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禰寝氏
●梶の葉
●建部姓/藤原姓
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禰寝氏の祖は、平重盛の孫にあたる高清の子が、清盛の清と重盛の重をとって清重と名乗り、源氏をはばかって建部氏を称したというが確証はない。高清については『吾妻鑑』『源平盛衰記』『平家物語』などにみられ、頼朝に生存を認められたが、建仁三年(1203)、平家の再興を恐れる二代将軍頼家によって殺害されたという。子の清重は何人かの家臣を従えて、海路大隅国浜尻浦についた。清重の命が許されたのは、北条時政の力によるという。
禰寝院に入った清重は名字を禰寝とし、建部清房の女を娶って本姓を建部とし、本姓平氏をはばかったとされる。ところで、清重の下向説には都合の悪い史料がある。すなわち、清重が大隅国に下ったとされる七年前の建久八年(1197)に作成された『大隅国建久図田帳』に、すでに清重の名が見い出されるのである。いずれにしても、禰寝氏の祖に関しては平氏としながらも、『禰寝文書』などからは藤原氏とも想定され、さらに、近江国の建部神社の神職であった建部氏の後裔とするものなど、さまざまな説が見い出せるのである。
さて、大隅国禰寝院南俣は菱刈重延が支配していたが、建仁三年(1203)、源頼家は清重を南俣院地頭職に補任した。とはいうものの、清重の父という高清が殺害された同じ年に清重が地頭に補任されたとは考え難い。ここらへんにも、禰寝氏の出自に関する不透明さが露呈しているといえそうだ。
●禰寝氏の勢力拡張
先述の「大隅国図田帳」に、禰寝院南俣四十町を禰寝郡司建部清重に、佐多十町は同高清知行とある。また、藤原頼光の譲状によれば、桑東郷・禰寝院北俣は頼経に、曽野郷は頼利に、禰寝院南俣頼貞に、そして、弟頼重、女子らのもそれぞれ所領が分与されている。そして、禰寝院南俣は頼貞の子孫が相伝し、鎌倉時代に至った建部姓清房のとき、妹婿である菱刈高平と争論となり、清房は菱刈高平・重妙らを殺害した。その後も、禰寝氏と菱刈氏の争論は続き、それは鎌倉時代末期にまでおよんでいる。一方、頼経が分与された禰寝院北俣のその後の相伝は不明となっている。
残された史料などから、黒木氏が禰寝領主であったとするものがあり、ついで藤原姓富山氏が島津庄庄官として日向から高城にやってきて大禰寝院内浜田・大姶良志々女までを統治していたことが知られる。すなわち、藤原姓禰寝氏=富山氏が北俣の弁済使職を相伝し、のちに五家に分かれている。
やがて、南北朝時代になると藤原姓禰寝氏は、建部姓禰寝氏の家来となっている。残された文書などから、建部姓禰寝氏は鎌倉末期の清治のころより北俣に進出し、清保、清成の時代になると藤原姓禰寝氏=富山氏をその配下においていたようだ。そして、北俣を支配下におくと一族の鳥浜氏が北俣の地を領有するようになったのである。
南北朝期に至ってこの地域には肝付氏が入ってきたが、建部姓禰寝氏は富田城を拠点としてこの地を兼併した。禰寝氏は南北朝の争乱期にあっておおむね北朝方に属しており、足利尊氏は南俣院郡司の一族清成に、肝付兼重が大隅国境に移動したので軍勢の待機を命じている。
このように平安時代のころより禰寝地方に拠って、勢力を拡大してきた禰寝氏は、南北朝の争乱に際して、大隅の有力者に飛躍するきっかけを掴んだのであった。
●南北朝の争乱
元弘三年(1333)、鎌倉幕府が滅亡すると、九州でも鎮西探題が滅亡したが、探題攻撃に建部清武が馳せ参じている。かくして、後醍醐天皇による建武の新政が発足したが、その不公平な恩賞沙汰などにより武士の失望をかい、建武二年、中先代の乱征圧のために鎌倉に下向した足利尊氏が叛旗を翻すと、まもなく新政は崩壊、時代は南北朝の争乱へと移行していくのである。
