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平戸松浦氏
●三つ星/平戸梶
●嵯峨源氏渡辺氏流
松浦氏は嵯峨源氏の代表紋である「三つ星に一文字」にちなむ「三つ星」を用いた。また松浦氏の祖が肥前国松浦郡に住して松浦を名乗り、同郡内梶谷に居を構え、諏訪神社を勧請したことから、梶紋も用いるようになったと伝えている。そして、松浦氏の梶の葉紋はとくに「平戸梶」と称されている。
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平安中期から室町期にかけての肥前国に「宇野御厨荘」があり、松浦郡地方の広大な地域をしめていた。宇野御厨荘は、中世期の西国武士団として知られる松浦党の根拠地となった荘園であった。
そもそも御厨とは、古代・中世期において朝廷に対する供膳・供祭などの魚介類を献納する贄所であった。宇野御厨荘は、筑後・肥前にまたがる広大な海・河川地域であったが、時代が下るにつれて次第に地域が限定され、平安末期には小値賀島・五島などが御厨内であった。さらに南北朝期から室町期における松浦党とよばれる弱小武士団の活動のなかで、宇野御厨は実質的に解体していったとされている。
ちなみに、十二世紀における宇野御厨荘の地頭は二十数名あったといい、源氏・平氏・藤原氏・清原氏などのさまざまな流れを汲む者たちであった。おそらく、肥前国の南・北松浦郡を中心に活動した大宰府の贄人たちであり、田畠を開発し、次第に開発領主として発展、ついには武士化していった。しかし、弱小領主だったため、互いに結合して一般に松浦党の名で呼ばれるようになったものと考えられる。
そして、松浦党の宗家にあたる直は御厨に居て、御厨執行兼惣追捕使であった。この直の子孫が、本姓を異にする諸氏を疑制的同族組織のなかに組み入れることで強大化し、松浦党の中心として戦国時代に至るのである。
松浦氏の出自
さて、松浦氏の出自に関しては、嵯峨源氏渡辺氏流というのが定説である。すなわち、嵯峨天皇の皇子源融の五代の孫源綱の子久が松浦郡に下向して土着し、はじめて松浦氏を名乗り、松浦源氏の祖になったというものだ。しかし、前記のように松浦氏発展の地となった宇野御厨荘には、清原氏、藤原氏など本姓を異にする地頭が存在しており、松浦氏の場合も、その出自については異説が多い。「後三年の役」に敗れ、のちに源義家に仕えた安倍宗任を祖とする説もある。
ところで、北九州の地には大宰府があり、「藤原純友の乱」に際して源経基が大宰権少弐となり、乱鎮圧のために九州に留まって残党の掃討に力を尽くした。また、源高明、源経信らが大宰権師として九州に赴任している。さらに、肥前守源円や肥前介源知らが知られ、源知は「刀寇の乱」に松浦から兵を率いて出陣、賊を壱岐まで追撃する活躍を見せている。源円、源知らは源氏で名乗りが一字であることが、のちの松浦党との関係を想像させる。
平安時代に現われた武士団の多くは、地方官僚として都から下り、任が満ちたのちはそのまま土着し、開発領主となる者が多かった。肥前守源円や肥前介源知らも九州に土着し、血族が増加して松浦の武士団に成長したのではなかろうか。また、いまでもそうだが、中央の名門にあこがれる気持ちは当時にもあり、それは現代以上に強烈なものがあったと思われる。地方の豪族たちは中央の貴族と関係を持ち、その結果、それぞれの地方に中央貴族の後裔を称する家があらわれた。おそらく、松浦地方にもそのようなことから嵯峨源氏を称する一統が広まったとも思われる。
さて通説に従えば、渡辺綱の曾孫にあたるという源久は、御厨検校に任ぜられて松浦に下り、志佐郡今福に来住した。そして、松浦の中心に位置する今福梶谷に館を構え、背後の城山に勝屋城を築き、松浦氏発展の基礎を築いた。久には直・持・勝・聞・広・調らの子があり、それぞれ波多・石志・荒古田・神田・佐志氏の祖となった。久のあとは直が継ぎ、家督は二男の清が継承した。そして、三男の四郎栄は有田、四男遊は大河野、五男五郎披は峯、六男囲は山代、七男連は小値賀を称して、それぞれ分家を起こした。
さらに、それらの子孫から庶子家が分かれ、子孫繁栄して下松浦・上松浦党を立て、四十八家あるいは五十三家が一揆契諾して世に松浦党と称されるようになったのである。
肥前の豪族として勢力を拡大
