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立花氏
●祇園守
●藤原氏秀郷流大友氏族  
もともとは「杏葉紋」で、宗茂のときから「祇園守紋」を用いるようになった。他に「扇に祇園守」があり、珍紋として知られる。
◆「論考:祇園守りは十字紋」(1.3MB Acrobat Readerが必要です)  


 立花氏は豊後の守護大名大友氏の一族で、大友氏六代の左近将監貞宗の次男貞載が筑前国宗像郡立花山城に拠って立花氏を称したことに始まる。大友貞宗は元弘三年(1333)、鎮西探題を攻め北条英時を自刃させる功を立てた。その後、上洛した貞宗は、同年の暮れに京都において病死した。
 ところで、鎮西探題を討つために出陣した大友貞宗は、長男貞順、次男貞載らをさしおいて、五男千代松丸(のち氏泰)に全所領所職を譲った。貞載は肥前国守護職に任じられたこともあって、父貞宗の意向に従い豊後は弟氏秦にまかせ、みずからは筑前宗像郡の立花山に城を築くと立花氏の初代となったのである。ちなみに、兄の貞順は南北朝時代に至ると、南朝方に属して大友宗家に対立を続けている。

立花氏の誕生

 元弘三年(1333)鎌倉幕府が滅亡し、翌建武元年(1334)、後醍醐天皇による建武の新政が発足した。しかし、翌建武二年に起った「中先代の乱」をきっかけとして足利尊氏が新政府に叛旗を翻すと、貞宗は千代松丸とともに尊氏軍に応じて京都を攻撃した。貞載は尊氏に従って京都に上ったが、建武三年、東寺の戦いで結城親光の不意打ちによって傷を負い、親光を斃したものの翌日に戦傷死してしまった。
 その後、尊氏は京都を逐われて九州に逃れて再起をはかると、西上の軍を起こしてふたたび京都を征圧した。このとき、足利尊氏に幽閉された後醍醐天皇は、のちに脱出すると吉野に奔り南朝を立てた。対する尊氏は光明天皇を北朝に擁立して足利幕府を開き、以後、半世紀以上にわたって南北朝の争乱が続くことになる。
 貞載には男子が無かったため弟宗匡が立花城二代目を継ぎ、尊氏西上軍に加わって楠木正成、名和長年らとの戦に功をあげた。帰国したのちは立花城を拠点にし、少弐頼尚と行動を共にして、南朝軍との戦いに東奔西走するのである。
 後醍醐天皇は懐良親王を征西宮として九州に下し、これを菊池武光が支援した。そして文和二年(1353)、菊池武光は針摺原で探題一色範氏を破り、ついで正平十四年(1359)、大保原の戦いで少弐氏に壊滅的打撃を与えた。さらに延文五年(1360)には、大友氏・少弐氏らが支援する探題斯波氏経軍が長者原の戦いで菊池武光軍に大敗を喫した。ここに至って、九州の諸勢力は征西府軍に続々と帰服した。大友一族は雌伏を余儀なくされたが、田原氏能らの奔走によって、今川了俊が新探題に補されて九州に下向してきた。宗匡は今川軍に参加して菊池攻めに活躍し、応安四年(1371)立花城を回復した。
 かくして、今川了俊の活躍によってさしもの勢力を誇った征西府も肥後に逼塞するに至った。そして、明徳二年(1392)南北朝の合一がなり、九州探題として辣腕を振るった了俊も応永二年(1395)に職を解かれて京都に召還された。

