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長曽我部氏
●七つ酢漿草/帆掛船
●泰氏流
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長曽我部氏は、泰氏の後裔を称していた。泰氏は古代の有力な渡来民族で、秦の始皇帝の子孫の弓月君が日本に渡来したのが、その始まりとされている。泰氏は山城国の葛野郡一帯を領し、太秦の地を本拠に勢力を扶植していった。飛鳥時代、推古天皇の御世にあらわれた泰河勝(川勝)は、聖徳太子に仕えて朝廷内における秦氏の地位を向上させ、京都・広隆寺を創建したことで知られている。
長曽我部氏の発祥
河勝は太子の信頼に応えて多大な功績を挙げ、恩賞として信濃国更級郡桑原郷を賜り、子の広国を派遣して信濃の統治に当たらせた。以後、泰氏は信濃に住して豪族に成長していった。『更級郡誌』には、「保元の乱」に際して能俊が村上為弘、平正弘らと崇徳上皇方に属して敗れ、土佐国に走ったという。ちなみに、阿波の新開氏も信濃秦氏の分かれといい、秦氏が佐久・更級・東筑摩地方に広がっていたことをうかがわせている。
一方、『元親記』には「秦川勝の末葉、土佐国司となり、長曽我部・江村・廿枝郷など三千貫領知すべき綸旨を頂戴し、御盃を賜る。その盃に酢漿草の葉が浮かび、これをもって酢漿草を紋に定む」とある。また、後三条天皇の延久年間(1069〜74)に、能俊が信州から入部したとするものもある。さらに、鎌倉時代初期に起った「承久の乱」に幕府方に属した能俊は京方の仁科氏と戦い、その功により土佐国の地頭となり、長曽我部郷に移ったとする説もある。
このように、長宗我部氏の先祖という能俊が土佐に移った時期については諸説があり、平安末期から鎌倉初期という以上はいえないのが現状である。いずれにしろ、泰能俊の子孫が、戦国時代、土佐を統一し四国制覇を企てた長宗我部氏となったことは諸説一致している。とはいえ、長曽我部氏を蘇我氏の部民宗我部の出とする説もあり、長曽我部氏の出自については不明なところが多いとしかいえない。
系図上で長宗我部氏の初代とされる能俊が土佐に入り、はじめて居住したのは長岡郡宗部郷(宗我部郷)であった。能俊は地名をとって宗我部氏を称したが、近隣にある香美郡にも同じく宗我部氏を名乗る一族があったため、長岡郡の一字をとって「長宗我部」とし、香美郡の宗我部氏は香宗我部を名乗るようになったのだという。
能俊は国分川沿いにある岡豊山に城を築き、代々の居城と定めた。そして、鎌倉時代、江村、久礼田、広井、中島、野田、大黒、中野氏らの庶子家を分出した。長宗我部氏はこれらの庶子家を指揮下におき、惣領制のもと発展をしていったのである。
土佐の有力者に成長
信能の代に鎌倉幕府が滅亡、建武の新政がなったが、新政は足利尊氏の謀叛で崩壊し南北朝争乱の時代となった。信能は香宗我部氏とともに足利尊氏に属し、建武三年(1336)尊氏方の有力武将細川顕氏に従って長岡郡八幡山東坂本で南朝方と戦った。動乱のなかで信能は細川氏との結び付きを強め、大桶郷・吉原地頭職、朝倉領家・深淵郷・介良庄中塩田などを与えられた。それらの総計千百三十四町、信能は時流に乗って長宗我部氏発展の基礎を築いたのである。
つぎの兼能も父信能とともに武家方に属し、細川氏から夢窓疎石の創建した吸江庵の寺奉行(俗別当)に任ぜられた。夢窓疎石は足利尊氏の篤い帰依を受けた禅僧であり、吸江庵は康永二年(1343)に将軍の祈祷所となり、その存在は明国にまで知れ渡るほど有名なものになった。のち経済的に逼迫したが、細川頼元・頼之らによって復興され、将軍足利義満は成松名・重富跡を寄進し、経済的基盤を確立した。その間、長曽我部氏も寺奉行として吸江庵の運営に尽力した。
●土佐守護-細川氏系図
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至徳三年(1386)、土佐守護代として細川頼益が入部し、国人らは細川氏の被官に組込まれ守護支配が浸透していった。ときの長宗我部能重は、吸江庵の寺奉行として、また細川氏の有力被官として吉原庄全域を領有し勢力を拡大していった。
