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相良氏
●長剣梅鉢/六つ瓜に七つ引
●藤原南家為憲流
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相良氏は藤原南家乙麻呂流で、工藤氏・伊東氏らと同族になる。系図によれば平将門の乱に活躍した藤原為憲の後裔にあたる周頼が遠江国榛原郡相良庄に住み、相良氏を称するようになったことに始まるという。とはいえ、為憲から周頼に至る間の系譜に関しては諸説があり、また、京の大夫職にあった周頼がいかなる事情で相良荘に移住したかも不明である。おそらく、藤原氏とはいえ末の流れである周頼にすれば、京での出世よりも父祖の縁をたよって地方の荘官職を志したものと思われる。
異説として、球磨地方の開発領主である人吉次郎・須恵氏・合志氏・久米氏らが、相良氏と同じく藤原姓を称していること。また、頼景の嗣子長頼は人吉庄の知行を得ていたが、早い時期に北条氏によって下地中分されていることなどから、相良氏は西遷御家人ではなく須恵氏らと同様に在地領主ではなかったかとするものもある。
いずれにしろ、相良氏を始めて称したとされる周頼は、子に恵まれなかったため同族の伊東祐光の次男光頼を養子に迎えて家督を譲った。以後、相良氏は相良荘の開拓に従事しながら、遠江の有力武士に成長していったのである。
相良氏の歴史への登場
治承四年(1180)、源頼朝が平氏追討の兵を挙げたが、ときの相良荘司頼景は文治元年(1185)に平氏が滅亡するまで、平氏方の武士として行動していた。その結果、領地没収の憂き目となるが、謝罪につとめて許され、鎌倉幕府に仕えるようになった。そして、建久四年(1193)、肥後国球磨郡多良木荘を賜り、相良氏は肥後国と関係をもつようになったという。しかし、一説には相良頼景は建久四年、領地没収のうえ九州肥後国球磨郡多良木荘に追放されたとするものもある。
頼景の多良木荘下向に関しては、領地を賜ったとするもの、罪をえて追放されたとするものがあるわけだが、いずれも建久四年であったことは一致している。当時の御家人は鎌倉にあって、遠隔地にある所領の支配は代官に委ねることが多かった。ところが、頼景はみずから多良木荘に下向していることから、おそらく罪をえて追放されたものと推測される。
頼景は弟の頼兼、一族の平原頼範らを従えて多良木荘に下向したが、多良木は平家没官領であり、そこには伊勢氏が入部していた。頼景はこの伊勢氏にあずけられたか、頼っていったかしたものであろう。それから四年後の建久八年、頼景は鎌倉に行き将軍頼朝に謁見、ついで頼朝の善光寺参詣の随兵として参加し、御家人の列に加えられたのである。そして、所領として多良木荘を授けられたのであった。
こうして、多良木を得た頼景は家督を嫡男長頼に譲ると隠居した。長頼は遠江国相良荘に生まれ、頼景が多良木荘に下向したとき相良荘に残った。その後、頼朝の命を受けて人吉荘に下向し、矢瀬氏を滅ぼして人吉城に入った。そして元久二年(1205)七月、長頼は将軍源実朝の命により、北条義時に従って武蔵国二俣川に畠山重忠を攻め、その抜群の功によって平家没官領である球磨郡人吉庄の地頭職に補任されたのである。
相良氏が肥後国に下向したとき、弟の宗頼・頼平ら一族、譜代の家臣らが従ったが、長頼の弟頼忠・頼綱・長綱らは相良荘に残り、遠江相良氏とよばれるようになった。
肥後南部に勢力を拡大
承久三年(1221)、承久の乱が起こると、おりから鎌倉にあった長頼は弟の宗頼・頼忠とともに北条時房に属して西上、のち北条泰時に属し宇治川の戦いで奮戦、功をたてた。長頼の活躍に対して泰時は、梅の実五個を青磁の碗に盛って酒宴を催しその功を賞した。これを記念して、相良氏は「梅」を家紋にするようになったのだと伝えている。乱後の論功行賞により失っていた遠江国相良の旧領を回復し、播磨国飾磨郡を新恩として賜った。