南北朝時代になると、南九州では肥後の菊池氏に応じて、肝付兼重・伊東祐広らが南朝方に応じ、大友・少弐氏、島津貞久らは尊氏に与した。尊氏は禰寝清成、土持宣栄らに檄をとばして、肝付氏、伊東氏らに当たらせた。さらに日向・大隅方面に畠山直顕を派遣し、島津貞久を帰国させ、禰寝氏、別府氏らとともに肝付氏に当たらせた。
以後、南九州では南北朝の動乱が続き、禰寝一族は清成を中心に一族が一心同体の盟約を交わしている。そうして、畠山直顕に従って、肝付氏、楡井氏ら南朝方勢力と戦い、勢力を拡大していった。
やがて、足利尊氏の執事高師直と弟直義の不和から観応の擾乱が起ると、情勢は奇怪な様相を見せた。師直と結ぶ尊氏と対立する直義がそれぞれ南北に分かれたため、直義に味方する畠山直顕と尊氏に属する島津直久が対立するようになった。擾乱は尊氏の勝利に帰したが、その後も混乱は続いた。そのようなかで征西宮懐良親王が九州に入部し、それを菊池氏が支援して、九州はにわかに南朝方が優勢となった。
幕府は九州探題として斯波氏経を派遣したが、氏経は九州の南朝方を征圧することができず、代わって今川貞世(了俊)が新探題に補任された。応安四年(1371)九州に入った了俊は、ただちに九州各地の武士に檄を飛ばし、翌五年には禰寝久清も了俊から誘いを受けている。永和元年(1375)、了俊は菊池城攻撃の陣を起し、島津氏、大友氏、少弐氏らにも参陣を求めた。この陣中で、了俊は来会が遅かった少弐冬資を酒宴の最中に殺害した。この了俊の行動に不信感を募らせた島津氏は、陣を払って三州に帰ると今川氏から離叛した。
●今川了俊の活躍
翌二年、了俊は島津氏を討つため末子の義範を大将として、薩摩・大隅・日向に派遣した。義範は相良氏に支援を求め、さらに禰寝久清にも協力要請が行われた。この事態に接した幕府は、島津氏から薩摩守護職、大隅守護職を奪い取り、両守護職を了俊に兼帯させた。危機感を深める島津氏は禰寝氏を牽制し、今川義範は禰寝久清の出陣をうながしたが、禰寝氏は双方の間にあってその進退は明快を欠いていた。
やがて、卓抜した戦略を示す今川氏の声望が高まり、薩摩・大隅・日向の諸将も今川氏に従う者が続出していった。この情勢に際して島津久も北朝方となった。しかし、氏久は了俊との対立関係を改めるこはなく、再三にわたる了俊の招きにも応じなかった。ついに永和五年、了俊は禰寝久清に命じて氏久が治める西俣および大姶良城を攻撃させた。かくして、禰寝氏は今川氏に属して島津氏と対立関係となり、翌年には義範から姶良庄を兵糧料所として、ついで本領の安堵を受けている。そして、鷹栖城を攻略し、永徳元年(1381)には佐多城を攻略、了俊は禰寝氏の功に対して禰寝北俣四村を与えて報いている。
九州探題として着々と成果をあげる了俊は、島津氏の討伐と南九州の経営を勧め、相良氏、禰寝氏をもって島津氏にあたらせようとした。そのような明徳二年(1392)南北朝の合一がなり、応永二年(1395)に至って、幕府は今川了俊の探題職を解任、失意の了俊は京都に帰っていった。了俊が九州を去ったことで、必然的に九州の情勢は一変した。
了俊が帰京して渋川氏が新探題になると、それまで一致して了俊にあたっていた島津氏に内紛が起った。すなわち、総州家伊久と奥州家元久との対立、抗争が始まったのである。加えて、今川氏と結んで島津氏と対立関係にあった渋谷一族もあなどれない勢力を有しており、薩摩・大隅地方はにわかに波乱含みとなった。このころ、禰寝清平は後小松天皇から山城権守に補任され、探題渋川満頼から本領の安堵を受けている。
●戦国時代への序奏
元久と伊久の抗争に際して清平は元久に味方していたようで、応永十年(1403)大隅郡内の地を宛行われ、ついで、十五年には盟約を結び、さらに元久の家老平田親宗より大禰寝弁済使職は子細なしととする書状を送られている。
島津氏の抗争は伊久が死去したことで、一応の平穏をみせたが、元久が死去したことでまたもや内紛状態となった。元久には男子がなかったため、伊集院頼久が初千代丸を元久の後嗣しようとしたが、それを元久の弟久豊がおさえ、みずからが島津氏の家督を継承した。このとき、久豊は禰寝清平に指宿郡内に所領を与え、盟約を結んで態勢を固めた。一方、おさまらない頼久は伊久の流れである久林を擁して久豊に対立した。
