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鍋島氏
●杏葉/四つ目結
●藤原姓少弐氏庶流*
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鍋島氏は肥前の戦国大名龍造寺隆信に仕えた直茂が有名で、肥前国佐嘉郡鍋島村より起こった。その出自については、宇多源氏系と藤原姓少弐系の二説があり必ずしも明確ではない。
鍋島氏の出自考察
宇多源氏説によれば、佐々木清綱の子に清定があって長岡三郎と称した。以後、長岡を家名として、その四代ののちの経秀が子の経直とともに肥前国に下向して肥前国佐賀郡鍋島村に土着し、鍋島をもって名字にしたという。『鍋島系図』の経秀の条には、「初め長岡、洛陽北野に住す、父子同時に肥前国に下向し、鍋島村に居住す、ここに於いて鍋島と号す」とあり、『北肥戦誌』には永徳年間(1381〜84)のことと記されている。
佐嘉郡鍋島村に土着した鍋島氏は、はじめ千葉氏に属したが、のち経直は竜造寺氏に従い佐賀郡本庄村を本貫としたという。『北肥戦誌』に「その後、千葉家を避けて龍造寺と親しくなり、本庄村に移住」とあり、系図には「応永の季、さらに下佐嘉本庄村に移り住む」と記されている。これを裏付ける史料はないが、何らかの事情があって龍造寺氏に近づいたものであろう。
一方、鍋島氏の出自をを少弐氏とする説は、大内氏と戦って敗れた少弐教頼は龍造寺氏を頼って肥前佐嘉に来て与賀に滞在した。このとき経直は教頼と知己となり、娘を教頼の妾に差し出し、二人の間に一子ができた。応仁二年(1468)、教頼が戦死したのち、経直はその男子を養育して家を譲った。これが清直で、ここに鍋島氏は藤原姓を称するようになったのなだという。清直はのちに経房と名乗り、少弐氏系の鍋島氏系図はこの経房をもって太祖としている。
このように、鍋島氏は宇多源氏であったものが、少弐氏との関係から藤原姓を称するようになった。さらに、龍造寺の跡を受けて肥前佐賀藩主となったことから、『寛政重修諸家譜』では、龍造寺氏を継いだ系図が収録されている。
少弐氏の転変
少弐教頼が戦死したのち、嫡子の頼忠は対馬の宗氏に養育され、文明九年(1469)に将軍足利義政の赦面を得て、政尚(のち政資)と称した。そして、朝鮮との貿易によって勢力を次第に回復していったが、驕慢の振る舞いが目立つようになり、ついには将軍の勘気を被り太宰府を出て肥前に移住した。政資を迎えた龍造寺氏らは、教頼ゆかりの与賀の地に居館を築き政資を奉じた。
その後、政資は次第に勢力を回復し、九州探題渋川氏を追い、東肥前を支配下においた。さらに、松浦郡に兵を動かし、伊万里・山代氏らを攻略した。このような政資の動きをみた大内氏は、将軍義尹より少弐氏討伐の命を引き出し、明応五年(1496)、みずから兵を率いて九州に渡海した。大内氏の将陶興房は少弐政資を攻め、敗れた政資は晴気城に逃れ、子の高経は勢福寺城に入った。その後、高経も晴気城に合流し大内氏に抵抗したが、ついに晴気城も落ち政資・高経父子は戦死した。
政資らが陣没したのち九歳の資元が残され、資元は横岳資貞らに養育され、永正のはじめごろに将軍から赦面を得て東肥前に旗を挙げた。資元は大内方となった江上興種を追い、龍造寺氏、千葉氏らの支援を得て渋川氏を筑後に追った。かくして、勢福寺城に復帰した資元は、将軍義稙から大宰少弐に補され、松浦党を討ち、太宰府を回復した。資元の復活をみた大内義興は、幕府に討伐を訴えたが却下され、不満を抱いたまま享禄元年(1528)に死去した。
義興のあとを継いだ義隆は将軍義晴から強引に少弐氏討伐の許しをえると、筑前守護代杉興運に命じて少弐氏を討伐させた。享禄三年、肥前に入った興運は少弐一族の朝日頼貫・横岳資貞・筑紫尚門らを降し、さらに千葉胤勝をも降して神埼郡に迫った。これに対して少弐方には、龍造寺家兼(剛忠)ら龍造寺一門、小田政光、犬塚一族、江上武種らが参じて大内勢を迎かえ撃った。