ここに至って相良氏は失地を回復するとともに、新たな発展をみせるようになる。長頼の父頼景は多良木四ヶ村を領し、そのあとは長頼の子頼氏が継いで上相良氏とよばれて惣領となり、人吉は頼俊が継承して下相良氏とよばれた。さらに宗頼は山鹿郡泉荘内田村に住して内田相良を称し、頼平は玉名郡山北郷を領して山北相良氏を称した。かくして、相良氏一族は肥後国に繁衍していったのである。
元弘の動乱に際して、相良氏一族は一致して宮方に参じ、北条政権の打倒に活躍した。しかし、南北朝の内乱が始まると、惣領である多良木の上相良経頼は菊池氏に通じて南朝方に属し、一方、人吉の下相良頼広・定頼父子は北朝方につき、対立関係となった。両相良氏はそれぞれ国人一揆を形成、南北両勢力の抗争を利用して自らの支配権を拡大しようと企図したのである。
その後、多良木の上相良氏の旗色が悪くなり、正平元年(1346)、上相良経頼は北朝方に帰順した。かくして、下相良定頼は多良木勢を圧倒するようになり、正平八年(1351)ごろになると、人吉庄北方・永吉半分・久米郷・日向北郷・飫肥郷に勢力を及ぼすようになった。こうして球磨郡の大半を確保した人吉下相良氏は、多良木上相良氏に代って相良惣領としての地位を確立するに至った。
その間、南北朝の内乱に加えて、足利尊氏と弟の直義の対立から「観応の擾乱」が勃発し、情勢は混迷を深め、九州の諸勢力もめまぐるしい去就を見せるようになった。そのようななかで、懐良親王が征西将軍として九州に派遣され、やがて肥後に入った懐良親王を菊池武光が支援して次第に南朝方の勢力が振るうようになった。そして、武家方の九州探題一色氏を撃破し、ついで斯波氏、少弐氏らを倒した懐良親王と菊池武光は太宰府を押え、九州は征西府が全盛時代を現出するに至った。
正平二十三年(1368)、人吉相良前頼は武家方から南朝方支持を目的とする球磨郡一揆に参加、前頼は征西府から本領球磨郡のほか葦北を安堵された。多良木相良氏も球磨郡一揆に参加し、多良木は上相良頼仲に返還された。
打ち続く抗争
九州南朝勢力の隆盛をみた幕府は、応安四年(1371)、今川了俊を九州探題に任じて下向させた。九州に入った了俊は、その優れた手腕をもって太宰府を奪還すると、南朝方を圧迫していった。
了俊によって武家勢力が伸長してくると、下相良前頼はふたたび武家方に転向した。天授元年(1375)、菊池氏の本拠隈府城攻略を目指した了俊は、水島に陣を置くと島津氏久、大友親世、少弐冬資ら九州三人衆に来援を求めた。了俊の呼び掛けに大友・島津氏らはただちに応じたが、少弐冬資は応じなかったため、島津氏久が骨折りして冬資の来陣を実現した。ところが、冬資の進退を疑った了俊は、陣中の宴席において冬資を殺害した。この了俊の行動に怒った島津氏久は、そのまま陣をはらって帰国すると南朝方に転じ、了俊と対立関係となった。
了俊は肥後・薩摩・大隅・日向の諸勢力に呼びかけ、反島津の武家方連合を結成すると島津氏に攻勢をかけた。これに人吉・多良木の両相良氏も応じ、永和七年(1381)、前頼は今川義範とともに八代・葦北地方を攻め、津奈木・湯浦・水俣の諸城を攻略した。そして、同年、今川勢は菊池城を陥落させ、九州宮方勢力を着実に追い詰めていった。
一連の戦いにおける前頼の活躍に対して、恩賞の沙汰は薄かったようで、前頼は南朝方に転じ島津氏と連携、菊池武朝と結び今川勢と対立した。そして、後征西宮良成親王から球磨・葦北の知行を安堵された。この前頼の転向によって反島津の武家方連合も解消され、前頼は九州南朝方の重要な存在となった。
