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伊東氏
●庵に木瓜/十曜
●藤原南家為憲流
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藤原南家武智麻呂の後裔にあたる維幾の子木工助為憲は、平将門の乱に際して平貞盛と藤原秀郷とともに活躍した。為憲はのちに遠江守などを歴任したが、木工助の「工」と藤原の「藤」を併せて工藤を称したという。為憲の孫にあたる維景が伊豆押領使に任ぜられて下向、その後、駿河守に補任されて伊豆国狩野に住して狩野氏の祖となった。その子維職は宇佐美・伊東・河津の三荘を領し、伊豆国田方郡伊東に居を構えて伊東氏を名乗った。
その後、祐継(次)・祐家の兄弟のとき二流に分かれ、祐継は伊東を称し、その子の祐経は工藤を称した。一方の祐家の子祐親は河津を称した。そして、祐経の流れが日向国に地頭職を得て、日向伊東氏となるのである。
伊東氏の発展
工藤を称した祐経は京に上って平重盛に仕えたが、伊豆では祐経の従兄弟にあたる祐親が所領を押領して祐経に返さなかった。そのため、祐経と祐親との間に悶着が起き、祐経の家来は祐親を傷つけ、その子の祐泰を殺害した。その後、祐経をはじめ弟の宇佐美祐茂らは源頼朝に仕え、奥州合戦にも出陣して鎌倉幕府御家人となった。祐経は才幹もあり事務能力にすぐれていたことから、御家人のなかでも頼朝の信任が厚く、幕府内に重きをなした。
建久元年(1190)、祐経は日向に地頭職を与えられた。それは、県庄八十八町、田島三十町、富田庄八十町、児湯郡のうち二百四十町、それに諸県庄三百町という広大なものであった。しかし、惣領の祐経は鎌倉にあって幕府に出仕し、所領には庶子を代官として派遣する遥任であった。
ところで、祐経に殺害された祐泰の子らは、一族に養われて成長すると、祐経を父の仇として復讐の機会をうかがうようになった。そして、建久四年、頼朝が催した富士の裾野の巻狩の日、祐経は祐泰の子らに討ち取られてしまった。子らの兄は曽我十郎祐成、弟は曽我五郎時致で、「曽我物語」としても世に知られた仇討ち譚である。事件の背景には、単純な仇討ちではない謀略があったとする説があるが、おそらくその通りであったと思われる。
祐経のあとは嫡男の祐時が家督を継ぎ、旧所領も頼朝から安堵され、一族の宇佐美祐弘とともに御家人として順調な人生を送った。祐時の子らは、各地の所領を分与され多くの庶子家が生まれた。日向では、祐景が富田庄と県庄を受けて門川伊東氏を、祐頼が諸県郡の木脇八代条を領して木脇伊東氏を、のちに田島に下向した祐明は田島伊東氏を称したと伝えられている。そして、祐時のあとは祐光が継ぎ、祐光のあとは祐宗が継いだ。
ところが、祐宗は幼少であったため、叔父の祐頼が日向にあって所領を管理し、元寇に際しては祐頼が出陣して活躍した。その後、祐宗と祐頼の間で家督をめぐる争論が起こり、ついに祐頼が家督相続人に決定、祐宗は日向の領地を失った。
南北朝の争乱
やがて後醍醐天皇による正中の変(1324)、元弘の変(1331)が起り、笠置山に立て籠った後醍醐天皇は捕えられて隠岐に流された。その後、隠岐島を脱出した後醍醐天皇は、名和長年に迎えられて討幕の綸旨を発し、多くの武士が綸旨を奉じて挙兵、元弘三年(1333)、ついに鎌倉幕府は滅亡した。
かくして建武の新政が発足したが、新政は依怙贔屓な沙汰が多く、また動乱で疲弊した民に増税を課したため次第に信望を失っていった。とくに幕府打倒に活躍した武士たちは、恩賞の沙汰に不満を募らせ、ついには武家政権の再興を望むようになった。そのような武士たちの輿望を集めたのが、新政の立役者のひとりである足利尊氏であった。