戦乱に翻弄される

 その後、九州探題に渋川満頼が補任されると、大内氏が探題満頼を支援するかたちで北九州に勢力拡充をはかるようになり、これに大友氏と少弐氏が連合して対抗した。
 永享三年(1431)、大内盛見は筑前に出兵、立花城は大内氏の攻撃によって陥落した。このときの、立花城主は親直か親政であったと思われるが、強力な大内軍の前に豊後に後退するほか無かったようだ。ところが同年の六月、糸島地方の戦いで大内盛見は戦死し、大友・少弐連合軍は立花城を奪回した。
 しかし、盛見のあとを継いだ大内持世が筑前に出陣して太宰府や秋月を攻略、文安二年(1445)、大内教弘の筑前出兵によって立花城はふたたび陥落している。以後、寛正六年(1465)まで、筑前は大内氏の支配下となった。
 応仁元年(1467)、京都で応仁の乱が起ると、大内政弘は西軍の主力となって乱に介入、九州の兵も引き上げていった。大友氏は応仁の乱には積極的に介入しなかったが、次第に東軍有利に展開するようになると、豊前、筑前に出撃、応仁二年には立花城を奪回した。一方、対馬に逃れていた少弐氏も太宰府に復帰し、大友と少弐の両氏が博多支配を行った。このとき、大友氏の支配拠点となったのが立花城であった。
 やがて、大内政弘が京都の陣を払って帰国したことで、さいもの応仁の乱も終息した。帰国した政弘は豊前・筑前の支配強化に乗り出し、文明十年(1478)九州に上陸してきた。大内氏の軍事力は強烈で、大友氏は抵抗することなく立花城を開城して降伏した。少弐氏は肥前に逃れ、以後、筑前支配は大内氏が主導的に行った。
 立花氏は大友氏の一族被官として累代立花山城に居城し、大友家中に重きをなしていたことは間違いない。しかし、大内氏の侵攻によってたびたび城を逃れ、戦国時代の鑑載に至る歴代の詳しい事蹟はわかっていない。

前立花氏の断絶

 筑前・豊前をめぐる大友氏と大内氏の攻防は、十六世紀のなかごろまで断続的に続けられたが、おおむね大内が優勢であった。しかも、大友氏は家督をめぐる内訌を繰り返し、大内氏からの揺さぶりに翻弄されるということもあった。しかし、義鑑が登場したことで、大友氏は戦国大名への脱皮をはかり、大内氏と拮抗するようになった。そのような天文十九年(1550)、大友氏では「二階崩れの変」が起って義鑑が家臣に殺害され、義鎮(宗麟)が家督を継承した。一方、翌二十年には大内義隆が重臣陶晴腎のクーデターよって自害したのである。
 ここに政治情勢は一変し、義鎮の弟の晴英(義長)が陶晴腎に迎えられて大内氏の家督となった。義鎮は筑前・豊前を平定し、筑後を征圧、さらに肥後の菊池氏まで滅ぼして、九州探題職に任命され、九州六ケ国の守護に任じられる大勢力となった。他方、弘治元年(1555)、陶晴賢は厳島の合戦で毛利元就に敗れて滅亡し、翌々年には大内義長が元就に討たれた。かくして、大内にとって代わった毛利元就が、豊前・筑前の攻略を開始し、大友氏はいやおうなく毛利氏との戦いに直面することになる。
 弘治三年、筑前の秋月文種、肥前の筑紫惟門らは毛利氏に通じ、大友氏から離反したが、たちまち大友氏の大軍によって鎮圧された。しかし、その後も秋月氏、筑紫氏らの大友氏への抵抗は続けられた。ところが、義鎮は麾下の諸将に賦課金を上納させ、酒色に溺れて部下を殺し、その妻を奪ったりするという暴君振りを見せるようになった。前線にあって毛利氏と対立を続ける立花鑑載は義鎮に対して反感を抱き、永禄八年(1565)、反乱を起こしたが敗れて降伏した。
 翌永禄九年、岩屋・宝満山城監督の高橋鑑種が毛利氏に通じて秋月・筑紫氏と結び、大友氏に反旗を翻した。鑑種は宗麟がもっとも信頼を寄せる将であり、鑑種謀叛の報に接した宗麟はなかなか信じようとなしなかたという。そのような鑑種謀叛の原因は、兄弾正の妻に化想した宗麟が弾正を殺害したためという。しかし、真相は大友氏からの自立を図ったものであろう。
 宗麟はただちに戸次・臼杵・吉弘の諸将に命じて討伐軍を送ったが、休松において秋月軍に大敗北を喫した。大友軍の敗北を見た筑前の諸将は毛利方に転じ、鑑載の守る立花城は大友氏にとって筑前の重要拠点となった。ところが、鑑載は毛利氏に転じて高橋鑑種と結んで二度目の反乱に踏切ったのである。かくして、毛利氏の援軍を受けた立花鑑載は、戸次鑑連を大将とする二万三千余の大友軍を迎え撃ち、四ヶ月にわたる攻防戦を展開した。
 立花氏の防戦に手を焼いた大友方は、立花側の武将野田右衛門大夫の内通を取り付け、一斉に城門を破って城に攻め込んだ。毛利軍、原田軍は城から退却し、立花鑑載もかろうじて城を脱出した。古子山の出城で兵を集め再起を計ったが思うように兵は集まらず、結局青柳の松原で自刃して立花氏は滅亡した。