龍造寺家兼は勢福寺城を守って大内勢の先陣を破り、朝日頼貫を討ち取った。とはいえ大軍を擁する大内勢は少弐勢を追い立てて、田手畷に攻め寄せてきた。このとき、龍造寺氏の陣中にいた鍋島清久・清房父子の一隊が、赤熊をかぶって大内勢の横合いを突いた。これを何かの祭礼かと勘違いした大内勢に一瞬の隙が生まれ、これが綻びとなって大内勢は横岳資貞・筑紫尚門らが討たれ散々の態で太宰府に敗走した。
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龍造寺氏の台頭
この戦いは「田手畷の戦い」とよばれ、龍造寺氏と鍋島氏の武名を鎮西に響かせた。戦後、家兼は資元から佐嘉郡川副荘千町を与えられたが、清久の嫡男清房に本庄八十町を与えるとともに、孫娘をめあわせた。この清房と孫娘との間に生まれたのが、のちの鍋島直茂である。
大内氏の攻撃を退けた少弐資元は、大友義鑑と結んで大内氏と対峙した。対する大内義隆は、重臣の陶興房を派遣して資元を攻撃した。資元は勢福寺城に逃れ、龍造寺家兼の援助を得て大内勢を撃退することができた。度重なる敗戦に業を煮やした義隆は、みずから兵を率いて肥前に攻め込み、龍造寺家兼を懐柔して資元を降した。そして、勢福寺城を出た資元を討った。このとき、資元の嫡男冬尚は蓮池城の小田氏を頼って、雌伏の歳月を送ることになった。
その間、小田氏は少弐氏が衰退したのは龍造寺氏が大内氏に通じた結果と吹き込んだため、冬尚は龍造寺氏を恨むようになり、ついには龍造寺討伐の兵を送った。しかし、少弐氏の再興を企図する冬尚にすれば、龍造寺氏の存在はかけがえのないものであり、ついに剛忠に支援を求めた。龍造寺剛忠はこれを入れて、冬尚を勢福寺城に復帰させ、子の家門を冬尚の後見とした。
このころ、千葉氏は東西に分裂してそれぞれ少弐、大内に属して対立していた。有馬氏は千葉氏の内紛をついて小城郡を奪取しようとし、龍造寺氏は千葉氏を応援して有馬氏の攻撃を退けた。そして、少弐冬尚の弟を東千葉喜胤の養子として胤頼と名乗らせ、鍋島清房の子彦法師丸(のちの直茂=信昌・信生)を西千葉胤連の養子とし、千葉氏の内紛を収めた。その後、胤連には実子が生まれたため、胤連は彦法師丸を連れて隠居し、みずからの隠居分を彦法師丸に与えた。この所領こそが、のちに佐賀藩主となる鍋島直茂の最初の知行であった。
戦国大名、龍造寺隆信
さて、冬尚を支援した剛忠は、嫡男の家門を執政にすると同時に、馬場頼周・江上武種をその補佐とした。ところが、龍造寺一門の権勢を妬んだ馬場頼周は、龍造寺氏排斥の陰謀を企てるようになった。そして、天文十三年(1544)、頼周の謀略に図られた龍造寺一門はことごとく謀殺され、剛忠は筑後の蒲池氏を頼った。この事態に際した鍋島清久・清房父子は、与賀・本庄の武士らを糾合して剛忠の佐嘉復帰に尽力し、剛忠を水ヶ江城に迎えることに成功した。水ヶ江城に復帰した剛忠はただちに馬場氏を討ち、龍造寺氏の再起を果たしたのち八十五歳の高齢で死去した。
死に臨んだ剛忠は僧籍にあった曾孫円月を還俗させ、胤信と名乗らせてて家督に据えた。このとき、龍造寺氏の後継者を決める評定には鍋島清房も列しており、鍋島氏が龍造寺氏の重要な地位を占めていたことが知られる。水ヶ江龍造寺氏を継い胤信はだ、大内義隆に属し、その一字をもらって隆信と改めた。のちに大友・島津氏と拮抗して九州を三分し、肥前の熊と恐れられた龍造寺隆信の登場である。