建武二年、北条残党による中先代の乱が起ると、足利尊氏は関東に下って乱を鎮圧、鎌倉に入るとそこに居坐り味方に参じた武士たちに論功行賞を行った。この尊氏の行動は新政への謀叛にほかならないものであり、天皇は新田義貞を大将に命じて尊氏討伐軍を送った。中先代の乱に際して伊東一族は、北条軍に与したが、敗れてのち尊氏に降った。そして、祐宗の孫にあたる祐持・祐藤、祐持の子祐重、一族の祐熙らは尊氏に属して新田軍と戦い勝利に貢献した。
尊氏は新田軍を追撃して京都を指圧したが、建武三年二月、北畠顕家・楠木正成軍と戦って敗れ、京都を追われて九州に落ち延びた。少弐氏らに迎えられた尊氏は、九州官軍を多々良浜の合戦にやぶって九州を平定するとふたたび京都を目指して東上した。このとき祐持は尊氏軍に加わり、経島・湊川の合戦に参加して功があったという。さらに勢田の戦いなどにおいて活躍し、尊氏から勲功賞として日向国児湯内都於郡三百町を与えられ、形勢不穏な日向の国に下向させられた。
日向に下向した祐持は都於郡に城を築いて本拠にすると、国大将の畠山直顕に属して日向の宮方と対峙した。日向では肝付兼重、伊東氏一族の木脇伊東祐広らが肥後の菊池氏と結んで勢力を有し、祐持は土持氏とともにこれと争った。その後、貞和四年(1348)六月、祐持はふたたび上洛し京において死去した。
祐持の死後、嫡男の祐重が日向国に下向したが、このとき、一族の長倉・稲津・落合らが従ったという。その一方で、一族の祐熙との間で家督をめぐる争いがあったようだ。さらに、叔父の祐藤が伊豆の所領を押領して南朝方に転じ、結果として伊東氏は伊豆の本領を失うことになった。その後、祐重は尊氏の一字をもらって氏祐と名乗ったが、南朝方勢力、庶子家との戦いに終始した。
やがて、国人領主らが氏祐の幕下に属するようになり、都於郡の四天衆と称される山田・荒武・津留・大脇の四氏も氏祐に従うようになった。やがて、南北朝の争乱に加えて尊氏と弟直義の不和から観応の擾乱が勃発して、さらに世の中は混乱の度を深めた。氏祐は一貫して尊氏に味方してその立場を明確に示し、都於郡を押えていた守永野州の婿になるなどして、着々と日向国内に勢力を伸長させていった。
打ち続く争乱
ところで、興国三年(1342)、征西将軍宮懐良親王が薩摩に上陸した。谷山城を拠点とした懐良親王は、正平三年(1348)、九州南朝の中心をなす肥後菊池氏の本拠である隈府城に入った。以後、懐良親王を奉じる菊池武光と菊池一族の活躍によって、南朝方は次第に勢力を盛り返していった。そして文和二年(1353)、武家方の九州探題一色氏を筑前針摺原で破った菊池武光は北九州を制圧下においた。
その後、九州探題に任じられた斯波氏経も長者原の合戦に敗れ、少弐氏、大友氏らが征西将軍宮に抵抗を示した。しかし、少弐氏と大友氏は正平十四年(延文四年)の大保原の戦いにおいて壊滅的敗北を喫し、同十六年、ついに征西将軍宮は太宰府を占領し征西府を確立した。以来、応安四年(1371)まで、九州は征西府の全盛時代が現出したのである。
九州宮方の隆盛を重くみた幕府は、応安三年、今川了俊を九州探題に補任して征西府攻略を図った。幕府の期待を一身に担う了俊は、弟の仲秋、子の義範らを従えて九州に入ると、九州諸勢力を懐柔、翌年には太宰府を回復した。まことに見事な手並であった。氏祐は了俊に応じて、『日向記』によれば、応安四年、豊後佐伯蒲江出陣、同五年、肥後、同六年、宇目長領打入、永和元年(1375)九月、肥後水嶋の陣に加わり、同二年の小城の戦いで軍忠をなしたとある。そして、永和四年(1378)、氏祐は三納の陣中で合戦に明け暮れた生涯を閉じた。
その後、了俊と対立した島津氏が南朝方に転じるということもあったが、のちに島津氏はふたたび武家方に転じ、南九州における武家方の優勢は動かぬものとなった。かくして明徳三年(1392)、南北朝の合一がなり半世紀以上にわたった南北朝の争乱も一応の終息をみせた。さらに、九州探題として辣腕を振るった今川了俊も探題職を解任され、京都へと帰っていった。