立花道雪の登場

 立花氏の断絶を惜しんだ大友宗麟は、重臣戸次鑑連に命じて立花氏の名跡を継がせ、立花山城に居城させた。以後、鑑連が立花を称し、立花山城将として大友氏の筑前統治の柱石となった。天正二年(1574)入道して道雪を称して、史上に名高い立花道雪となったのである。鑑連が立花氏を継いだことで、戸次氏の家督は鎮連が継いだようだ。
 天正六年(1578)十一月、大友氏が「耳川の合戦」で島津軍に大敗すると、翌月には龍造寺隆信が筑後より筑前に侵攻してきた。鑑連は龍造寺氏の軍勢は防いだものの、秋月・筑紫・高橋鑑種等の筑前の国人が龍造寺氏に応じて反乱を起こした。以後、道雪は盟友高橋紹運とともに筑前の反乱鎮圧のため東奔西走することになる。
 男子がなかった鑑連は、宗麟から鎮連の子を養子に迎えるように勧められていた。しかし、娘閠千代に家督を譲り天正九年(1581)、高橋紹運の息統虎を娘の婿に迎えて養嗣子とした。
 天正十二年(1584)、龍造寺隆信が肥前沖田畷の戦いで島津・有馬連合軍に討ち取られると、鑑連は龍造寺氏に占領されていた筑後の回復を目指した。豊後本国と共同作戦をとり、筑前より出陣した鑑連は、筑後山下城の蒲池鎮運等を降し、ついで要衝猫尾城を攻め落として黒木家永を自害させた。しかし、柳河城の龍造寺家晴等の抵抗に手を焼き、豊後本国の軍勢の士気の低さに戦意は思うように上がらなかった。
 やがて、長陣による疲労からか病を得て、天正十三年(1585)九月十一日、享年七十三歳をもって御井郡北野の陣中で歿した。家臣は鑑連の亡骸を守って、立花城に帰還していった。道雪の死により、大友氏の筑後奪回作戦はついに空しくなったのである。道雪の死後、養子宗茂が家督を継ぎ立花城将となった。
………
立花氏の軍旗:杏葉紋が据えられている。