この龍造寺隆信に仕えて厚い信頼を受けたのが、清房の二男直茂であった。直茂は兄の信房とともに隆信の側近として、各地の戦場で数々の功をあげた。しかし、隆信と直茂の関係は少なからず隔たりがあったようで、直茂の資質を見抜いた隆信の母慶吟尼が、二人の関係を強化するため鍋島清房に嫁いで隆信と直茂を兄弟の関係にしたことは有名な話である。以後、直茂は竜造寺隆信の老臣として活躍し、隆信の九州五カ国制覇は、直茂のすぐれた戦略・戦術に負うところが大きかった。
龍造寺家中における直茂の地位を不動のものとしたのは、元亀元年(1570)、大友氏の肥前侵攻における「今山合戦」であった。このとき、大友氏の大軍に加えて、肥前の諸将のほとんどが大友氏に味方して佐嘉城を包囲した。文字通り袋の鼠と化した龍造寺氏にあって、直茂は大友氏の本陣今山に夜襲をかけることを提案、みずから兵を率いて今山の陣を攻撃した。大軍に油断していた大友軍は、大将の大友親貞を討たれ、たちまち潰乱して敗走した。
この勝利によって龍造寺隆信は勢いを盛り返し、その後十年にして隆信は五州二島の太守にまで昇りつめるのである。これは、隆信と直茂の二人三脚の賜物であり、この間の直茂の功績は計り知れないもので、まさに龍造寺氏の柱石たりうる人物であった。ところで、龍造寺氏の家紋は、日足、剣花菱であったが、今山の合戦の勝利を記念して、以後、大友氏の杏葉を家紋として用いるようになった。それは、龍造寺氏を継承する形となった鍋島氏にも受け継がれ、近世大名鍋島氏の本紋は杏葉紋であった。
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右図:今山の合戦要図
直茂の台頭
一躍、戦国大名に成長した龍造寺隆信であったが、次第に驕慢な態度が見えるようになり、直茂はことあるごとに隆信に諫言を行った。それもあってか、直茂は柳川城に遷され、筑後の政治一切を任されるようになった。
天正十二年(1584)、隆信が有馬征伐の陣ぶれを行いみずから出陣すると聞いた直茂は、有馬氏には島津氏からの援軍もあり、直茂が先陣を賜るので隆信は出陣を見合わすようにと願った。しかし、有馬・島津連合軍を小勢とみくびった隆信は直茂の言を斥けて出陣、沖田畷の合戦に敗れて戦死した。隆信の嫡男政家は、直茂を柳川から呼び戻して戦後処理と領国政治を委任した。その後、島津氏に討ち取られた隆信の首が送り返されてきたが、直茂はその受取りをきっぱりと謝絶している。
こうして、直茂は龍造寺家の執政として、龍造寺家の頽勢挽回に尽力した。隆信を討ち取った島津氏は、九州統一を目指して北九州各地に進撃した。この情勢をみた龍造寺政家は、直茂の反対をおして島津氏に属するようになった。天正十四年、島津氏の攻勢に窮した大友宗麟は上坂して豊臣秀吉に援助を請い、秀吉の九州征伐が開始された。直茂は政家に秀吉に属することを口説き、翌年、豊臣秀吉が九州に下向してくると島津氏攻略の先陣をつとめた。
豊臣秀吉はこうした現状を踏まえ、天正十五年、いったん政家に旧領を安堵したうえで、のち三年にして政家に隠居を命じ、軍役を免除した。ここにおいて、鍋島直茂は龍造寺氏の実権を掌握したのである
以後、龍造寺氏の軍役は鍋島直茂・勝茂親子の手で進められ、文禄・慶長の朝鮮出兵において龍造寺家臣団は鍋島軍を編成し、朝鮮陣中における戦闘を通じて直茂と龍造寺家臣団の主従関係はいっそう強化された。慶長五年(1600)の関ヶ原の戦いでは、はじめ西軍に味方したが、のちに柳川の立花宗茂を討つことで旧領を保つことができた。徳川幕府が成立したのち、江戸に居住した龍造寺政家・高房父子の費用は鍋島直茂から出され、龍造寺氏の存在は有名無実なものとなっていた。
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右図:直茂の肖像
龍造寺氏にとって代わる