久豊と頼久・久林とは河辺松尾城において合戦となり、禰寝清平は弟清息とともに久豊に従って出陣、久豊軍の敗戦により兄弟ともに戦死をとげた。以後、久豊と頼久・久林の対立、抗争が続き、禰寝氏は久豊に加担して活躍し、久豊の領国支配体制の確立を支援した。
応永三十二年、久豊が死去すると忠国があとを継いだが、国内には国一揆が続発し、島津氏の領国支配は動揺した。忠国は弟用久に守護職を代行させて国一揆にあたらせ、禰寝重清には下大隅木々名を宛行うなどして懐柔につとめている。ところが、忠国は守護職に復帰すると弟用久を追放した。この仕打ちに怒った用久は谷山城に奔って、兄忠国に叛旗を翻した。島津氏の内紛を聞いた幕府は、禰寝重清に命じて島津忠国を援けて用久を討つように命じている。忠国と用久の抗争は、樺山孝久の仲介もあって文安五年(1448)和解が成立した。
守護島津氏の凋落
応仁元年(1467)、京都において応仁の乱が勃発し、世の中は本格的な戦国乱世へと突き進んでいった。島津氏では忠昌の時代で、一族や国内の国人領主の反抗に悩まされていた。禰寝氏は忠昌に属して、忠昌に抗する島津忠継が拠る指宿城を攻略し、指宿を支配下においた。さらに文明十六年(1484)には、禰寝忠清が忠昌に従って櫛間に出陣、忠昌は櫛間を征圧し、祁答院重度を帰順させた。
忠清ははじめ尊清と名乗っていたが、忠昌に加冠を受け、一字を賜って忠清を称したものである。忠清は和歌に通じ京都に上ったとき、勅題をもらって賦した一首が後柏原天皇にほめられ、文亀三年(1503)、宣旨を受けて右兵衛尉に任ぜられた。ついで、翌永正元年(1504)にも宣旨を受け大和守に任ぜられた。忠清は乱世にあって、文武に通じた武将であったようだ。
さて、島津忠昌の治世は動揺を続け、永正三年、忠昌は肝付氏を討つため出陣したが、攻略することはできなかった。やがて、国内を治めることのできない憤懣が嵩じた忠昌は、自らの命を断ってしまった。そのあとを継いだ嫡男忠治は早世、そのあとを継いだ二男忠勝も早世したため、三男の忠兼(のち勝久)がいだ。この目まぐるしい当主の交代は、島津氏のさらなる衰退を招き、国内は一層の混乱状態となった。後世、島津氏の暗黒時代と呼ばれる所以である。
勝久は妻の兄にあたる薩州島津実久を重用したが、実久が宗家の家督を狙うようになったため、これと対立するようになり、伊作の忠良をたのみ忠良の子貴久を養子に迎えた。しかし、のちに勝久は忠良・貴久父子とも対立するようになり、さらに国内は混乱を極めていった。この情勢をみた島津忠朝が新納忠勝、肝付兼演、本田薫親、そして禰寝清年らを誘って、和解を図ろうとしたが成功しなかった。そのような享禄三年(1530)、肝付兼興が大姶良に侵攻し、禰寝へも侵入してきたが、禰寝勢は肝付勢を横尾峠に迎え撃って侵攻を許さなかった。
島津氏の内紛は実久が没落し、勝久が豊後に奔ったことで、貴久が宗家の家督となり一段落を迎えた。ここに島津氏の当主となった貴久は、忠良を後楯として薩摩・大隅・日向の三州統一戦を推進、南九州の戦国時代は一大転機を迎えることになる。
国人領主として戦国を生きる
清年のあとを継いだ重長は、天文十二年(1543)、種子島の領主である恵時の悪政を正すと称して種子島を攻撃、種子島氏を破り屋久島を奪った。屋久島を掌握した重長は城ヶ平に城を築いて、島内の経営にあたったが、翌年、屋久島奪還を企図する種子島氏の反撃によって屋久島から撤退した。その後も、禰寝氏は屋久島をめぐって種子島氏との抗争を繰り返した。
永禄四年(1561)、肝付兼続が廻城に拠って島津氏に叛くと、貴久は弟忠将、嫡男義久を率いて廻城を攻撃した。兼続は伊地知重興、禰寝重長に支援を求め、重長らは兵を率いて廻城に駆け付けた。乱戦のなかで忠将は戦死し、弟の戦死を知った貴久の奮戦によって、兼続らはついに敗れ廻城は陥落した。元亀二年(1571)、重長は指宿摺ケ浜に侵攻し、島津義久の軍と激戦となったが、その最中に中食を平然ととるという逸話を残している。