その後、明徳三年(1392)、南北朝の合一がなった。しかし、九州では了俊と島津氏の戦いが続いており、相良前頼は了俊に従って日向都城に在陣し、自己勢力の維持、拡大に努めた。そして、応永元年(1394)、島津元久との戦いにおいて戦死をとげたのである。翌二年、九州探題として辣腕を振るった今川了俊は、探題職を解任され京都に召還され九州から去っていった。新たな九州探題として渋川満頼が補任されたが、了俊ほどの実力はなく、九州は新たな政治局面を迎えた。
乱世の予兆
一方、了俊の攻勢に対して一族が協力して当たっていた島津氏は、了俊の圧迫が消えたことで内部抗争が顕在化した。すなわち、総州島津伊久と奥州島津元久とが対立、抗争するようになったのである。この島津氏の内訌に際して、前頼のあとを継いだ実長は総州家伊久に協力し、応永八年の鶴田合戦において元久勢を敗走させている。
島津氏の内訌は元久方の勝利に帰したが、今度は、元久後をめぐる内訌が起こった。伊集院頼久がみずからの子を島津宗家の跡継ぎにしようとし、それを押さえて元久の弟久豊が島津宗家の家督となったのである。実長は久豊を応援し、久豊は実長の子前続に山門院三百五十町を与えて支援に報いている。さらに、前続を女婿として提携を強化し、相良氏も奥州島津家との協調によりその勢力を保持した。
前続は嘉吉三年(1443)に死去し、そのあとは十一歳の堯頼が継いだ。堯頼を若年と侮った多良木相良頼観、頼仙兄弟が桑原一族を味方にして、文安五年(1447)、人吉に押し寄せてきた。不意をつかれた人吉勢はたちまち崩れて、城を脱出した堯頼は菱刈に落ち伸びた。人吉城陥落の報に接した永吉庄山田城主永留相良氏の長続は、ただちに兵を発すると人吉城を攻め、多良木相良頼観・頼仙兄弟を追放した。
人吉城を制圧した長続は、菱刈にいる堯頼の帰城をうながしたが、堯頼は長続が城主になるように勧め動こうとはしなかった。そのうち、堯頼は不意の事故によって負った傷が悪化して急死してしまった。ここに至って、相良惣領を継いで人吉城主となった永留長続は、頼観・頼仙兄弟を誅伐し、その一族・与党を滅ぼした。ここに、本来の相良氏の惣領であった上相良氏は滅亡し、長続は一挙に球磨郡を統一、さらに葦北の所領も手中に収めたのである。
長続の相良惣領家継承に関しては、上相良氏の人吉城攻撃がきっかけになったとはいえ、相良氏庶流永留氏による宗家乗っ取りであったと見られている。すなわち、永留相良長続は薩州島津氏・豊州島津氏らの支持を受けており、堯頼を保護していた菱刈氏らも永留相良氏に協力した。長続は人吉相良庶子家を一揆として結集し、自らの基盤としていたが相良惣領となるやこれを解体している。とはいえ、結果としてこの内訌は、相良氏が戦国大名として変質を遂げる重要な画期となった。
●相良氏の居城-人吉城址
戦国大名への途
相良長続の宗家継承には暗い陰があるとはいえ、長続は多くの事蹟を残している。領内の反乱分子を制圧すると、薩摩・大隅・日向の内乱において島津氏からの応援依頼を受けて、永留大膳大夫を牛山城に派遣した。一方、菊池為邦が芦北・水俣に侵攻してくると、菊池氏に備えるというように、領外における行動も活発化した。そして、応仁元年(1467)に京都で応仁の乱が勃発すると、長続は管領細川勝元の招きに応じて上洛した。ところが、翌年病にかかり、養生も空しく死去した。庶家から出て領内を統一し、その力を領外にもおよぼした長続は戦国大名相良氏の基礎を築いた英主であったといえよう。
長続は上洛にあたって嫡男為続に家督を譲っていた。為続も父同様に細川勝元に味方して上洛したが、その後、山名方の大内氏と協力関係を結ぶようになった。応仁の乱は東西両軍の中心人物であった細川勝元と山名宗全が相次いで死去したことで、次第に鎮静化を見せるようになり、ついに文明九年(1477)に至って一応の終息をみせた。しかし、応仁の乱をもって幕府の権威は失墜し、下剋上が横行する戦国乱世へと時代は推移していった。