慶長十二年、龍造寺政家・高房が相次いで死去したことで龍造寺宗家は断絶し、龍造寺家の家督を直茂の子勝茂が相続した。このとき、諫早・武雄・多久・須古等の龍造寺一門は一致して勝茂の相続を支持し、名実ともに鍋島佐賀藩が成立することになった。しかし、勝茂は龍造寺一門の存在と意志を無視する事はできず、諫早・武雄・多久・須古の四家を加判家老として遇した。
その後、勝茂は支藩を創設し、積極的に鍋島一門を取り立て龍造寺一門の勢力を後退させ、佐賀藩磐石の基礎を築き上げた。勝茂の嫡子・忠直は早世したため、嫡孫光茂が嗣ぎ、以後、鍋島家は佐賀藩主として続き明治維新を迎えた。幕末の藩主鍋島閑叟(直正)は、薩摩の島津斉彬、宇和島の伊達宗城、土佐の山内豊信(容堂)と並んで「幕末の四賢侯」の一人に数えられた。・2005年5月11日
●鍋島氏の四つ目結紋
鍋島氏の家紋について「葉隠」のなかに、勝茂が江戸に在府していたとき、松平若狭守が「御手前様御先祖は佐々木にて御座候由、…御紋は四ツ結にて御座あるべく候。…」と尋ねた。対して勝茂は、「いかにもその通りに候、佐々木相続の紋は四ツ目結にて候」と答えたことが記されている。さらに、「葉隠」の別の項にも「鍋島御紋のこと、元来、四つ目結の由」とある。加えて小城鍋島家は、「杏葉」のほかに「隅立て四つ目結紋」を用いた。鍋島氏が佐々木氏の後裔と位置付けて、目結紋を用いたことは紛れもないことである。
【参考資料:佐賀県史/佐賀市史 ほか】
■参考略系図
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応仁の乱当時の守護大名から国人層に至るまでの諸家の家紋
二百六十ほどが記録された武家家紋の研究には欠かせない史料…
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そのすべての家紋画像をご覧ください!
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戦場を疾駆する戦国武将の旗印には、家の紋が据えられていた。
その紋には、どのような由来があったのだろうか…!?。
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日本各地に残る戦国山城を近畿地方を中心に訪ね登り、
乱世に身を処した戦国武士たちの生きた時代を城址で実感する。
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日本各地に割拠した群雄たちが覇を競いあった戦国時代、
小さな抗争はやがて全国統一への戦いへと連鎖していった。
その足跡を各地の戦国史から探る…
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丹波
・播磨
・備前/備中/美作
・鎮西
・常陸
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2010年の大河ドラマは「龍馬伝」である。龍馬をはじめとした幕末の志士たちの家紋と逸話を探る…。
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これでドラマをもっと楽しめる…ゼヨ!
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人には誰でも名字があり、家には家紋が伝えられています。
なんとも気になる名字と家紋の関係を
モット詳しく
探ってみませんか。
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どこの家にもある家紋。家紋にはいったい、
どのような意味が隠されているのでしょうか。
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