戦国の快男児-立花宗茂

 翌年、島津氏の筑前侵攻が開始されると、立花統虎は立花城を守り、父の高橋紹運は岩屋城に立て籠った。島津氏はそれぞれに降伏を促したが、二人ともそれを拒否して大友氏に節を通した。七月、島津軍は五万の兵をもって岩屋城を包囲した。一方、紹運以下の岩屋城兵はわずか七百余であったが、十四日間にわたて島津軍と激戦を演じたすえに全員討死した。
 鑑連、ついで紹運と二人の父を失った宗茂は、孤立無縁のなか立花城に立て籠り島津の軍勢に包囲された。岩屋城の攻撃に多くの犠牲を払った島津軍は、宗茂に開城を迫ったが、宗茂は秀吉軍の九州上陸を頼みの綱として島津軍に対抗を続けた。そこへ秀吉軍の上陸が始まり、ついに島津軍は本国へと撤退を開始した。宗茂は退去する島津軍に敢然と追っ手を掛けたが、深追いはせず島津方に攻め落とされた高鳥居城と岩屋城を奪還し、一躍その武名を高からしめた。翌年、秀吉の九州征伐に従って活躍、九州平定後の仕置によって筑後に十三万二千石を与えられて柳河城主となったのである。
 秀吉は大友宗麟・吉統の有力被官である宗茂の武勇と信義・愚直さを重用し、「西国無双」「東の本多忠勝、西の立花宗茂」と激賞した。つづく朝鮮の役に際して、宗茂は三千の兵を率いて渡海し、六年間にわたって異国の地を転戦した。
 文禄二年(1593)、宗茂は島津義弘らとともに明軍の李如松軍を碧蹄館の戦で大破した。この戦いは宗茂みずからが総勢を指揮し、敵に近づくや数百挺の鉄砲を連射させ、密集隊形のまま色めく敵に迫るという近代の白兵戦さながらの戦法で勝利した。この大勝利は、明軍をして「日本軍恐るべし」と認識させた。その後、明はそれまでの策略的対応を捨て、真剣に日本軍との講和を考えさせるようになった。
 また、蔚山城で苦戦していた加藤清正を救援したことで、宗茂は清正との間に固い友情を結んだ。やがて、秀吉の死によて朝鮮の役はうやむやのうちに中止された。
 秀吉死後に起こった関ヶ原の合戦(1600)では西軍に参加し大津城を攻略した。このとき、室の闇千代は東軍につくことを主張したが、宗茂は秀吉への忠貞を重んじて西軍に属したのであった。結局、西軍敗北の報を聞き、九州に引き上げることとなった。その途中、関ヶ原の戦いに敗れた島津義弘と出くわした。
 島津といえば実父・高橋紹運の仇であった。家臣は討ち取るようにとすすめたが、宗茂は「同じく西軍に味方しながら、寡兵を見て討ち取るというのは勇士のすることではない」といい、島津に使者を出し「昔の遺恨は少しも心にかけておりません。九州までの道中は諸事、心を合わせましょう」と協力を申し出た。敗軍の将義弘は、この言を聞き非常に感激したと伝わる。
………
写真:立花宗茂の甲冑御花さんのHPから転載させていただきました。)

近世大名へ

 国元に帰った宗茂に対して、鍋島勝茂、さらに加藤清正、黒田如水らが攻出陣してきた。このとき、鍋島勢は西軍に加担したことを挽回しようとして懸命であったが、加藤・黒田氏らは宗茂を攻めることには消極的であったという。立花勢は鍋島軍を迎撃したが、鍋島の大軍に押されて柳川に退いたのち、清正の説得を受けて柳川城を開城し、所領はことごこく没収された。清正は浪人となった宗茂に対して一万石の扶持を送り、百人ほどの家臣を預かりそれぞれに禄を与えて養った。
扇に祇園守  その後、清正のもとを去る決心をした宗茂は、慶長七年、江戸に上る旅に出た。翌年、江戸に入った宗茂は本多忠勝の世話で、由布美作・十時摂津ら従者らとともに高田の宝祥寺を宿舎とした。そして、翌九年、忠勝の推挙で宗茂は江戸城に召し出され、家康から御書院番として五千石を給されることになった。この間、宗茂は徳川家にこび、へつらったり、猟官運動をすることはまったくなかった。
 徳川幕府が開かれたとはいえ、世の中はまだ混沌としており、幕府=徳川家にしてみれば、新しい支配体制を作り上げることは急務であった。そのようなおり、宗茂の誠実で信頼できる人柄と、かくかくたる戦歴は幕府=徳川家得がたいものであったと思われる。かくして、幕府の要人に迎えられた宗茂は、以後、徳川家に忠勤を励み、慶長十一年には奥州棚倉に一万石の地を賜り、大名として復活した。
 その後、大阪の陣では家康の招きにより、秀忠の相談役を勤めた。そして、それら徳川家に対する忠勤が認められ、元和八年(1622)、旧領の柳川十一万石に返り咲いたのである。まことにめでたい運に恵まれた宗茂であったが、生来の信義と愚直さと器の大きさが、秀吉・家康らの覇者に愛されたのであろう。・2005年3月21日
………
家紋:立花氏のもう一つの祇園守紋「扇に祇園守」

●戸次氏のページへ。



■参考略系図


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