文明七年(1475)、相良氏の南に位置する薩摩島津氏に内訌が起り、為続は宗家忠昌に叛旗を翻した島津国久と結び、忠昌勢に攻められた菱刈氏重を支援した。同年、日向真幸院の北原氏も為続に協力姿勢を示し、牛山河原の合戦に勝利して牛山城を攻略した。戦後、島津氏から牛屎院を与えられた為続は、永留式部大輔を城に留めた。一方、為続が島津氏を支援して出陣している留守を狙って、名和顕忠が八代高田郷に侵入した。為続はただちに兵を返すと、上津留氏の応援をえて名和勢を撃退した。敗れた顕忠は為続と和睦したが、文明十四年、牛屎院に出陣した為続の留守をついてふたたび高田に侵攻した。兵を返した為続は顕忠を蹴散らし、翌年十二月、八代城攻略の兵を発した。
この陣には島津国久・菱刈氏重、天草勢からの援兵が加わり、相良勢は一挙に八代城を陥落させた。しかし、肥後守護菊池氏の許可がえられなかったため、一旦兵を引き、翌十六年改めて八代城を攻撃、ついに名和顕忠は城を捨てて八代から逃れ去った。
その後、肥後守護菊池重朝と一族の宇土為光の抗争が起こり、敗れた為光は為続を頼った。ついで、阿蘇氏にも内訌が起こると、為続は阿蘇惟憲を支援し、文明十七年、一方の阿蘇惟家と結ぶ菊池重朝と幕の平で戦い撃破した。長享元年(1487)、ふたたび重朝と馬内原で戦ってこれを破り、八代・豊福を手中におさめた為続は、為光を宇土城に復帰させた。
かくして、為続は勢力を大きく拡げたが、今度は菊池武運(能運)と対立するようになった。武運は重朝のあとを少年の身で継いだため、重臣隈部氏が謀叛を起こし、これに為続も同調した。一旦敗れた武運は、明応七年(1498)、有馬氏・宇土氏・名和氏と結び、さらに筑後・豊後の援軍を受けて挙兵、敗れた為続は八代・豊福を失って球磨・葦北の守備を図る結果となった。その後、為続は島津氏に援助を求めて頽勢挽回を期したが、ついに葦北の支配権も失って人吉城に退いた。
為続は家を継いでのち、その武略をもってよく支配領域を拡げ、和歌に通じて文人との交わりも深い文武に秀でた人物であった。しかし、晩年に至って守護菊池氏の内訌に介入して挫折に見舞われたのである。
一族の内訌
為続のあとを継いだ長毎は、父が失った八代その他に進出して着々と失地を回復していった。文亀元年(1501)、菊池能運は伯耆為光を擁する隈部忠直の謀叛によって有馬に逃れた。長毎は能運に味方し、文亀三年、八代城を攻撃した。これに能運らも援軍を寄せたため、翌永正元年(1504)、顕忠は城を渡すと去っていった。こうして、相良氏はふたたび八代を回復したが、その背景には伊東氏と島津氏との友好関係があったことも大きかった。
長毎は武勇にすぐれ、戦場では大声で将兵を叱咤督戦した。反面、学問を好み道理を重んじ、領内の政治にも意を用いた。このように、相良氏は長続─為続─長毎と明君が続き、戦国大名への階段を着々と昇っていったのである。
永正九年(1512)、長毎は長祇に家督を譲って隠退した。永正十五年、長毎が死去すると、長毎の甥で長続の嫡孫にあたる長定が謀叛を計画するようになった。長定の父頼金は長続の嫡男であったが生来の病弱であったため、弟の長毎が家督を継いだ。長定にすれば本来なら自分が嫡流であると思い、長祇に代わって相良氏の家督を望むようになったのである。大永四年(1524)、長定は葦北の国人らの支援を得て兵を挙げると城内に攻め入った。長祇は家臣に付き添われて薩摩の出水に逃れたが、長定に謀られ水俣の城に移ったところを、長定の一味犬童に囲まれ自害して果てた。
こうして長定は念願の人吉城主となったが、群臣は長定に服さず、長祇の兄弟の長唯・観音寺瑞堅らもこれを認めなかった。大永六年、兵を挙げた瑞堅は観音寺に火を放つと、人吉城内に攻め込んだ。不意を討たれた長定は夫人、子供らをともなって八代に奔った。かくして、人吉城に入った瑞堅は、はじめ兄の長唯を立てるつもりであったようだが、にわかに変心して元服するや長隆と名乗り人吉城主に収まった。