直のあとは清が継ぎ、清の流れは梶谷城主として丹後守を称し、相神浦松浦氏となった。この相神浦松浦氏が、松浦一族の宗家とされている。一方、近世大名として存続した平戸松浦氏は、峯披の孫繁の後裔で戦国時代に至って相神浦松浦氏を圧倒し、松浦氏の宗家となったものである。披の子持は母が弁済使藤原真高の娘であった関係から、披の所領の峯・鷹島・平戸・小値賀等の地頭職と母方の職を譲られ、下松浦では最も広い所領を持つ者となった。持は当初小値賀島に住していたが、のち平戸に本拠を移し、平戸姓を名乗り平戸松浦氏の基礎を築いたのである。
さて、繁は宇久家から湛を養子に迎え、松浦党内における立場を強化した。湛の代に元寇があり、湛は嫡子の答とともに出陣、活躍している。答のあとを継承した定は南北朝の動乱に遭遇し、定は後醍醐天皇に応じて活躍、建武の中興がなると肥前守に任ゼられた。定の戦場での働きは抜群で、鬼八郎と呼ばれて敵から恐れられた。やがて、足利尊氏が新政に背くと、多くの武将が尊氏方となったが、定は節を変えず松浦一族のほとんどが北朝方に付いたときも一人南朝方に忠誠を尽くした。そのような定の姿勢は、後醍醐天皇の崩御まで変わることはなかった。
定が南朝方となったため、松浦家の惣領職は勝が継承した。勝は尊氏方=北朝方の有力武将として活躍し、肥前国司の称号を用いることを許された。南北朝合一がなったのちも足利将軍家に仕え、室町時代には松浦党の規約を定めて団結をさらに強化した。とはいえ、松浦党は上松浦を中心とする波多・神田・志佐の諸氏からなる上松浦党と、下松浦を中心とする御厨・今戸・志佐・伊万里の諸氏からなる下松浦党とに分かれた。
永享九年(1437)、義は将軍足利義教に謁したとき赤烏帽子を用いて将軍の目にとまり、義教の信任を受け「肥前赤烏帽子」として名を知られた。「嘉吉の乱(1441)」に際しては、赤松氏の居城白旗城攻めに参加し戦功を立てている。
義の代ごろから幕府内部における権力闘争が顕在化し、ついに応仁元年(1467)「応仁の乱」が勃発した。応仁の乱は十余年にわたって続き、時代は確実に乱世の様相を濃くしていった。幕府権力は次第に衰退し、守護に代わって国人領主らが台頭してきた。かくして、日本全国は下剋上が横行する戦国時代へと突入するのである。
相神浦松浦氏との抗争
義のあと松浦氏は豊久、弘定と続いた。このころから平戸松浦氏は、周辺を制圧しながら次第に勢力を拡大する。永享年間(1429〜40)、豊久は生月一部、山田加藤、下方の山中らを征服し、生月、紐差、津吉を支配下におき、ついで文明八年(1476)には佐々を併有した。
豊久は佐々を併有したのち、田平の峯弘に嗣子がなかったので、長男の昌(のちに志佐氏を継いで純元と改名)に峯のあとを継がせ、次男の弘定に平戸本家を、三男の頼に佐々を、四男の栄に田平の小手田、のちに生月の山田を、五男の定久に吉田を、六男の始に佐々・里をと、子弟を各地に配置して統治の磐石をはかった。
ところが、田平峯氏を継いだ昌は養父弘と相容れず、弘は田平を昌に譲らず平戸本家の弘定に託すように遺言したために、昌と弘定との問は険悪なものとなった。事態は、重臣大島筑前父子のとりなしによって一応はおさまったが、昌は承服せず、ついに島原の有馬貴純に応援を頼んだ。これに、大村純伊、宗家筋にあたる相神浦松浦氏らが加担し、延徳三年(1491)、連合軍は平戸の弘定を攻めた。
弘定は白狐山城を捨て中野の箕坪城に籠城したが、連合軍の攻囲によって内の食糧はなくなり、ついに三か月後、城を脱出して海路筑紫へ逃れ、大内義輿に応援を頼んだ。大内義興の斡旋で弘定は旧領を回復することができたが、弘定はは相神浦松浦氏を深く恨み、両者の対立は決定的となった。
明応七年(1498)、相神浦松浦丹後守政は家来の山田四郎左衛門の怨みをかい、山田は政を討つために、平戸の弘定のもとに奔り、自分が案内者になるから是非とも政を討伐してほしいと頼んだ。弘定にしても先年の恨みを晴らす好機であり、ただちに相神浦攻めを決定し、大智庵城に攻め寄せた。平戸勢は政を討ち取り、政の内室と子の幸松丸を人質として平戸に凱旋した。
翌明応八年、政の内室と幸松丸を政の遺臣らが奪還し、幸松丸は有田の唐船城に入りそこで成長した。その後、幸松丸は親と改名して遺臣らとともに旧領の回復を虎視眈々と狙い、平戸松浦氏にとって油断のならない存在となった。
平戸松浦氏の覇権確立
弘定のあとは純元(田平峯昌)の長男興信が継いだ。興信の時代になると世の中は戦乱が止むことなく続き、その一方で、大小の戦国領主が自己の領地を保持するためにさまざまな活動を続けていた。たとえば、財力を築くために海外交易が盛んに行われ、興信も交易を積極的に行い、ポルトガル船の平戸入港を許している。