こうして、南九州の政治情勢は一変することになる。これまで、紆余曲折があったとはいえ、武家方として活躍してきた伊東・島津・土持の三氏の間で争いが展開するようになるのである。
戦国時代への序章
日向国の守護は、暦応元年(1338)島津貞久、応安八年(1375)島津氏久が補任され、一時畠山直顕が補されたこともあった。伊東氏も守護の地位を望んだが、それが実現されることはなかった。了俊が去ったのち、島津氏は日向支配を実質化しようと動き出した。
土持氏は日向において、日下部氏に次ぐ古代以来の豪族であった。そして、県、財部、清水、都於郡、大塚、瓜生野、飫肥に一族が割拠して「土持七頭」と称され、隠然たる勢力を築いていた。伝統豪族の土持氏と新興の伊東氏との確執は、ともに武家方であったことから
はじめは少なかったと思われる。しかし、伊東氏が惣領を中心として日向一帯に勢力を拡大してくると、次第に土持・伊東両氏の確執は表面化してきた。
応永四年(1397)、島津氏久は清武城を攻撃した。これが伊東氏と島津氏との本格的な抗争の始まりとされ、以後、島津氏と伊東氏との争いは天正五年(1577)に伊東義祐が日向を追われるまで続くことになる。他方、日向国山東に一揆が頻発するようになり、さらに島津氏との対立も深まっていったが、祐安と祐立(すけはる)父子はよく領内の安泰をはかった。やがて、島津氏に内訌が生じたが、応永十一年(1404)に島津元久が日向守護に補任され内訌は終結した。
応永十九年、大淀川南の曽井・源藤に島津軍が侵攻してくると、祐安・祐立父子は曽井城に籠城してこれに抵抗した。ついで、同二十二年に島津軍が跡江に侵攻し、同二十六年には加江田車坂城に島津軍が攻撃をかけたが伊東方はこれを撃退した。その後も島津氏の伊東氏領侵攻は、執拗なまでに繰り返された。その間、祐安の娘が島津忠国に嫁いでいるが、両者の抗争はやむことはなかった。
永享四年(1432)六月、島津軍は六野原に侵攻、翌七月には河骨において島津方と伊東方の戦いがあった。永享六年に祐保が死去したが、島津勢が木脇に侵攻したため、祐立は土持氏の同意を得て出陣、木脇却生寺で合戦が行われた。その後、しばらく平安が続いたが、文安元年(1444)、上洛の途中にあった祐立は播磨国において死去した。
祐立の嫡男祐武は早世していたため、嫡孫の祐堯が家督を継いだ。しかし、祐立の後継の座をめぐって内訌があったようで、祐立から祐堯の間の系図が混乱を見せている。たとえば、祐堯を祐立の子とするもの、あるいは、祐武には三人の子があって、嫡男の祐家は弟で三男の祐郡に殺され、その祐郡も肥前国に逃れたため、次男の祐堯が伊東氏の家督となったとするものなどがある。いずれにしろ、祐堯が家督を継ぎ土持氏から室を迎えた。
戦国大名への途
伊東氏は祐堯・祐国二代のころから次第に強大となり、戦国大名伊東氏の基礎がつくられた。祐堯は永享十二年(1440)〜宝徳二年(1450)にかけて、川南の曾井城、石塚城を中心に支配領域を拡げ、日向侵攻を繰り返す島津氏を山西に退けた。
伊東氏が勢力を拡大してくると、土持氏は伊東氏を警戒するようになり、両者の間には不穏な空気が流れるようになった。やがて、土持氏は島津氏と結ぶようになり、ついに康正二年(1456)、祐堯は土持氏と戦い、翌長禄元年(1457)に財部土持氏を降して麾下に入れた。これにより、財部・新納高城・門川・新名・野別符・神門の諸城を受取、財部には落合民部少輔を地頭として配置した。