この長隆の行動を認める者は少なく、みずからを取り巻く情勢を察した長隆は城を出て永里城に立て籠った。一方、群臣に推された長唯は、一族内の実力者上村頼興をたのんだが、頼興は兄弟喧嘩に介入することを渋った。それに対して長唯は、頼興の嫡男頼重に家督を譲ることを約束して頼興を味方につけた。こうして、長唯は長隆の拠る永里城を攻撃、たちまち城は落ち長隆は自害して果て、相良氏の内訌は長唯によって収拾された。
戦国大名、相良氏
こうして、相良氏の家督となった長唯(義滋)は葦北に出兵して、長定に味方した津奈木氏、犬童氏らを一掃し、みずからの直臣を葦北の諸城に配置したのである。この一連の内紛において、長唯は一族、国人らを制圧し、結果としてかれらを家臣団として把握、戦国大名相良氏の基礎を築きあげたのである。
義滋の代、薩摩・日向・大隅では島津氏が三州統一の過程にあり、不安定な状態にあった。一方、肥後守護菊池氏は大友氏の政治介入と家臣団の下剋上によって当主がめまぐるしく代わり、その権威を大きく失墜させていた。家中を統制した義滋は肥後に力を注ぐとともに、薩摩の大口方面にも進出して武威を振るい、相良氏の最も充実した時代を作り上げた。一方、上村頼興の意向を受けて、養嗣子頼重の競争者となる人物をつぎつぎと排除していった。まず、文武に秀で葦北方面の平定に活躍した長種を粛正。ついで、上村長国の子で岡本城主の頼春を殺害した。かくして、天文十五年(1546)、義滋は家督を養子頼重(晴広)に譲ると、間もなく五十八歳で死去した。
家督を継いだ晴広は実父上村頼興の後ろ楯を得て、戦乱の時代のなかで相良氏の舵取りを誤ることはなかった。天文十九年、大友義鑑が「二階崩れの変」で死去し、義鎮が大友氏の家督となると、菊池義武が隈本城に復帰した。義鎮は叔父の義武と対立し、敗れた義武は相良晴広を頼った。晴広は義武を保護したが、義鎮の招きに応じた義武は豊後に出立、その途中で殺害された。事件後、義鎮は義武を庇護した晴広の信義を尊重したこともあって、大友氏と相良氏の外交関係にひびが入ることはなかった。
弘治元年(1555)、晴広は式目二十一条を三郡に布告した。これは、「相良氏法度」として有名なもので、一揆契状と分国法をつなぐ、いわゆる戦国大名分国法の原点に位置付けられるものといわれる。ところで、相良氏法度は晴広一人によって制定されたものではなく、三代にわたって制定されたものである。つまり、第一条から第七条までは為続が、第八条から二十条までは長毎によって、二十一条から四十一条までを晴広が制定したものであった。
晴広は戦国相良家の民治の根本を示すなど優れた治績を残したが、弘治元年(1555)、病のため八代の鷹峰城で没した。いまだ四十三際の働き盛りであった。家督を継いだ頼房(義陽)は、このとき十二歳の少年であった。
●六つ瓜に七つ引紋
島津氏との攻防
若年で家督を継いだ頼房は祖父上村頼興の後見を得ていたが、弘治三年に頼興が死去すると、一族の家督争いが起きた。頼興の二男頼孝、その弟頼堅、稲留長蔵ら三人が頼房の若年を狙って、三郡を分割しようと密謀し、それぞれの城で挙兵したのである。これに、日向真幸院の北原氏、薩摩の菱刈氏らが加担した。
頼房は老臣とはかって、まず頼堅の拠る豊福城を攻め落として頼堅を誅殺、残る二人も八代において誅殺し一族の反乱を鎮めた。ところが、永禄二年(1559)今度は人吉両奉行である東長兄と丸目頼春が対立、家中は両派に分かれ紛争に発展し、結局、丸目氏が失脚して一件落着した。