十四世紀の末に南北朝の合一(1392)がなり、室町幕府体制が確立したが、それは新たな乱世の前のつかの間の平穏に過ぎなかった。十五世紀になると幕府と関東府との対立(永享の乱)が起り、足利将軍義教が恐怖政治を行った。嘉吉元年(1441)、義教は播磨守護赤松満祐に暗殺され(嘉吉の乱)、幕府は大きな動揺に見舞われた。このようにして、幕府の威勢は衰退の兆しをみせ、世の中に下剋上の風潮が広まっていった。以後、幕府内部では権力闘争が続き、将軍、守護大名たちの権威は次第に衰退を見せるようになった。そして、幕府管領家である畠山氏、斯波氏に家督をめぐる内訌が起り、さらに将軍家にも御家騒動が起った。それらが背景となって、幕府管領細川勝元と幕府の実力者山名持豊とが対立し、ついに応仁元年(1467)「応仁の乱」が勃発した。
土佐守護代細川氏は勝元に味方して上洛し、土佐の国人領主らもこれに従って京に上った。応仁の乱のころに成立したという『見聞諸家紋』を見ると、長宗我部氏・安芸氏・大平氏らの家紋が収録され、かれらが東方として在京していたことが知られる。一方、守護細川氏が在京している間に、土佐における細川氏の権威は徐々に低下していった。守護領国体制の衰退により、土佐の国人領主らはそれぞれ自己の勢力拡大を企図して、互いに争うようになった。このようななかで、衰えたりとはいえ守護細川氏を後楯とした長宗我部氏が勢力を伸ばし、本山氏と長岡郡を両分して、土佐七族の雄に数えられるまでになった。
このころ、応仁の乱の難を逃れて一条教房が土佐国幡多庄に下向してきた。ときの長宗我部氏の当主文兼は、一条氏を土佐の国司として仰ぎ、その下知のもと行動すれば争いは無くなると各豪族に提案した。豪族達もこの文兼の案に賛成し、土佐には一時の平穏が訪れた。
長宗我部氏の挫折
文兼のあと長曽我部氏は、元門、雄親、兼序と続き、一条氏の権威をバックとして力を伸ばしていった。また、古くより細川氏の庇護下で寺奉行の地位を保持してきたことも有利に働き、長曽我部氏は兼序の代に至って、土佐群雄のなかで一頭抜きん出る存在となった。
兼序の時代は、応仁の乱後、戦国時代へと推移つつあるときであった。兼序は家臣からの信望も厚く、武勇、知略共に備えた武将であった。ところが、長年に渡る細川氏の庇護を後楯とする兼序の振る舞いに慢心が目立つようになり、周辺豪族達の反感を招くようになっていった。いわゆる、「虎の威を借る狐」として、嫌悪されていったのである。とはいえ、兼序が恃む細川氏宗家の政元は幕府管領であり、その権勢は将軍の首を挿げ替えるほどのものであった。しかし、細川氏内部では政元の養子をめぐって内部分裂が起り、永正四年(1507)、細川政元は家臣によって暗殺されてしまった。
これにより、細川氏は内紛状態となり、同族同士の抗争となった。各地の細川一門は次々と帰京し、土佐も例外ではなく、守護領国支配体制は一気に崩壊してしまった。ここに兼序は後楯を失うことになり、いままで兼序の横柄な態度に憎しみを増幅させていた本山梅慶を中心として、反長宗我部連合が結成されたのである。
永正五年、梅慶の呼び掛けに大平・吉良・山田の諸氏が立ち上がり、総勢三千余の連合軍が岡豊城へと進軍を開始した。連合軍進発の報に接した兼序は、兵五百を率いて岡豊城から出撃し、国分川を背に連合軍を迎え撃った。一計を胸に秘めた兼序は大軍を相手に奮戦、合戦なかばで軍を反転し、国分川の浅瀬を渡って城へ引き揚げる様子を見せた。この兼序の動きを敗走とみた連合軍は、長宗我部軍に追いすがった。これは兼序の思う壷であり、連合軍は国分川の深みに足を取られて身動きを奪われ、つぎつぎと長宗我部勢によって討たれた。兼序は浅瀬を選んで兵をひき、連合軍の猪突を誘ったのであった。
