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大村氏
五瓜に剣唐花/大村日足
(大村直の後裔/藤原北家純友流)


 大村氏は、天道根命五世の孫大名草彦の子若積命が景行天皇の西征に従い、肥前国津立、すなわち彼杵、高来、藤津地方の賊を平らげ、その功により国造に補せられたものという。したがって、大村直の後裔ということになる。しかし、後年大村氏自身は紀姓を称し、また藤原純友の後裔とも称している。
 文治二年忠澄が源頼朝から、彼杵、藤津二郡の地頭職に補せられたという。もっとも郡の地頭ということではなく、二郡内の各郷などの地頭に一族が補任されたということであろうか。その後、室町以前の歴代および事跡については不明なところが多く、一説に、蒙古襲来のとき家信・家直父子が筑前博多において防戦したと伝えられる。
 南北朝時代、大村氏は南朝に属して、菊池氏らとともに、少弐氏・仁木氏らと戦ったことが知られている。
 徳純・純治あたりから次第に明確となってくるが、純前の父純伊あたりについても異説がある。純前の養子となって大村氏を継いだのは有馬晴純の子純忠である。純忠は日本初のキリシタン大名となっている。
 ところで、純前には又八郎と称する実子が一人いた。本来ならば大村の家督をつぐべき身であったが、かれは有馬晴純の仲介によって武雄の領主後藤純明のもとに養子に出され、その跡に純忠が大村家の養子に迎えられたのである。
 純忠が大村家を嗣いだ翌天文二十年に、養父の純前が死去した。一方、武雄の後藤氏の養子となった又八郎は、のちに後藤貴明と名乗り、大村家をついだ純忠に終生恨みをもちつづけ、同家の反純忠派の家臣たちと通じて、しばしば純忠を危機に陥れた。

戦国キリシタン大名、大村純忠

 元亀三年(1572)、大村純忠は深堀純賢と図った西郷純堯からの攻撃を受けた。このとき、深堀純賢は長崎氏を攻撃した。この攻撃で、深堀氏は長崎氏の館や村、教会を焼きはらったが、キリシタン武士や村落民の抵抗を潰し得なかったことで兵を引き揚げた。一方、純堯は大村純忠の戦死したとのデマが飛ぶほどに攻め立てたが、純忠は反撃によって西郷氏の兵を引き上げさせた。
 純堯は熱心な仏教徒で、キリシタンを信仰する大村純忠に反感を持っていたようだ。そして、純堯は武力によらず、計略を用いて純忠を殺害し、大村氏領を併呑しようともした。天正元年(1573)、純堯は純忠の実兄にあたる有馬義貞を手中に抑えていて、義貞に命じて純忠を誘殺しようと企んだ。しかし、義貞が弟純忠を不憫に思って純堯の謀略を知らせた。そして、純堯の純忠に対する憎悪の主な原因は純忠のキリスト入信したことであると伝え、キリシタンであることを止めれば純堯と敵対することもなくなると忠告した。
 これに対して純堯は、自分がキリシタンであることには異義を唱えないでいただきたい。自分は領国・家・家臣。および生命を失っても棄教はしない、と断固たる態度をもって答えた。
 純堯は純忠が高城城下を通るとき、自分に儀礼的訪問を行うものと確信していた。そしてかれの来るのを手ぐすねひいて待っていた。しかし、純忠は純堯の策に乗らず、純堯には病のため今回は訪問できないと伝え、城下を馬で疾駆してあやうく純堯の謀略にはまることから逃れえた。
 しかし、その後も深堀・諌早西郷氏による大村・長崎氏攻撃は断続的に行われ、その都度、大村氏は援軍を純景に送り攻撃は退けられた。天正八年(1580)の戦いでは、大村勢が百五十名で長崎氏方に来援して西郷勢を打ち破っている。このとき、深堀の兵四百は森崎に砦を構えて迎撃の態勢をとったが、長崎純景が自ら三百の兵を指揮し桜馬場城を出て森崎に向かい、そこへ大村氏からの援軍も加わり深堀の兵も打ち破った。これ以後、森崎の小山を勝山と呼ぶようになったという。これが、今日の長崎市勝山町の起源である。
 大村氏に属した長崎氏は西郷・深堀勢の攻撃をよく撃退したが、長崎の地は天正八年(1580)イエスズ会領となった。これは、大村純忠が長崎の地を教会領として寄進した結果であった。すなわち、大村氏は龍造寺氏に降ったことで、長崎の地とそこから生まれる権益が龍造寺氏の手にわたることを防ぎ、長崎の地からあがる関税徴収権などの特権を確保するため長崎の地を教会に寄進したのであった。いずれにしろ、長崎の地は教会領となったわけである。
………
大村氏の軍旗