相次いだ内紛を克服した頼房は、永禄三年(1560)、伊東義祐の娘千代鞠と婚姻し、相良遠江守と称して戦国大名への道を歩み始めた。このころ、三州統一を進める薩摩の島津義久は、肥後方面での衝突を避けるため、頼房に親交の意を表わして起請文を送っている。また、同八年十一月には、阿蘇家の執政甲斐宗運と会して親交を約した。このように頼房は、近隣に相良家の威勢を示し、永禄七年には従四位下、修理大夫の官位に任じられ、将軍足利義輝の偏諱を受けて義陽と改めた。時に二十一歳、これより数年間が義陽の全盛時代であった。
薩摩の島津義久は薩摩・大隅の対抗勢力を着々と制圧し、やがて三州を統一すると隣国肥後への北進の姿勢を見せはじめた。かくして、相良氏が北上の障害となってくると、島津氏はそれまでの盟約を反故にし、両者は敵対関係となった。永禄七年、義久は真幸院の北原氏を服属させ、その居城飯野城に弟義弘を入れ、勢いのおもむくところ、球磨・葦北の国境へ進出して相良氏と戦うようになった。
一方、大口方面でも菱刈氏と結んで大口城を守る相良勢に対して、新納忠元を大口城に近い市山城に配置し、相良氏攻略の足固めをすすめた。そして、永禄十二年三月、義久の弟家久は、策略をもって大口城の相良勢を城外に誘き出し、砥上に置いた伏兵をもって挟撃した。相良勢は敗れて城将相良伊勢守以下、大口城を捨てて撤退した。義久は新納忠元を大口地頭として入城させ、以後、大口方面は島津氏の支配下に入った。
島津氏、三州を統一
薩摩の島津勢力が拡大するにつれて、国境を隣接する義陽は、豊後の大友氏への依存を強めていった。さらに、日向の伊東氏と結び、また阿蘇家の甲斐宗運と互いに誓紙を交して同盟するなど、味方の強化を図りながら、一面、島津への和議策もとっていた。
元亀三年(1572)五月、日向の伊東義祐は相良義陽と謀って、飯野城攻略の軍を起こした。飯野城を守る島津義弘は三百の小勢であり、伊東軍は三千の軍勢を擁していた。伊東軍は飯野城下を襲い、火を放って攻めたてた。対する義弘は入念に作戦を立て、小勢をもって十倍に及ぶ伊東軍を迎え撃った。結果、義弘の巧みな作戦と用兵によって伊東軍は散々に撃ち破られ、大将伊東加賀守をはじめ多くの兵が討死、伊東勢は文字どおり壊滅的敗北を喫した。このとき、義陽も援軍を率いて出陣したが、伊東軍の敗戦を知ると戦わずして球磨へ引き揚げた。
この戦いは木崎原の合戦とよばれ、日向一の勢力を誇った伊東氏は一気に衰退に転じた。以後、島津氏の伊東氏に対する攻勢が続き、天正五年十二月、ついに義祐は豊後の大友氏を頼って佐土原城から落ちていった。義祐を受け入れた大友宗麟は、義祐ら伊東一族を庇護するとともに、義祐の依頼を受けて島津征伐に乗り出した。
天正六年(1578)、宗麟は四万三千の兵を率いて日向に出陣した。そして、日向高城で島津氏と激戦を行ったが大敗、多くの将兵を一挙に失い北へ逃れたが島津軍の追撃を受け、耳川付近でさらに大敗を喫した。大友軍は潰滅し、宗隣は命からがら豊後へ逃げ帰った。
この敗戦により、さしもの勢力を誇った大友氏の威勢も衰退の途をたどることになる。ここにおいて、島津氏は薩摩・大隅・日向の三州を支配下に置き、いよいよ九州統一戦に乗り出すことになる。この時点における九州の勢力図は、薩摩の島津氏と肥前・筑後を掌握した龍造寺氏、それに斜陽の色を見せるとはいえ豊後・筑前・豊前を支配下におく大友氏が鼎立するというかたちとなった。
天正九年九月、肥後に侵攻した島津軍は相良方の重要拠点である水俣城を攻め落した。八代にいた相良義陽は島津氏に和を乞い、葦北全部を割譲し、二子を人質に出すことで和議が成立した。
相良氏、近世へ
相良氏を降した島津氏は、さらに肥後中央部への進出を図り、その途中に立ちはだかる御船の甲斐宗運を破るため、相良義陽に先陣を命じた。阿蘇攻めの先陣を命じられた義陽は、同年十二月、八百の勢を率いて八代城を出発した。義陽は阿蘇領との境にある姿婆神峠を越え、山崎村に侵入した。そして村内の響野原に本陣を置き、一隊は阿蘇氏の出城甲佐城と堅志田城に向かい、両城を攻め落とした。