しかし、一戦に勝利したとはいえ多勢に無勢であり、兼序は岡豊城へと退却した。その後、城は包囲され、兵糧も乏しくなり、ついに万事窮した兼序は妻子と共に自刃してこの世を去った。家臣らも城に火を放ってお互いに刺し違えて殉死し、岡豊城は落城、長宗我部氏は没落した。
●土佐守護細川氏の内訌
土佐の守護は細川京兆家(宗家)が世襲し、長曽我部氏はその権勢を背景として勢力を拡大した。細川政元は将軍足利義材(義尹・義稙)を追放、管領畠山政長を自害に追い込み、足利義遐(義澄)を将軍に擁立して幕府の実権を掌握した。しかし、修験道に凝って、妻を持たず、子がなかったため、澄之・澄元・高国と三人の養子を迎えた。この結果、澄之と澄元の間で家督争いが起り、細川氏家臣団は二分され、永正四年(1507)、政元は澄之を担ぐ香西元長・薬師寺長忠らによって殺害された。
澄之に対する三好之長に推戴される澄元は、細川高国・同政賢・同尚春らを味方にして澄之を討ち取り、細川氏の家督を相続した。ところが、今度は、高国と不和になり、永正五年、周防の大内義興が政元に逐われた義材を奉じて上洛、高国と大内義興の連合政権が誕生した。以後、十年以上にわたって、澄元と高国の間で合戦が繰り返され、結局、高国方の勝利に終わった。これが「両細川氏の乱」と呼ばれる抗争である。
この細川京兆家の内訌は土佐にも影響を与え、長曽我部兼序(諱は元秀で兼序は法号)は澄之派に、本山氏らは澄元・高国派に分かれて対立したようだ。その結果、日頃の傲慢な態度もあって、長曽我部兼序が本山氏を盟主とする高国派に討たれたものと解される。また、このとき兼序は岡豊城を脱出して、嫡子千雄丸とともに槙山の専当氏を頼って雌伏し、のちに再起を期したとする説もある。それによれば、岡豊城に復帰したときの幕府管領は細川高国で、兼序は本山氏らと和睦し、高国との関係も調整した。国親の名乗りは、高国から「国」の一字を拝領したものともいわれている。
■ 細川氏の内訌年表にリンク
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長宗我部氏の復活
細川氏は内訌により、土佐における守護領国体制を崩壊した。これがきっかけとなって戦国時代に突入した土佐は、大平、本山、吉良、津野、安芸、香宗我部氏らが互いに抗争する状態となった。しかし、諸豪族は土佐国は国司の一条氏を別格として、一応の安定状態を実現した。こうして、のちに復活する長宗我部氏を加えて、土佐一国には「土佐の七雄(七守護)」と呼ばれる諸豪族が割拠するようになったのである。
●土佐の七守護
「土佐の七守護」とは、長岡郡岡豊城主長曽我部氏、
安芸郡安芸城主安芸氏、
長岡郡本山城主本山氏、
香美郡香宗城主香宗我部氏、
高岡郡蓮池城主大平氏、
高岡郡姫野々城主津野氏、
吾川郡吉良城主吉良氏の七家をいう。『長元物語』によれば「一条一万六千貫、津野五千貫、大比良四千貫、吉良五千貫、本山五千貫、安喜五千貫、香宗我部四千貫、長曽我部三千貫、以下八人の内、一条殿は別格、残て七人守護と申す」とあり、長曽我部氏の勢力がもっとも小さかった。香宗我部氏に代えて、
香美郡山田城主の山田氏を入れる場合もある。
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さて、岡豊城が落城したとき、ひとり兼序の嫡男千雄(王)丸が家臣に守られて城を脱出、土佐国司一条氏を頼って落ちていった。一条房家は千雄丸を庇護し、養育、長宗我部氏の再興に尽力してくれた。そして、永正十五年(1518)、房家の調停工作により、千雄丸は十年ぶりに岡豊城への復帰が叶った。長宗我部氏を再興した千雄丸は元服して国親と改め、長宗我部氏の勢力挽回に努めるのである。
国親は吉田孝頼を後見に迎え、その指導のもと富国強兵に意を用い、その一方で本山氏に娘を嫁がせるなどしてその鉾先を交わした。また旧臣達の帰参もあり、国親のもと長宗我部氏は次第に国力を充実させていった。国親は近隣に兵を出して領土を拡張し、見違えるような勢力に復活した。かくして、父を死に追いやった連合軍の一人である山田氏を謀略をもって滅亡に追い込み、山田領を支配下に収めた。ついで、香宗我部氏に三男親泰を養子に送り込んで併呑した。