文明十六年(1484)、飫肥城の新納忠続が島津忠昌に請うて、櫛間の島津久逸を他所に移そうとした。これに反発した久逸は、伊東祐堯に援軍を求めて忠続を討とうとした。祐堯は久逸の要望に応えて嫡男祐国とともに出陣、飫肥城を攻撃した。ところが、この陣中において祐堯は急死してしまった。翌十七年、祐国は弟祐邑とともに、ふたたび飫肥攻めの陣を起こした。これに対して島津忠昌はみずから軍勢を率いて出陣、両軍は楠原で激突し、乱戦のなかで祐国は戦死し伊東軍は多数の戦死者を出して敗退した。
こうして、祐堯、祐国と相次いで当主を失った伊東氏だが、祐堯、祐国の代に南の飫肥・櫛間・三俣(庄内)、北の県(延岡)・高千穂、西の真幸院を除く、日向国を一円支配するまでに版図を拡大したのである。
祐国の死後、その後継の座をめぐって内訌が生じた。祐国の嫡男尹祐に代って叔父の祐邑が家督を狙ったとして、外戚野村氏によって日知屋において殺害された。そして、文明十八年には野村右衛門佐父子と野村一族が断罪された。野村氏の乱と呼ばれる内訌で、尹祐が伊東氏の家督を継いだ。尹祐は父の復仇を期して三俣院進出を企図したが、豊後の大友氏が島津氏と伊東氏の和睦をはかり、明応四年(1495)、島津忠昌は三俣院千町を割譲して両者の和議がなった。
三俣を手中にした尹祐は永正元年(1504)、梶山城を攻撃し、さらに都城に兵を進めたが、北郷氏によって撃退された。永正七年、福永祐晒の策にのせられた尹祐は、一族譜代の臣である長倉若狭守と垂水但馬守を綾城において殺害した。綾の乱と呼ばれる争乱で、伊東氏内部には動揺が続いた。
繰り返される内訌
大永三年(1523)十一月、伊東尹祐は北原久兼と連合して野々美谷城を攻めた。城は落したものの伊祐がにわかに陣中に没し、十二月には弟の祐梁が死去するという事態となった。若年の祐充が家督を継いだものの、外戚福永氏がその後見役として出頭、福永氏は祐充・祐清(のちの義祐)・祐吉三兄弟の外祖父として勢を伸ばし、守護方と称した。これに対し、譜代の家臣稲津重由を頭と仰ぐ「若キ衆」方との抗争が享禄四年(1531)に起こり、結果、若キ衆方の多くが都於郡を追われた。
家中の内紛が続くなかの享禄元年(1528)、伊東祐充は新納忠勝を降すと威勢をあげた。対する北郷忠相・島津忠朝らは北原氏と結んで、天文元年(1532)十一月、三俣院に兵を出した。連合軍は並進して高城城下に迫った。伊東方の三俣八城の諸城は兵を挙げて高城の救援に駆け付け、両軍は不動寺馬場において大会戦となった。伊東方は防戦につとめたが、ついには三俣院を失う敗戦をこうむった。
翌天文二年(1533)、祐充が早逝すると祐充の叔父祐武は福永氏を切腹させ、さらに祐清・祐吉を都於郡から追った。かくして、またもや内紛が生じ、祐清・祐吉は財部・日知屋・塩見・門川の衆に支えられ祐武と対立した。重臣荒武三省らの奔走で祐武は切腹させられたが、米良十二ヶ所の一揆衆が祐武の嫡男を擁立する企てがあり、荒武三省は一揆衆と野別府原で戦った。この騒動のなかで、一揆衆が城内に乱入し、荒武三省ら多くの武士が討死した。伊東氏は繰り返される内訌によって、多くの有為な将士を失い、強力な結び付きにもひびが入り、それがのちの伊東崩れを起こす遠因の一つとなった。
天文五年(1536)、祐吉が宮崎で早世すると出家して富田に引き蘢っていた祐清が、還俗して佐土原城に入り家督を継いだ。祐清はのちに義祐を称し、戦国大名伊東氏の全盛期を現出するのである
戦国大名-義祐
伊東氏の当主となった義祐は、南大隅の肝付氏と結んで、飫肥城の攻略を計画した。天文十年(1541)、長倉能登が飫肥兵を誘って、山東で乱を起こしたのをきっかけとして、以後二十八年間において、伊東・島津両氏は八回の戦いを繰り返した。そして、永禄十一年(1568)に至って島津忠親は城を伊東氏に明け渡し、念願の飫肥城攻略を実現した義祐は祐兵を城主として守らせた。
飫肥城を支配下に置いたことで、義祐は日向四十八城の主となった。さらに、禰寝・肝付・伊地知・新納・本田・北原・入来院・祁答院・東郷・菱刈・相良の諸氏が好を通じてきた。まさに、伊東氏の絶頂の時代であった。