一方、永正九年(1512)、相神浦の地で蜂起した相神浦松浦氏は、神浦の飯盛山に城を築き平戸松浦氏に対した。やがて、佐嘉の龍造寺阿波守の斡旋で相神浦松浦親と平戸松浦弘定は、江迎、三浦で会見を行い両者の和睦がなった。さらに相神浦松浦を支援する少弐氏の奔走で、平戸松浦氏が押えていた相神浦一帯は従前のように、松浦宗家が支配するとことなったのである。
興信のあとを継いだ隆信は、同族の思惑や近隣の情勢から相神浦丹後守家の勢力伸張を看過するしかなかった。永禄六年(1563)、上松浦の波多家に家督争いが起こり、彼杵の大村氏と有馬氏が仲違いを起こし、相神浦を攻めても誰も手を貸せない状況となった。この絶好機を捉えた隆信は、ただちに全兵力をあげて相神浦を攻撃した。しかし、相神浦は容易に落ちず、両者の抗争は永禄九年まで繰り返された。戦況は次第に相神浦方の劣勢となり、ついに丹後守親は龍造寺氏らの仲介をいれて、隆信の三男親を養子に迎え、平戸松浦家の家臣となったのである。
その後も隆信の領土拡大の戦いは続き、直谷城の志佐氏を攻略、上松浦の波多氏の内紛につけこんで勢力を削減させるなどして、永禄年間のうちに北松浦半島の制圧に成功した。
隆信のあとを継いだ鎮信も優れた戦国武将で、隆信在世のころから、海外交易、近隣諸勢力との外交に活躍していた。さらに、大友氏の攻撃を退け勢力を拡大した龍造寺隆信が、下松浦諸氏を屈服させたときも、鎮信はよく龍造寺氏の矛先を交している。やがて龍造寺隆信が島津軍と戦って戦死、代わって島津氏の勢力が九州を席巻するようになった。島津軍の攻勢にさらされた大友宗麟は、上方にのぼって豊臣秀吉に島津征伐を依頼した。
戦国時代の終焉
天正十五年(1587)、秀吉の九州征伐が開始されると、鎮信はただちに秀吉に款を通じ、水軍を率いてこれに加わり、本領を安堵されている。文禄の役・慶長の役に当たっては小西行長とともに平壌で戦い、行長を救ったことが知られている。慶長五年(1600)の関ヶ原の合戦に際しては大村氏らと東軍に属し、戦後、肥前松浦・彼杵二郡と壱岐国六万三千石を安堵された。
平安末期に発祥し、一時は五十数家を数えた松浦一族も、戦国争乱のなかで次々と姿を消し、わずかに平戸松浦家のみが近世に大名として生き残ったのである。
ところで、鎮信は新たな居城として亀岡城を築いたが、完成目前にした慶長十八年(1614)に自らの手で焼き払ってしまっている。その理由は鎮信の嫡男久信が父に先だって死去してしまったため、築城も無意味となったといって焼き払ったのだと伝えられている。しかし、真相は徳川家康の疑心を晴らすためであったのだという。
鎮信は関ヶ原の合戦に際して東軍に加担したが、嫡男久信を西軍方として働かせたという噂があった。さらに、慶長十七年、嫡孫の隆信が従五位下に叙任されたが、「松浦鎮信」とあるべき宛名は「豊臣鎮信」であった。当時、家康は大坂の豊臣秀頼の存在に苦慮していた。そして、西軍大名の旧臣たちの動向を探り、各大名の徳川家への忠誠度を盛んに試していた。
隆信への宛名を見た鎮信は、家康の心底を思って驚き、疑い、悩んだ。そして、家康の疑いを解消するために、完成間近の亀岡城を焼き払うという挙に出たのである。そして、鎮信は慶長十九年五月、六十六歳で没した。家康が豊臣家を滅ぼすため、「大坂の陣」を起こすのはその年の十一月である。鎮信の亀岡城焼却によって徳川家康の松浦家に対する疑心は晴れ、松浦家は近世大名として続き明治維新を迎えたのである。鎮信は松浦家最後の危機を見事に乗り切ったといえよう。・2005年4月13日
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今福梶谷にちなんだ「梶の葉」紋
【参考資料:松浦市史/小値賀町郷土誌/上五島町郷土誌/日本の名族(新人物往来社刊)ほか】
【松浦一族】
●相神浦松浦氏
●波多氏
●宇久氏
●鶴田氏
●山代氏
●伊万里氏
●青方氏
●志佐氏
●有浦氏
●有田氏
●鴨打氏
■参考略系図
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
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丹波
・播磨
・備前/備中/美作
・鎮西
・常陸
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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日本には八百万の神々がましまし、数多の神社がある。
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