国親が台頭したころ、かつて「土佐の七雄」と呼ばれた諸氏のうちで、長宗我部氏を除いて、残ったのは安芸・本山の二氏だけになっていた。これに、国司の一条氏を加えた四氏が土佐国内の主要勢力であった。やがて、国親は姻戚関係になっていた本山氏の討伐を企て、土佐郡中央部へと進出し、本山氏に加担する小豪族を次々と破っていった。
長宗我部氏と本山氏とは真っ向から対立し、永禄三年(1560)、国親は長浜城を奪取、ついで長浜戸の本で両軍は激突した。戦いは国親の嫡男元親の活躍で、本山勢は敗走し浦戸城へと退却していった。国親は浦戸城に兵を進め、包囲、攻撃し本山勢を圧迫した。ところが、その陣中において急病を発し、囲みを解いて、対岸の種崎へと陣を移した。しばらく種崎で休養したが病は癒えず、岡豊城に帰り治療に専念したが、ついに回復することなく国親は病死してしまった。
親の仇を討ち取る寸前だっただけに、まことに無念な死であったといえよう。国親は死に臨んで、「本山氏を駆逐することが一番の供養になると心得よ」と元親に遺言したという。
元親の登場
永禄三年六月、国親の死によって家督を相続した元親は本山氏を徐々に圧迫し、ついに永禄五年、本山茂辰の拠る朝倉城に攻撃をかけた。翌年、茂辰は朝倉城を退き本城本山城に退去していった。そして、茂辰の子親茂の代になって元親に降参を請い、本山氏は長宗我部氏の支配下に組み入れられた。
その後、元親は吉良・安芸・津野らの諸勢力を制圧し、天正二年(1574)、ついに国司一条家の所領であった幡多郡をも掌中におさめ、翌年には安芸郡東部を併呑して土佐一国の平定を完成した。このころ、元親はのちの「長宗我部元親百箇条」のもととなる「天正式目」を制定し、名実ともに戦国大名へと飛躍したのである。
土佐一国を掌握した元親は、四国の統一に乗り出し、阿波・讃岐・南伊予へ兵を出し、天正九年(1581)ごろには、ほぼ四国の大半を制圧するにいたった。この長宗我部氏の四国統一に徹底抗戦したのが、阿波勝瑞城主の十河存保であった。土佐軍の攻勢のなか、劣勢に追い込まれた存保は信長に援軍を請い、中国征伐中の秀吉と結んで元親に対抗した。
信長も四国征伐を計画し、織田信孝、丹羽長秀を大将とする軍が四国に向かった。その最中の天正十年(1582)六月、本能寺の変により信長が横死すると事態は急変した。八月、満を持していた元親は、香川親政(親和)を総大将とした土佐・阿波・西讃の兵一万余をもって十河城に押し寄せ、阿波の勝瑞城には元親の本軍二万三千が迫った。十河存保は「鬼十河」の異名をとる歴戦の勇将であり、自ら兵五千を率いて勝瑞城を出撃、勝興寺表に本陣を構えた。さらに存保は先陣二千余を前面の中富川の川原に配し、長宗我部軍を迎え撃った。
ここに阿土両国の命運をかけた決戦が、吉野川の本流中富川を舞台に開始された。長宗我部軍は香宗我部親泰の兵三千を先手とし、存保勢も果敢に馬を川中に乗り入れ奮戦した。川中から岸辺にかけて凄惨な死闘が繰り広げられ、ついに十河存保の先陣は壊滅し、長宗我部軍の勝利となった。
・長宗我部元親の肖像
秀吉に屈服
敗れた存保は讃岐虎丸城に退き、織田家の有力武将羽柴秀吉に援助を求めた。秀吉はただちに仙石秀久を救援に向かわせ、讃岐に渡った秀久は長宗我部軍を迎え撃つ作戦を採った。しかし、作戦を察知した元親は、裏をかき仙石軍をさんざんに打ち破った。このとき秀吉は、柴田勝家と対峙していて四国にまで手が出せない状況にあった。かくして、孤立無援となった存保は、命辛々大坂へ逃れ去った。
翌年、柴田勝家を討った秀吉は本腰を入れて四国征伐軍を組織し、長宗我部勢に攻勢をかけた。戦いは秀吉軍の優勢のまま推移し、ついに元親は家臣の助言を入れて、秀吉に降伏し、元親の四国制覇の野望は潰えた。
その後、豊臣秀吉による九州島津征伐が進められ、天正十四年(1586)十月、四国勢に出陣の命令が下った。十河存保・香西縫之助・香川民部少輔・寒川七郎・安富肥後守らが出陣し、長宗我部元親も嫡子信親とともに九州に渡海した。そして、豊後戸次川の河原において島津勢と豊臣軍との間で決戦が行われ、激戦のすえに豊臣軍は潰滅し、十河存保は討死、元親の嫡男信親も討死をとげてしまった。