指宿から退いた重長は、伊地知、肝付氏らと結んで、兵船三百余をもって海路鹿児島に押し寄せた。さらに、帖佐滝ケ水を攻撃したが、島津氏の部将平田氏の防戦によって結局、成果のないまま兵を退いている。ところで、『種子島家譜』によれば、元亀年中、禰寝氏、肝付氏、伊地知氏らが太守に叛きて冦を為す、彼の四家の海賊のために種子島と鹿児府とを往来の船を掠められること四十艘ばかりなり(後略)」とあり、天文期の種子島侵攻といい、禰寝氏が大隈半島南部の領主として水軍の側面をもっていたことをうかがわせる。
禰寝重長は肝付氏と結んで島津氏に抵抗を続けたが、天正元年(1573)、島津義久は八木越後守を使者として禰寝氏に和を求めた。それに対して重長は、肝付兼続との約束を破ることは自分を滅すことであり、和を講じることはできないと答えた。八木越後守は島津氏と結ぶことの利を説き、ついに重長は島津氏との和睦に応じた。義久はただちに新納忠元、伊集院久治らを派遣して和議を決定し、義久は重長に誓書を送った。
一方、重長が島津氏に帰順したことを知った肝付兼続は、ただちに禰寝を攻撃してきた。これに対して、重長は横尾に肝付勢を迎え撃ち、激戦のすえに肝付勢を撃退した。島津義久は肝付兼続征伐を決し、島津征久、忠長、そして歳久、家久らを将として禰寝に渡らせ、みずからは指宿にあってこれを指揮した。
肝付氏は島津氏を相手に抗戦を続け、翌二年には伊東氏、伊地知氏らと連合して禰寝に攻め込んだ。重長は危機に陥ったが、島津義久は援軍として喜入氏、猿渡氏、平田氏らを派遣して、肝付・伊地知らを挟み撃ちにしたため、ついに肝付・伊地知らは敗走した。ここに至って、まず伊地知重興が降り、ついで肝付兼亮も島津義久に帰順し島津氏の三州征圧がなった。
●禰寝氏のその後
天正八年(1580)、重長は波乱の生涯を閉じ、嫡男重虎(のちに重張)が家督を継承した。重張は島津義久・義弘・家久の三代に仕え、文禄の役にはみずからは出陣せず家臣のみ送っている。その後、文禄検地で禰寝から薩摩国吉利に転封された。これは、豊臣秀吉・石田三成と島津氏の談合で決定されたものであるという。このころ、禰寝氏が鹿児島で重用視されていたことは、三成による京都人質番組のなかに、島津一門と並んで、肝付氏・入来院氏らとともに、禰寝重張の名が見られることでも明らかである。
二十四代清香のとき、姓を小松と改めている。禰寝氏初代の清重は高清の子、つまり平清盛の子重盛の孫とし、重盛が小松殿と呼ばれたことから、禰寝氏本宗は小松を称するようになったのだという。清香は禰寝氏の祖先に多大な関心を寄せ、先祖の墓を整備したり、平家に因む家紋を定めたりしたと伝わる。幕末に活躍した小松帯刀清康はこの末である。・2005年1月12日
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家紋:小松帯刀の抱き梶の葉
【参考資料:根占郷土史/三州諸家史(氏の研究)など】
■参考略系図
・本文にもある通り、禰寝氏の出自に関しては諸説がなされている。ここでは、諸説あるものをそれぞれ併記した。
・禰寝氏資料
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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2010年の大河ドラマは「龍馬伝」である。龍馬をはじめとした幕末の志士たちの家紋と逸話を探る…。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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約12万あるといわれる日本の名字、
その上位を占める十の姓氏の由来と家紋を紹介。
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