのである。
 かくして、両小早川氏は対立、抗争を続けるようになり、応仁二年、弘景は沼田小早川氏の本拠高山城を包囲したが、沼田勢によって撃退された。以後、弘景は大内氏と武田氏、毛利氏らの応援を得て、三年間にわたって高山城を攻撃した。文明九年(1477)、沼田の敬平は、熊井田本郷、梨子羽郷北方の所領を譲ることで、竹原の弘景と和睦した。
 その後上京した敬平は、将軍の奉公衆として明応二年(1493)まで在京し、将軍義政に近侍した。その間、領国の運営は真田・土屋・田坂らの近臣が政所・奉行人に命じられて執行し、長享二年(1488)には地検奉行がおかれ検地を行っている。さらに庶家への統制を強化し、西北の乃美郷に弟の是景を入部させるなど勢力圏も拡大、敬平の代において、小早川氏は戦国大名へと変貌を遂げていったのである。
 敬平のあとを継いだ扶平は杉原氏領の木梨荘内三原を獲得し、永正元年(1504)には、三原郷の代官職を得た。のちに三原は隆景の代に至って、小早川氏の本拠地となった。このころ、細川氏に将軍職を逐われた義稙が大内義興を頼って山口に寓居していた。永正四年、義興は義稙を奉じて上洛軍を起したが、扶平は細川氏との関係から去就に迷っているうちに、翌五年、二十三歳の若さで死去してしまった。

相次ぐ、当主の早世

 扶平の死によってわずか四歳の興平が家督を継いだものの、扶平が細川氏に密着していた関係で、将軍義稙から所領の安堵を得られず、永正八年には小早川氏の惣領職が大内氏に従って上洛した竹原小早川弘平に与えられるという事態になった。しかし、惣領となった弘平は幼い興平を後見し、領分も要求しなかった。翌年、安芸の有力国人九家が一揆盟約を結んだとき、弘平が小早川一族を代表して出席、署名している。
 子の無かった弘平は、興平の弟福鶴丸を養子に迎えようとした。のちに実子興景が生まれたことで養子の一件は流れたが、弘平の主導で両小早川氏の融和が図られた。その背景には、出雲で勢力を拡大し戦国大名化した尼子氏が南下し、芸備の大内氏領に侵出を繰り返すようになったことがあった。弘平は動乱の時代の到来を予感し、両小早川氏を一体化して来るべき時代に対応しようとしたのであろう。
 興平も二十一歳の若さで死去し、沼田小早川氏の家督は四歳の正平が継いだ。相次ぐ当主の早世と政治情勢の変化によって、小早川氏の家勢は次第に衰退していった。一方、芸備地方は尼子氏と大内氏の抗争が繰り返され、天文九年(1540)、尼子晴久が毛利氏の拠る郡山城を攻めると、正平は大内方から尼子方に転じた。しかし、家中の大内派が高山城を占拠、大内氏から城番が派遣され正平は大内氏の監視下に置かれるという事態になった。
 尼子氏は郡山城を落すことができなかったばかりか、翌十年には敗北を喫して出雲に引き上げていった。これに対して、翌十一年、大内義隆が出雲に遠征、尼子氏を一気に討ち取ろうとした。この陣に、正平は毛利元就らとともに従軍したが、翌年、大内氏の敗北で退却する途中の出雲鴟巣川で討死した。ときに二十一歳の若武者であった。
 小早川氏は戦国動乱のなかで、扶平、興平、正平の三代が二十歳そこそこで死去したことで、家勢は衰える一方となった。十三年には尼子氏に高山城を攻撃されたが、これは宿老の結束で撃退した。しかし、大内氏から尼子氏への内通を疑われ、幼い繁平は高山城から他所へ移されてしまった。さらに、繁平は三歳のときに視力を失い、小早川軍を指揮することはできず、大内氏からも高山城への復帰を許されなかった。

毛利氏に併呑される

 一方、竹原小早川氏では、天文十二年(1543)、弘景の孫興景が安芸国佐東の陣で病没してしまった。興景には男子が無かったため、毛利元就は小早川氏の家中に圧力をかけ、三男隆景を押しかけ養子にすることに成功した。さらに、沼田小早川氏においても当主繁平が盲目ということで、難くせをつけ、強引に沼田家の譲渡を要求した。
 沼田小早川氏ではこのような元就の横槍に対して、田坂善景らが抵抗したが毛利氏に討ち取られ、繁平の妹を隆景に配することにより、両小早川家の合体がはかられた。こうして隆景によって、二つに分かれていた小早川は統一され、中国地方の大勢力となったのである。
 以来、隆景は吉川氏を継いだ兄元春とともに、毛利隆元・輝元をもりたて、俗に毛利の両川といわれる存在になったのである。隆景は安国寺恵瓊の仲介で秀吉に接近し、天正十三年(1585)の根来・雑賀一揆の征伐以来、秀吉に属して軍功を積み、その信任を得て五大老の一人となった。
 隆景は男子に恵まれなかったため、末弟秀包を養子としていた。ところが、黒田如水のおせっかいから、秀吉の正室高台院の甥秀秋が毛利氏の養子候補となった。秀秋は暗寓の質だり、毛利宗家が他氏の血に汚されることを恐れた隆景は、秀秋を小早川氏の養子に望み、秀吉から許された。こうして、秀秋が小早川家を継承し、秀包は別家を立てた。
 慶長五年(1600)、関ヶ原の合戦が起こると、秀秋ははじめ西軍に属していたが、のちに家康方に転じて東軍の勝利に寄与した。戦後、備前岡山四十七万石に封じられ、大大名となったが、その二年後に病死してしまった。一説に、西軍の武将らの亡霊に悩まされた末の衰弱死であったという。享年二十一歳という若さで嗣子はなく、ここに鎌倉以来の名門小早川家は断絶の憂き目となった。・2005年05月05日

【資料:萩藩諸家系譜/神奈川県史 ほか】

戦国毛利氏


■参考略系図
 


●旧バージョン系図

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