元親はかろうじて土佐に帰国できたものの、もっとも期待をかけていた嫡男信親の死により一挙に老け込んだという。信親は『土佐物語』に「背の高さ六尺一寸、色白く柔和にして、詞寡く礼譲ありて厳ならず、戯談すれども猥ならず、諸士を愛した」ので、「国人自ら恐れ敬い馴れ懐く事、父母の思」をしたといわれ、智勇兼備の武将であった。それだけに、元親が信親の死によって受けた打撃は大きく、以後、元親の態度は一変したと伝えられている。
信親の死後、秀吉は次男で讃岐の香川氏を継いでいた親和に土佐を宛行うという意味の朱印状を与えていたといわれる。しかし、元親は幼少の四男盛親を愛していたようで、信親の死後、後継者は容易に決定しなかった。
没落の予兆
『土佐物語』には、長曽我部氏の家督をめぐって様々な経緯があり、元親は、「家の惣領は、五郎次郎か、孫次郎たるべしといえども、彼等は素より他家を継がしめぬ。惣領の器にあらず。是に依って千熊丸(盛親)を家督として」と所存を問うた。これに佞臣久武親直は真っ先に賛成し、元親の甥吉良親実、従兄弟比江山親興らは「長子不幸のときは、次男是に継ぐこと、道の常にて候へば、五郎次郎殿、一度香河に移り給ふといへども、彼家断絶の上は、今是を御惣領に立てられん事当然なり」と、正論をとなえて反対した。
しかし、信親を失ってのちの元親は往年の明敏さも薄れ、後嗣は盛親と定められたのであった。しかも、諌言を呈した吉良親実と比江山親興は天正十六年(1588)切腹を命じられた。この処分は人々の非難をあび、無言の抗議をうみ、長宗我部氏の行く末に暗い陰を落す結果となった。そして、慶長四年(1599)、元親は関ヶ原の合戦が起る前年の難しい時代に京都で死去した。
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翌年、関ヶ原の合戦が起こると盛親は東軍に味方することを決め、家臣を家康のもとに派遣しようとしたが、近江の水口で道を閉ざされ、ついに西軍に味方することになってしまった。関ヶ原の決戦では、栗原に陣したが戦意は乏しかったようだ。西軍が敗れると戦場を離脱して、苦労の末に土佐へ逃げ帰った。
盛親は帰国にあたり、家臣を大坂に残し、井伊直政を頼って家康に謝罪しようとした。しかし、直政は盛親が謁見もせずに、郷国にあって座して罪を謝すなどはもってのほかであるから、上坂するようにとの意向を伝えた。もっともなことであり、盛親は上坂してみずから家康に謝罪したのであった。ところが、盛親は大坂への出発に際し久武内蔵助の言をいれて、元親によって幽閉されていた次兄津野親忠を殺害していた。結局、これが盛親の命取りとなった。
盛親が親忠を殺害したことを聞いた家康は激怒し、盛親の謝罪にもかかわらず、「元親の子には似合わしからぬ不義者」といって、盛親を誅伐しようとした。井伊直政の執りなしでようやく死一等を減じられたが、領国はことごとく没収となった。ここに、土佐長宗我部氏は没落の運命となったのである。
長曽我部氏の滅亡
改易後の盛親は、京都の相国寺門前に蟄居、幽夢と号した。身柄は数人の家臣とともに町衆に預けられ、放し囚人として所司代の監視下に置かれていた。以後、京にあること十四年、寺子屋の師匠として日々を過ごした。
慶長十九年(1614)、大坂冬の陣が起こると、豊臣秀頼の招きにより大坂城に入った。盛親のもとには多くの旧臣が馳せ参じ、元和元年(1615)の夏の陣では、八尾方面に出陣して藤堂高虎軍を大破したが、井伊直孝に敗れた。大坂城落城後、逃れたものの捕えられて六条河原で斬首され、長曽我部氏嫡流は滅亡した。・2005年3月26日
【参考資料:土佐長宗我部氏:山本大著/高知県大事典/津野興亡史 など】
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