これに対して宗運は、物見によって義陽が響野原に陣をとったことを聞くと「それは義陽の陣とは思えぬ、かれならば姿婆神から鬼沙川を渡らず糸石あたりに陣を布くはずだ」と言って、さらに物見に確かめさせたところ、まさしく相良義陽であった。宗運は「みずから死地を選んだとしか思えぬ」と言って、義陽の心中を思いやったという。
十二月二日の未明、宗運は鉄砲隊を先手として本隊を率い、相良勢に気付かれぬよう、密かに迂回して間道を抜け粛々と響野原へ兵を進めた。決戦の日は小雨が降り、霧が立ちこめていたという。宗運は兵を二手に分けると、相良勢を挟撃するかたちで襲いかかった。相良勢は霧のなかから突如沸き起こった喚声に仰天した。響野原はたちまち銃声が響きわたり、怒号と喚声のなかで、白刃が斬り交う修羅場と化した。戦いは宗運の奇襲戦法に応戦態勢が遅れた相良勢が敗れ、ついには大将相良義陽以下、三百余の将兵が戦死、相良勢は総崩れとなって八代方面へ潰走した。
義陽の首を見た宗運は、心ならずも島津の命に従わざるを得なかった義陽の立場に同情し、死をもって盟友に詫びていった義陽を哀悼してやまなかったという。義陽の死後、重臣の深水宗方、犬童休矣らが島津氏と交渉して嫡男忠房を補佐し、次男の長毎は出水において島津氏の人質となった。天正十三年、忠房が死去したため、長毎が家督を継ぎ、相良氏は島津氏の指揮下にあって、その九州統一戦に活躍した。
やがて、豊臣秀吉の島津征伐が開始されると、島津方として日向に出陣した。そして、秀吉が八代城に入ったとき、人吉城の留守を守っていた深水宗方は、秀吉に謁して相良氏の本領安堵を願い出て許された。長毎も日向から帰還して、秀吉に服属を誓った。こうして、相良氏は豊臣大名の一人となり、朝鮮侵略に際しては加藤清正に属して渡海、各地に戦った。慶長五年(1600)の関ヶ原の戦には、はじめ西軍にあったが、秋月種長らと東軍に転じ、本領を安堵された。かくして、相良氏は肥後人吉二万二千石を領する大名として近世に生き残ったのである。・2005年6月22日
【参考資料:新水俣市史/人吉市史/相良町史 ほか】
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
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丹波
・播磨
・備前/備中/美作
・鎮西
・常陸
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安逸を貪った公家に代わって武家政権を樹立した源頼朝、
鎌倉時代は東国武士の名字・家紋が
全国に広まった時代でもあった。
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2010年の大河ドラマは「龍馬伝」である。龍馬をはじめとした幕末の志士たちの家紋と逸話を探る…。
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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約12万あるといわれる日本の名字、
その上位を占める十の姓氏の由来と家紋を紹介。
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日本には八百万の神々がましまし、数多の神社がある。
それぞれの神社には神紋があり、神を祭祀してきた神職家がある。
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