三城七騎籠

 ところで、大村純忠を恨む武雄の後藤貴明は。元亀三年(1572)七月、純忠方の内応者の手引きによって、三城に攻め寄せてきた。この三城攻撃には、貴明の要請を受けた平戸の松浦鎮信、諌早の西郷純暁も援兵を出し、三氏連合して千五百の軍勢であった。
 一方、大村方は、突然のことで駆けつける者もいなかった。このとき、城中には城主大村純忠のほか、譜代七名の家臣がいたに過ぎなかった。この七名が「三城七騎籠」の由来となった者たちであった。だが、実際はこのほかにも、数人の武士、中間・馬取り・又者などに、純忠夫人などの女子がおり、総勢八十人が城中にいた。
 純忠はこの僅少な人数で、急ぎ防衛の手はずを整え、城内の諸所に旗を立て、女子たちに槍や長刀、旗などを持たせて城内を急がしく駆けめぐらせるなどして、城内に多くの兵がいるように見せかけた。
 寄せ手は、まず松浦勢が城の南側に押し寄せ、切岸を攻め登ろうとした。純忠は自ら士卒を下知して木石を投げかけ、女子たちに土手から灰、糠、砂などを振りまかせたので、敵はこれに閉口してひるんだ。そこを弓、鉄砲をもって射かけさせたので、松浦勢は若干の死傷者を出して、ついに退去した。西郷勢は、内応の者と協同して大手門から攻め入ろうとして大村川の橋積まで押し寄せた。
 一方、純忠は三方を敵に囲まれ、しかも家臣のなかで敵に内応する者が多く、一人も城に馳せ参じる者もなく、進退に窮した。純忠は、ついに死の覚悟を決めて最後の酒宴を開き、自ら「二人静」を謡い、宮原常陸介が立ち上がって仕舞を舞った。
 時に大村氏の旧臣に富永又助という者がいた。かれは三城に駆けつけようとしたが、籠城しても少人数では力にならぬと思い、奇計をもって敵の大将を討ちとろうとした。そして、かれは諌早勢の陣所にいき、「自分は大村家に恨みがある、先手に加わりたい」などと偽りを言って、大将に近付き、突然その高股に斬りつけて深傷を負わせ、諌早勢を混乱に陥れた。かれはその混乱に乗じて脱出し、三城に馳せ参じ、ことの次第を純忠に報告した。
 これを聞いた純忠は大いに喜び、その忠謀勇戦を激賞して自分の名の一字を与え、忠重と名乗らせた。そのうち、長岡左近・朝長壱岐をはじめ家臣たちが続々と駆けつけてきた。これを見て松浦勢も退散しはじめた。大村攻撃の首謀者後藤貴明は、諌早勢が混乱をきたし、松浦勢も撤退し、内応者もみな純忠に帰順したことを知ると、自分も兵をまとめて撤退した。
 この合戦を、のちに大村家では「三城七騎籠」と呼ぶようになった。純忠のために活躍した七名の者は、かれら自身はもちろんのこと、その子孫も永く大村家から優遇を受けた。しかし、七騎の活躍があったとはいえ、千五百もの連合軍が、女子を含めてわずか八十名の篭る城を落せなかったとは、一体どういった戦であったのだろう。

純忠の不遇と近世大名への途

 その後、龍造寺隆信に降った純忠は、隆信からの圧迫に悩まされることになる。天正九年八月、嫡子喜前を人質として佐賀に拘束され、さらに二年後、次男の純宜・三男純直の二人に息子も人質として送るように要求される。
 三人の息子を人質にとった隆信はさらに純忠に、主だった親戚の者たちも渡すように要求してきた。この者たちはみな純忠が頼みとする者たちであった。しかし、純忠は、やむなく彼等を隆信に引き渡した。すると、隆信は、別の使者をよこして、純忠に三城を出て波佐見の地にある小さく不便な場所に蟄居するように命じてきた。
 ここに至り、隆信から逃れ得ないことを悟った純忠は城から出て、波佐見に向かった。このとき、家臣を伴うことは許されなかった。この隆信の仕打ちは、あまりにも屈辱的でみじめであったため、純忠は退去に際して人目につくところを避けて、遠回りをしたという。
 隆信は純忠を三城から追放したのち、人質の喜前を三城に入れた。そして、自分の家来たちを伴わせて喜前を操り、キリシタン宗団の絶滅を狙った。大村に入ってきた隆信の家来たちは、キリシタンを殺害し、家財や妻子を奪うなど狼藉の限りを尽くした。
 こうして、大村氏を屈服させた龍造寺隆信は、同じキリシタン大名である有馬晴信に重圧をかえるようになる。晴信は先年、隆信の嫡子政家のもとへ政略として妹を嫁がせ、両家の和に心を砕いていた。しかし、領国内では隆信の残虐な仕打ちで離反する領主が増え、晴信もまた人望のない隆信を離れて島津義久の幕下となった。
 天正十二年三月、隆信は、島津氏に寝返った有馬晴信を討つため、三万の大軍を率いて島原に渡り、晴信の本拠日之江城に向かった。大村純忠も島原出兵を命じられた。純忠はやむなくこの命に応じ、嫡子喜前を出陣させ、喜前は三百余の大村勢を率いて有馬攻撃に加わった。
 この戦いは、純忠にとって同じキリシタン同士であり、しかも甥で、実家の当主でもある有馬晴信とその家臣を討つことであり、かれの苦悩は深かった。有馬攻撃に投入された大村勢は、みな有馬の勝利を祈り、隆信の部将たちから有馬軍への攻撃を命じられたときは、弾丸を抜き、空鉄砲を撃つことを申し合わせていたという。
 竜造寺隆信は、この一戦で一挙に有馬氏とキリスト教を壊滅させようとしていた。しかし、隆信の大軍は有馬・島津連合軍の巧みな作戦によって、沖田畷の戦いにおいて敗戦、隆信は戦死した。隆信の戦死で、龍造寺軍は敗走したが、大村勢は島津軍の危害も受けず、全員が武具、馬などとともに解放された。そして、純忠は隆信の死によってかろうじて大名の地位お回復し、三城に復帰した。
 その後、天正十三年、秀吉の九州征伐に際しては、秀吉に属して本領を安堵された。純忠の死後、子嘉前(喜前)が家督を継ぎ、二万七千石が安堵され、近世大名として続いた。
●大村氏は「瓜花紋」も用いた。



■参考略系図
・『鹿島市史』に掲載された系図を低本に、諸系図を併せて作成。


・バージョン1_系図


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