飫肥南部の地を掌握した義祐は、以後、日向国西南部の真幸院の奪取に全力をあげるようになる。真幸院領主であった北原兼守は義祐の女婿であったが、その死後は、南の島津氏、北の相良氏らとの争奪の地となっていた。島津義久は北原氏を服属させると、真幸院の中心である加久藤城・飯野城を手に入れ、義弘をここに拠らせた。これに対して伊東氏は三之山を手に入れ、加久藤・飯野進出を狙って島津軍と対峙した。
永禄十一年八月、伊東氏は大軍を三之山に集め、飯野桶ケ平に陣した。義祐は永禄三年(1560)に家督を嫡男の義益に譲っていたが、同十二年に義益が早逝し、嫡孫義賢が幼少のため義祐がふたたび国政をとった。
元亀元年(1570)のころ、島津氏は大隅・薩摩の対抗勢力を着々と平定し、薩摩北部の渋谷一族、大隅北部の菱刈・蒲生氏、南部の肝付・禰寝氏らは島津氏の軍門に降った。
かくして、薩摩・大隅を平定した島津氏は日向平定をめざし、元亀二年、伊東氏と島津氏との間で数度の小競り合いがあり、翌三年五月、伊東軍は加久藤城を目指し三之山を進発した。その軍勢は伊東加賀守以下三千といわれ、飯野城を守る島津義弘軍は三百であったという。
■木崎原の合戦、要図
伊東軍は飯野城を北に見て白鳥山麓を通り加久藤城下に押し寄せた。一方、わずか三百足らずの手勢で飯野城を出撃した義弘は、二八坂で伊東勢と遭遇し、無謀にも十数倍の伊東勢に襲いかかり、敗走した。
緒戦の勝利と島津軍を小勢とあなどった伊東軍は木崎原に押し出したが、義弘の巧みな作戦と用兵によって不意を討たれ大敗を喫した。世に「木崎原の合戦」と呼ばれる戦いで、南九州の桶狭間とも称されている。この戦いで伊東方は、伊東加賀守・同新次郎・同又次郎ら一門の大将三人をはじめ奉行や各外城の地頭ら二百五十人を失い、敗戦の影響は深刻であった。
近世大名へ
天正四年(1576)、島津義久は伊東氏配下の高原城の地頭福永氏が島津氏に下り、続いて三つ山・須木・野久尾城は落ち、天正四年二月には、県土持氏の軍勢が押し掛けてきた。同五年十二月、野尻城を守っていた福永丹波守が島津方に通じ、野尻城は落城、さらにその後二十日もたたぬ間に、日知屋・門川・塩見の三城まで降ってしまった。こうして、伊東氏の支配拠点はつぎつぎと島津氏の攻勢の前に潰えていった。
天正五年、島津の大軍は伊東氏の本拠である佐土原を目指して進撃を開始した。ここに至って米良氏、福永氏、野村氏らがつぎつぎと島津氏に降伏、紙屋まで出陣してきた義祐も戦わずして退却していった。三氏が離反したことで、ついに義祐は万事窮し、本拠地都於郡を捨て豊後の大友氏を頼った。大友宗麟は伊東義祐らを庇護し、その要請をいれて翌六年春日向に出陣して土持氏を討った。同年の秋、ふたたび日向に出陣した大友軍は、高城で島津軍と戦ったが敗戦、兵を退くところろを追撃され耳川の戦いで潰滅的敗北を喫した。こうして、大友氏も一気に勢力を失墜することになった。
大友氏の敗北によって、義祐は豊後から伊予に渡り、天正十三年、泉州堺で没したという。義祐の子祐兵は豊臣秀吉に召し抱えられ、九州征伐後の天正十五年、日向・肥後のうちに所領を与えられ、はじめ曽井城、のちに飫肥城に復帰して二万八千石を領した。慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦に際しては、病に臥した難しい状況にありながらよく進退を誤らず、嫡男の祐慶が佐土原城を攻めて本領の安堵を受けた。そして、祐兵はその年の内に没し、家督は祐慶が継ぎ増禄を得て五万七千石を領した。・2005年6月22日
【参考資料:宮崎県史/日南市史/伊東市史/佐土原町史 ほか】
・日向伊東氏家臣一覧
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